↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
みんぱくの小さな迷宮案内人~忘れられた宝物と、学芸員補の展示日誌~  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/14

第四話 美雨の夢

 その日の閉館まで、あと一時間。

 来館者の数もまばらになった夕方の展示室で、ほのかは美雨と一緒に、翌日の団体見学の準備をしていた。

「ほのかさん、この配布資料、ここに置いておけばいいですか」

「うん、ありがとう。あ、でも、その山、ちょっと崩れそうだから、もう少し奥に寄せてもらえる?」

「あ、はい!」

 美雨は慌てて資料の束を整え直した。

 作業をしながら、ほのかはふと、最近の美雨がいつもより口数が少ないことに気づいた。

「美雨ちゃん、なんか元気ない?」

「え? そんなことないですよ」

 美雨は、慌てて笑顔を作った。けれど、その笑顔は、いつもより少しだけ、ぎこちなかった。

「無理しなくていいよ。何かあった?」

 ほのかが、もう一度優しく尋ねると、美雨は資料の束を抱えたまま、少し俯いた。

「……実は、大学院の出願、ちょっと迷ってて。文化人類学の研究科、受けようと思ってたんですけど……志望理由書、何度書き直しても、しっくりこなくて。指導教員の候補の先生にも、『もっと具体的な問題意識を持ちなさい』って言われちゃって」

「そうなんだ……」

「私、正直、ほのかさんみたいに、展示品のこと、なんでも知ってるわけじゃないし。この博物館で働いてる意味も、最近、よくわからなくなってきちゃって」

 美雨の声は、次第に小さくなっていった。

「専門知識だけなら、榊原先生とか、九条さんの方が、ずっと詳しいじゃないですか。私に、研究者としての適性なんてあるのかなって」

 その言葉に、ほのかは思わず胸が痛くなった。それは、自分がこれまで何度も感じてきた感情と、あまりにもよく似ていたからだ。

「ちょっと、休憩しよっか」

 ほのかはそう声をかけて、美雨を事務室の給湯スペースへと誘った。

 温かいお茶を淹れながら、ほのかは美雨の隣に腰掛けた。

「美雨ちゃんが、そんなふうに悩んでたなんて、知らなかった」

「言うタイミング、なかったので」

 美雨は、湯呑みを両手で包み込みながら小さく笑った。

「ほのかさんは、迷ったことないんですか。この仕事に」

 その問いに、ほのかは少し言葉に詰まった。

「迷ったこと、いっぱいあるよ」

「え、そうなんですか?」

「うん。私、実は今でも、時々『私は補助役なので』って言っちゃうんだよね。研究者への道を諦めた自分に、引け目があって」

「ほのかさんでも、そうなんですか」

 美雨は意外そうな顔をした。

「私からしたら、ほのかさんは展示のこと全部知ってて、来館者の質問にもすぐ答えられて、すごいなあって、いつも思ってるんですけど」

「それは、ありがたいけど……」

 ほのかは少し苦笑した。

「でも、それって、研究者としての専門性とは、また違うものだから」

「違うんですか」

「うん。専門的な研究って、資料を読み込んで、論文を書いて、学会で発表して、っていう、積み重ねが必要なんだと思う。私はそういう訓練を、ちゃんと受けたことがないから」

「そうなんですね……」

「でも」

 ほのかは、少し考えてから続けた。

「私は、専門的な知識だけじゃなくて、展示品の向こうにいる『人』に興味を持つことが得意みたいで。それは、研究者としての訓練とは、別の種類の能力なんだって、最近、少しずつ思えるようになってきたの」

 美雨は、ほのかの言葉に耳を傾けていた。

「美雨ちゃんは、どうして大学院に行きたいと思ったの?」

 ほのかが尋ねると、美雨は少し考えてから答えた。

「小さい頃、家族旅行で、いろんな国の民族衣装とか、お祭りの映像を見るのが好きだったんです。それで、大学でも文化人類学を選んで」

「うん」

「でも、研究って、どんどん専門的になっていくじゃないですか。私、正直、細かい理論とか、あんまり得意じゃなくて。ゼミでも、他の学生の議論についていけないことが多くて」

「そっか」

「ほのかさんも、大学では文化人類学を専攻してたんですよね?」

「うん。私も、最初は世界のいろんな文化を知るのが楽しくて。でも、研究を続けるには、ただ好きっていうだけじゃ足りないんだなって、だんだん思うようになった」

「大学院には、行かなかったんですか?」

「進学も考えたんだけどね。卒業論文を書いているうちに、自分が本当にやりたいのは、研究そのものなのか、それとも、調べたことを誰かに伝えることなのか、分からなくなっちゃって」

「……そうだったんですね」

「卒業してからも研究職を目指して、資料整理とか調査補助の仕事をしてたんだけど、なかなか道が開けなくてね」

 ほのかは、湯呑みを両手で包み直した。

「だから、美雨ちゃんが迷ってる気持ち、少し分かる気がする」

「ほのかさんでも、迷ってたんですね」

「今でも、迷うことはあるよ。でも、ここで働いてるうちに、研究することだけが、文化を知る人の仕事じゃないんだって、思えるようになってきたの」

「……私も、そう思えるようになるのかな」

 美雨は、少し表情を明るくして続けた。

「来館者に説明するのは、好きなんです。特に、子どもたちに」

「そうだよね。美雨ちゃん、子ども対応、すごく上手だもん」

「難しい言葉を、簡単な言葉に置き換えるの、得意なんです。それに、子どもって、大人が気づかないような質問をしてくるから、それに答えるのが、なんだか楽しくて」

「それって、すごい才能だと思うよ」

 ほのかは、はっきりとそう言った。

「私、専門用語をつい並べちゃう癖があるから、小春さんによく止められるんだけど。美雨ちゃんは、最初からそれができてるじゃない」

「そうですかね……」

「うん。展示する人、研究する人、案内する人。それぞれ、違う役割があると思うの。美雨ちゃんは、案内する人としての才能が、すごくあると思う」

 美雨は、少し驚いたような表情を見せた。

「でも、それだと、研究職には向いてないってことですよね」

「向いてないんじゃなくて……」

 ほのかは、思いついたことを慎重に言葉にしていった。

「研究って、調べるだけじゃないと思うんだ」

「え?」

「調べたことを、どう伝えるか。それを専門にする人もいるよ。博物館教育とか」

「……そういう研究も、あるんですね」

「うん。美雨ちゃん、子どもたちに説明するの、好きでしょ?」

「はい。それは、すごく」

「だったら、そこから考えてみてもいいんじゃないかな」

 美雨の表情が、少しずつ明るくなっていくのが分かった。

「ほのかさん、ありがとうございます。なんか、少し、視界が開けた気がします」

「役に立てたなら、良かった」

 ほのかは微笑みながら、湯呑みに残ったお茶を飲み干した。

「でも、志望理由書、もう一回、書き直してみようと思います。今度は、『子どもたちへの伝え方』みたいな視点も、入れてみようかな」

「いいと思う。応援してるよ」


 その日の閉館後、ほのかは一人で巡回に出た。

 いつものように展示室を一周しながら、ほのかは、美雨との会話を思い返していた。

 美雨に向けた言葉は、実は、自分自身にも向けていた言葉だったのかもしれない、とふと思う。

 研究者への道が見えなくなり、別の道を選んだ自分に、ずっと引け目を感じてきた。けれど、専門性という一本道だけが、この博物館で価値を持つ道ではないのかもしれない。

「私は補助役なので」

 いつもの口癖を、ほのかはまた小さく口にしてみた。

 けれど、その響きは、以前より少しだけ軽いものになっている気がした。

 アフリカ展示室の前を通りかかったとき、ほのかはいつものチェックのために立ち止まった。

「よし、異常なし」

 仮面はいつも通り、ひっそりとそこに佇んでいた。

              ☆

 翌日の水曜日は、博物館の休館日だった。

 普段は子どもたちの声が響く展示室も、この日ばかりは静まり返っている。来館者のいない館内では、職員たちが資料の整理や展示設備の点検を進めていた。


 そして、休館日が明けた木曜日。

 団体見学の対応で、美雨は、これまでにないほど生き生きとした様子で、子どもたちの案内をしていた。

「これはね、遠い国のお祭りで使われていた道具だよ。みんなは、どんな時に使うと思う?」

 子どもたちが、口々に答える様子を、美雨は楽しそうに見守っていた。

 その姿を、少し離れた場所から見ていたほのかは小さく微笑んだ。

             ☆

 その日の閉館後、巡回に出たほのかは、展示室の隅にちらりと動く影を見つけた。

「タビ?」

 小声で呼びかけると、影はこちらをちらりと見たような気がして、すぐに柱の陰へと消えてしまった。

「今日も、いたんだ」

 ほのかは小さく笑って、いつも通りの巡回を続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。