第四話 美雨の夢
その日の閉館まで、あと一時間。
来館者の数もまばらになった夕方の展示室で、ほのかは美雨と一緒に、翌日の団体見学の準備をしていた。
「ほのかさん、この配布資料、ここに置いておけばいいですか」
「うん、ありがとう。あ、でも、その山、ちょっと崩れそうだから、もう少し奥に寄せてもらえる?」
「あ、はい!」
美雨は慌てて資料の束を整え直した。
作業をしながら、ほのかはふと、最近の美雨がいつもより口数が少ないことに気づいた。
「美雨ちゃん、なんか元気ない?」
「え? そんなことないですよ」
美雨は、慌てて笑顔を作った。けれど、その笑顔は、いつもより少しだけ、ぎこちなかった。
「無理しなくていいよ。何かあった?」
ほのかが、もう一度優しく尋ねると、美雨は資料の束を抱えたまま、少し俯いた。
「……実は、大学院の出願、ちょっと迷ってて。文化人類学の研究科、受けようと思ってたんですけど……志望理由書、何度書き直しても、しっくりこなくて。指導教員の候補の先生にも、『もっと具体的な問題意識を持ちなさい』って言われちゃって」
「そうなんだ……」
「私、正直、ほのかさんみたいに、展示品のこと、なんでも知ってるわけじゃないし。この博物館で働いてる意味も、最近、よくわからなくなってきちゃって」
美雨の声は、次第に小さくなっていった。
「専門知識だけなら、榊原先生とか、九条さんの方が、ずっと詳しいじゃないですか。私に、研究者としての適性なんてあるのかなって」
その言葉に、ほのかは思わず胸が痛くなった。それは、自分がこれまで何度も感じてきた感情と、あまりにもよく似ていたからだ。
「ちょっと、休憩しよっか」
ほのかはそう声をかけて、美雨を事務室の給湯スペースへと誘った。
温かいお茶を淹れながら、ほのかは美雨の隣に腰掛けた。
「美雨ちゃんが、そんなふうに悩んでたなんて、知らなかった」
「言うタイミング、なかったので」
美雨は、湯呑みを両手で包み込みながら小さく笑った。
「ほのかさんは、迷ったことないんですか。この仕事に」
その問いに、ほのかは少し言葉に詰まった。
「迷ったこと、いっぱいあるよ」
「え、そうなんですか?」
「うん。私、実は今でも、時々『私は補助役なので』って言っちゃうんだよね。研究者への道を諦めた自分に、引け目があって」
「ほのかさんでも、そうなんですか」
美雨は意外そうな顔をした。
「私からしたら、ほのかさんは展示のこと全部知ってて、来館者の質問にもすぐ答えられて、すごいなあって、いつも思ってるんですけど」
「それは、ありがたいけど……」
ほのかは少し苦笑した。
「でも、それって、研究者としての専門性とは、また違うものだから」
「違うんですか」
「うん。専門的な研究って、資料を読み込んで、論文を書いて、学会で発表して、っていう、積み重ねが必要なんだと思う。私はそういう訓練を、ちゃんと受けたことがないから」
「そうなんですね……」
「でも」
ほのかは、少し考えてから続けた。
「私は、専門的な知識だけじゃなくて、展示品の向こうにいる『人』に興味を持つことが得意みたいで。それは、研究者としての訓練とは、別の種類の能力なんだって、最近、少しずつ思えるようになってきたの」
美雨は、ほのかの言葉に耳を傾けていた。
「美雨ちゃんは、どうして大学院に行きたいと思ったの?」
ほのかが尋ねると、美雨は少し考えてから答えた。
「小さい頃、家族旅行で、いろんな国の民族衣装とか、お祭りの映像を見るのが好きだったんです。それで、大学でも文化人類学を選んで」
「うん」
「でも、研究って、どんどん専門的になっていくじゃないですか。私、正直、細かい理論とか、あんまり得意じゃなくて。ゼミでも、他の学生の議論についていけないことが多くて」
「そっか」
「ほのかさんも、大学では文化人類学を専攻してたんですよね?」
「うん。私も、最初は世界のいろんな文化を知るのが楽しくて。でも、研究を続けるには、ただ好きっていうだけじゃ足りないんだなって、だんだん思うようになった」
「大学院には、行かなかったんですか?」
「進学も考えたんだけどね。卒業論文を書いているうちに、自分が本当にやりたいのは、研究そのものなのか、それとも、調べたことを誰かに伝えることなのか、分からなくなっちゃって」
「……そうだったんですね」
「卒業してからも研究職を目指して、資料整理とか調査補助の仕事をしてたんだけど、なかなか道が開けなくてね」
ほのかは、湯呑みを両手で包み直した。
「だから、美雨ちゃんが迷ってる気持ち、少し分かる気がする」
「ほのかさんでも、迷ってたんですね」
「今でも、迷うことはあるよ。でも、ここで働いてるうちに、研究することだけが、文化を知る人の仕事じゃないんだって、思えるようになってきたの」
「……私も、そう思えるようになるのかな」
美雨は、少し表情を明るくして続けた。
「来館者に説明するのは、好きなんです。特に、子どもたちに」
「そうだよね。美雨ちゃん、子ども対応、すごく上手だもん」
「難しい言葉を、簡単な言葉に置き換えるの、得意なんです。それに、子どもって、大人が気づかないような質問をしてくるから、それに答えるのが、なんだか楽しくて」
「それって、すごい才能だと思うよ」
ほのかは、はっきりとそう言った。
「私、専門用語をつい並べちゃう癖があるから、小春さんによく止められるんだけど。美雨ちゃんは、最初からそれができてるじゃない」
「そうですかね……」
「うん。展示する人、研究する人、案内する人。それぞれ、違う役割があると思うの。美雨ちゃんは、案内する人としての才能が、すごくあると思う」
美雨は、少し驚いたような表情を見せた。
「でも、それだと、研究職には向いてないってことですよね」
「向いてないんじゃなくて……」
ほのかは、思いついたことを慎重に言葉にしていった。
「研究って、調べるだけじゃないと思うんだ」
「え?」
「調べたことを、どう伝えるか。それを専門にする人もいるよ。博物館教育とか」
「……そういう研究も、あるんですね」
「うん。美雨ちゃん、子どもたちに説明するの、好きでしょ?」
「はい。それは、すごく」
「だったら、そこから考えてみてもいいんじゃないかな」
美雨の表情が、少しずつ明るくなっていくのが分かった。
「ほのかさん、ありがとうございます。なんか、少し、視界が開けた気がします」
「役に立てたなら、良かった」
ほのかは微笑みながら、湯呑みに残ったお茶を飲み干した。
「でも、志望理由書、もう一回、書き直してみようと思います。今度は、『子どもたちへの伝え方』みたいな視点も、入れてみようかな」
「いいと思う。応援してるよ」
その日の閉館後、ほのかは一人で巡回に出た。
いつものように展示室を一周しながら、ほのかは、美雨との会話を思い返していた。
美雨に向けた言葉は、実は、自分自身にも向けていた言葉だったのかもしれない、とふと思う。
研究者への道が見えなくなり、別の道を選んだ自分に、ずっと引け目を感じてきた。けれど、専門性という一本道だけが、この博物館で価値を持つ道ではないのかもしれない。
「私は補助役なので」
いつもの口癖を、ほのかはまた小さく口にしてみた。
けれど、その響きは、以前より少しだけ軽いものになっている気がした。
アフリカ展示室の前を通りかかったとき、ほのかはいつものチェックのために立ち止まった。
「よし、異常なし」
仮面はいつも通り、ひっそりとそこに佇んでいた。
☆
翌日の水曜日は、博物館の休館日だった。
普段は子どもたちの声が響く展示室も、この日ばかりは静まり返っている。来館者のいない館内では、職員たちが資料の整理や展示設備の点検を進めていた。
そして、休館日が明けた木曜日。
団体見学の対応で、美雨は、これまでにないほど生き生きとした様子で、子どもたちの案内をしていた。
「これはね、遠い国のお祭りで使われていた道具だよ。みんなは、どんな時に使うと思う?」
子どもたちが、口々に答える様子を、美雨は楽しそうに見守っていた。
その姿を、少し離れた場所から見ていたほのかは小さく微笑んだ。
☆
その日の閉館後、巡回に出たほのかは、展示室の隅にちらりと動く影を見つけた。
「タビ?」
小声で呼びかけると、影はこちらをちらりと見たような気がして、すぐに柱の陰へと消えてしまった。
「今日も、いたんだ」
ほのかは小さく笑って、いつも通りの巡回を続けた。




