第三話 補助役なので
「小宮さん、アメリカ展示室のケース、照明が切れてるって連絡来てます」
「はい、すぐ行きます」
月曜日の朝礼が終わるなり、展示課の若手職員から声をかけられ、ほのかは点検表を手に展示室へ向かった。
設備担当者と照明の状態を確認し、交換作業が終わったところで、今度は鳴海から声がかかった。
国立民族学博物館の展示課は、常に何かしらの仕事に追われている。展示品の点検、照明の交換、来館者からの問い合わせ対応、資料の整理、そして研究員たちから飛んでくる細々とした頼まれごと。ほのかは契約職員として、その全部を器用にこなしていた。
「小宮さん、これもお願いできますか。次の企画展の解説パネル、下書きを見てもらえる? 一般の来館者にも分かりやすいかどうか、確認してほしいの」
「わかりました」
「助かるわ。小宮さんって、専門的な内容を噛み砕くの、本当に上手だから」
鳴海は明るい笑顔でそう言うと、肩にかかる髪を軽く払った。きちんとしたジャケット姿でありながら、その動きにはどこか親しみやすさがあった。そのまま、次の打ち合わせへと足早に向かっていく。
(噛み砕くのが上手、か……)
それは、研究者としての専門性ではなく、あくまで補助的な能力として評価されている、ということでもある。
「私は補助役なので」
その言葉を使えば、責任の重さから、少しだけ逃げられる気がしていたのかもしれない。
☆
昼過ぎ、ほのかは来館者対応のシフトに入った。
「すみませーん、これ何の道具ですか」
社会科見学に来た小学生の男の子が、展示ケースを指差して聞いてくる。
「これはね、アフリカのある地域で使われていた、お祭りのときの仮面だよ」
「なんでこんな顔してるの?」
「良い質問だね。この仮面はね、亡くなった人たちと、今生きている人たちをつなぐ役割があるって言われてるの。だから、ちょっと不思議な顔に見えるかもしれないね」
「へえー! こわくないの?」
「こわいものじゃなくて、むしろ、大切な人を思い出すためのものなんだよ」
男の子は「ふーん」と言いながらも、しばらく仮面を見上げていた。母親らしき女性が「すみません、ありがとうございます」と頭を下げる。
「いえいえ。何かあれば、いつでも聞いてください。あ、そうだ。この近くにも、ちょっと面白い仮面があるんだよ。よかったら見ていく?」
「えっ、どこ?」
「あっちのケース。よく見ると、目の形が全然違うの。それには理由があってね――」
そこまで言いかけて、ほのかははっとした。
(また、やっちゃった)
展示の話になると、つい説明が長くなる。以前も小春に「小宮さん、そろそろ次の仕事があるよ」と呼び戻されたことがあった。
「ごめんね。ちょっと話しすぎちゃった」
「ううん! もっと聞きたい!」
男の子の無邪気な返事に、ほのかは思わず頬を緩めた。
こういう瞬間が、ほのかは好きだった。展示品の話をして、誰かの「知りたい」に応えられたとき、自分がここにいる意味を感じられる気がする。
けれど、それと同時に、こうも思ってしまう。
(これは、研究じゃない。ただの案内だ)
夕方近く、事務室に戻ると、非常勤案内スタッフの篠崎美雨が、資料を整理しながらぼやいていた。耳の下あたりで切りそろえた髪が、動くたびに軽く揺れる。二十三歳。ほのかより一つ年下で、明るく人懐っこい性格をしている。
「はあ……今日の団体さん、質問がすごい多くて。半分くらい、答えられなかったです」
「お疲れさま。どんな質問だった?」
「えっと、南米の織物の染料が何でできてるかとか、あと、あの仮面の目の穴の意味とか」
「ああ、それなら」
ほのかは、記憶をたどりながら答えていく。染料の原料、仮面の目の意匠が持つ象徴的な意味、地域による違い。すらすらと言葉が出てくるのを、美雨は目を丸くして聞いていた。
「すごい。ほのかさん、本当に何でも知ってますね」
「そんなことないよ。展示のことだけだし、それも……」
「いやいや、それがすごいんですって」
美雨は身を乗り出すようにして続けた。
「私、大学院目指してるんですけど、専門的な知識だけならまだしも、それを来館者に分かりやすく伝えるのって、全然別の力じゃないですか。ほのかさんって、展示のことなら何でも知ってますよね。研究員の先生たちより、聞きやすいっていうか」
悪気のない、素直な言葉だった。
美雨自身は、それをただの世間話として口にしただけなのだろう。けれど、その言葉は、思いのほかほのかの中に残った。
「……そう、かな」
「そうですよ! 私、いつもほのかさんに聞いた方が早いって思ってます」
美雨はそう言って、屈託なく笑った。
その日の帰り道、ほのかは自転車を押しながら、美雨の言葉を何度も思い返していた。
研究員より聞きやすい。
何でも知っている。
それは、研究者としての評価ではない。けれど、確かに、誰にも真似できないものだという気もした。
「私は補助役なので、か……」
いつもの口癖を、今日はなんだか、そのまま飲み込む気になれなかった。
☆
翌日、研究部のオフィスに立ち寄ると、九条がまた書類の山に埋もれていた。
「九条さん、お疲れさまです」
「……ああ」
顔も上げずに返事をする九条に、ほのかはふと聞いてみたくなった。
「九条さんは、研究者になりたいって、いつから思ってたんですか?」
「急にどうした」
「いえ、なんとなく」
九条は少し考えてから答えた。
「学部の頃、フィールドワークで見た祭礼の記録が、ほとんど残ってないことに気づいてな。誰が、何のために、その儀礼をやっていたのか。今のうちに記録しておかないと、消えてしまうものがあると思った」
「……そうなんですね」
「お前は?」
「私は……」
言いかけて、ほのかは口ごもった。
「私は、研究者になるのを諦めたので」
「それは聞いてない」
九条は珍しく、書類から顔を上げてこちらを見た。
「なりたかった理由を聞いている」
ほのかは少し驚いて、それから小さく答えた。
「展示品を見た人が、少しでも何かを持って帰ってくれたら嬉しいな、って。そう思ったのが最初でした」
「なら、今もそれをやってるんじゃないのか」
その一言に、ほのかは何も返せなかった。
九条は再び書類に視線を戻し、それきり何も言わなかった。けれど、その短いやり取りは、ほのかの中に、小さな灯りのように残った。




