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みんぱくの小さな迷宮案内人~忘れられた宝物と、学芸員補の展示日誌~  作者: 明石竜


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2/10

第二話 鳴らないはずの太鼓

 翌朝、ほのかは出勤するなり、研究部のオフィスへ向かった。

 ノックをして中を覗くと、書類の山に埋もれるようにして、九条智之がノートパソコンを睨みつけていた。

「九条さん、おはようございます」

「……ああ」

 顔も上げずに返事をする。相変わらずのデスクだった。論文の抜き刷り、フィールドノート、コーヒーの空き缶。どこに何があるのか、本人以外にはまず分からない。

「あの、ちょっとご相談が」

「相談? 珍しいな、小宮が」

 ようやく顔を上げた九条は、二十八歳という年齢のわりに、目の下にうっすらと隈を作っていた。短く整えた黒髪に、細いフレームの眼鏡。研究室に籠もる時間が長いせいか、どこか疲れた印象がある。けれど、眼鏡の奥の目だけは、いつも鋭かった。文化人類学、特に祭礼具や仮面文化を専門とする若手研究員で、海外でのフィールドワーク経験も豊富だと聞いている。頭の回転が速く、合理主義。怪異のような話には、まず取り合わないタイプだ。

 だからこそ、ほのかは少し迷ってから切り出した。

「昨日の夜、閉館後にオセアニア展示室を巡回してたら、太鼓が鳴ったんです」

「太鼓?」

「はい。あの、大きい方の。誰も近くにいなかったのに、二回」

 九条は眉を寄せた。

「振動じゃないのか。空調とか、近くを大型車両が通ったとか」

「私も最初はそう思ったんですけど、警備員さんに映像も確認してもらって。人も動物も、映ってなかったんです」

「機材の誤作動、あるいは経年劣化による自然な鳴動……」

 九条はぶつぶつと呟きながら、すでにメモを取り始めている。合理主義者らしい反応に、ほのかは思わず苦笑した。

「九条さん。この太鼓、誰も触ってないんですけど」

「……そこは今から調べる」

 そう言うと、九条は立ち上がり、上着も羽織らずにオフィスを出ようとした。

「あ、待ってください、私も」

「お前が発見者だろう。当然だ」

 二人は展示課の巡回記録を確認し、その足でオセアニア展示室へ向かった。

 昼間の展示室は、昨夜とはまるで別の場所のようだった。子どもたちが太鼓の前で足を止め、「これ何?」「おっきい太鼓!」と親にせがんでいる。ほのかはその光景を横目に、展示ケースに近づいた。

「見た目は普通だな」

 九条はしゃがみ込み、ケースの脚部や固定金具を確認していく。

「振動センサーの記録は?」

「展示課で確認します。ただ、あの太鼓、常設展示なので、そもそもセンサーがついてないかもしれません」

「面倒だな……」

 九条は展示解説パネルに視線を移した。

「この太鼓の由来は?」

「オセアニアの、ある島の共同体で使われていたものです。集会や祭礼のときに叩かれた、と」

「祭礼、ね。曖昧な表現だ」

 九条は手帳にメモを取りながら、収蔵資料室で詳しい記録を確認しようと提案した。


 午後、二人は収蔵資料室にこもり、太鼓に関する古い調査報告書を引っ張り出した。分厚いファイルをめくっていくと、ほのかは一枚の資料に目を留めた。

「九条さん、これ見てください」

 そこには、現地でのフィールドワークをもとにした記述があった。

 その太鼓は、単なる集会の合図としてだけでなく、共同体の中で対立や仲違いが起きたとき、和解の儀礼の中で打ち鳴らされてきたものだという。

 報告書には、儀礼が行われた集落の様子も記されていた。

 家々の間に設けられた広場に人々が集まり、太鼓の音を合図に、争いの当事者たちが向かい合う。双方の話を聞くのは、集落の年長者だけではない。家族や近隣の人々も、その場に立ち会ったという。

 太鼓は単に儀礼の始まりを知らせるものではなかった。音を聞いて集まった人々が、対立の終わりをともに見届けるための道具でもあった。

「仲直りのための太鼓、か」

 九条はしばらく資料を読み込み、顎に手をやった。

「面白い記述だが、それが今回の音と関係しているという根拠にはならないな」

「そうなんですけど……」

 ほのかは、そこでふと、あることに気づいた。

「そういえば九条さん、最近、鳴海さんと榊原先生、なんだかぎくしゃくしてませんか」

「……気づいてたのか」

 九条は珍しく、少し言いにくそうな顔をした。

 展示課主任の鳴海千景と、研究部教授の榊原進一。ほのかの直属の上司である鳴海は明るく世話好きで、展示の企画や施工など実務に強い。一方の榊原は、世界各地の祭礼文化研究の第一人者で、厳格な研究者気質だ。

 どうやら、次の企画展の方向性をめぐって、二人の間で意見が割れているらしい。榊原は文化的価値の正確な記録を最優先すべきだと主張し、鳴海は来館者に伝わりやすい展示を優先すべきだと譲らない。ここ数日、廊下ですれ違うたびに、微妙な空気が流れているのを、ほのかも感じていた。

「まさか、それとこの太鼓が関係してるって言うんじゃないだろうな」

「わからないです。でも……」

 ほのかは資料をもう一度見つめた。

「もし、この太鼓が本当に何か『想い』を持っているんだとしたら、今、この博物館で起きてる小さな仲違いに反応してるのかもしれない、って思って」

「非科学的な仮説だ」

「はい。九条さんには納得してもらえないと思います」

「……だが」

 九条は腕を組み、しばらく黙り込んだ。

「否定できる根拠もない、というのが正確なところだな。今のところは」


 その日の夕方、閉館後のオセアニア展示室に、ほのかと九条は再び立っていた。

「本当にまた鳴るのか?」

「わかりません。でも、確かめないと」

 二人は太鼓の前で待った。展示室は静まり返り、時折、空調の音だけが響く。

 三十分ほど経った頃だろうか。

 どん。

 低い音が響いた。

 九条の肩がわずかに跳ねる。

「……今のは」

「ほら! やっぱり!」

 ほのかは声を上げかけて、慌てて口を押さえた。

 太鼓の前には、やはり誰もいない。けれど、確かに音は鳴った。

「振動計を持ってくればよかったな」

 九条は冷静さを取り戻そうとするように呟きながらも、その声はわずかに上ずっていた。

 ほのかは、太鼓に向かって冷静に語りかけた。

「あなたは、誰かに仲直りしてほしくて、鳴ってるんですか?」

 返事はない。けれど、太鼓の音は、それ以上鳴らなかった。

 代わりに――。

「あ」

 展示ケースの陰から、小さな影がすっと現れた。

 猫とも犬ともつかない、輪郭のぼんやりとしたあの影。

「タビ!」

 思わず、昨日つけた名前を呼んでいた。

「九条さん、見てください、あそこ!」

「どこだ」

 九条が視線を向けたときには、影はすでに柱の向こうへと消えていた。

「……何もいないが」

「今、いたんです! 昨日も見た、あの影です!」

「見間違いだろう」

「見間違いにしては、二回とも同じ場所に現れてます」

 九条は釈然としない表情のまま、それでも柱の陰まで足を運んで確認していた。

 その様子を見て、ほのかは小さく笑ってしまった。

「九条さんも、ちょっとは気になるんですね」

「……調査だ」

 むすっとした答えが返ってくる。


 二人でオセアニア展示室を出て、事務室へ戻ろうとしたときだった。

「タビ、か」

 九条がぽつりと呟いた。

「さっき、あの影をそう呼んでたな」

「はい。私が勝手につけた名前です。展示室から展示室へ、旅をするみたいに動いてたので」

「……なるほどな。呼びやすい名前だとは思う」

 それだけ言うと、九条はさっさと先に歩いていってしまう。

 その背中を追いながら、ほのかはオセアニア展示室の方をもう一度振り返った。

 どこかで、小さな影がこちらを見ている気配がした。

            ☆

 鳴海と榊原の間にあった小さな衝突は、翌日には自然と収まっていたらしい。企画展の方向性についても、双方の意見を取り入れる形で落ち着いたと、後になって聞いた。

 もちろん、それが太鼓のおかげだと証明する術はない。

 けれど、ほのかは、あの太鼓が確かに何かを伝えようとしていたのだと、心のどこかで感じていた。

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