第二話 鳴らないはずの太鼓
翌朝、ほのかは出勤するなり、研究部のオフィスへ向かった。
ノックをして中を覗くと、書類の山に埋もれるようにして、九条智之がノートパソコンを睨みつけていた。
「九条さん、おはようございます」
「……ああ」
顔も上げずに返事をする。相変わらずのデスクだった。論文の抜き刷り、フィールドノート、コーヒーの空き缶。どこに何があるのか、本人以外にはまず分からない。
「あの、ちょっとご相談が」
「相談? 珍しいな、小宮が」
ようやく顔を上げた九条は、二十八歳という年齢のわりに、目の下にうっすらと隈を作っていた。短く整えた黒髪に、細いフレームの眼鏡。研究室に籠もる時間が長いせいか、どこか疲れた印象がある。けれど、眼鏡の奥の目だけは、いつも鋭かった。文化人類学、特に祭礼具や仮面文化を専門とする若手研究員で、海外でのフィールドワーク経験も豊富だと聞いている。頭の回転が速く、合理主義。怪異のような話には、まず取り合わないタイプだ。
だからこそ、ほのかは少し迷ってから切り出した。
「昨日の夜、閉館後にオセアニア展示室を巡回してたら、太鼓が鳴ったんです」
「太鼓?」
「はい。あの、大きい方の。誰も近くにいなかったのに、二回」
九条は眉を寄せた。
「振動じゃないのか。空調とか、近くを大型車両が通ったとか」
「私も最初はそう思ったんですけど、警備員さんに映像も確認してもらって。人も動物も、映ってなかったんです」
「機材の誤作動、あるいは経年劣化による自然な鳴動……」
九条はぶつぶつと呟きながら、すでにメモを取り始めている。合理主義者らしい反応に、ほのかは思わず苦笑した。
「九条さん。この太鼓、誰も触ってないんですけど」
「……そこは今から調べる」
そう言うと、九条は立ち上がり、上着も羽織らずにオフィスを出ようとした。
「あ、待ってください、私も」
「お前が発見者だろう。当然だ」
二人は展示課の巡回記録を確認し、その足でオセアニア展示室へ向かった。
昼間の展示室は、昨夜とはまるで別の場所のようだった。子どもたちが太鼓の前で足を止め、「これ何?」「おっきい太鼓!」と親にせがんでいる。ほのかはその光景を横目に、展示ケースに近づいた。
「見た目は普通だな」
九条はしゃがみ込み、ケースの脚部や固定金具を確認していく。
「振動センサーの記録は?」
「展示課で確認します。ただ、あの太鼓、常設展示なので、そもそもセンサーがついてないかもしれません」
「面倒だな……」
九条は展示解説パネルに視線を移した。
「この太鼓の由来は?」
「オセアニアの、ある島の共同体で使われていたものです。集会や祭礼のときに叩かれた、と」
「祭礼、ね。曖昧な表現だ」
九条は手帳にメモを取りながら、収蔵資料室で詳しい記録を確認しようと提案した。
午後、二人は収蔵資料室にこもり、太鼓に関する古い調査報告書を引っ張り出した。分厚いファイルをめくっていくと、ほのかは一枚の資料に目を留めた。
「九条さん、これ見てください」
そこには、現地でのフィールドワークをもとにした記述があった。
その太鼓は、単なる集会の合図としてだけでなく、共同体の中で対立や仲違いが起きたとき、和解の儀礼の中で打ち鳴らされてきたものだという。
報告書には、儀礼が行われた集落の様子も記されていた。
家々の間に設けられた広場に人々が集まり、太鼓の音を合図に、争いの当事者たちが向かい合う。双方の話を聞くのは、集落の年長者だけではない。家族や近隣の人々も、その場に立ち会ったという。
太鼓は単に儀礼の始まりを知らせるものではなかった。音を聞いて集まった人々が、対立の終わりをともに見届けるための道具でもあった。
「仲直りのための太鼓、か」
九条はしばらく資料を読み込み、顎に手をやった。
「面白い記述だが、それが今回の音と関係しているという根拠にはならないな」
「そうなんですけど……」
ほのかは、そこでふと、あることに気づいた。
「そういえば九条さん、最近、鳴海さんと榊原先生、なんだかぎくしゃくしてませんか」
「……気づいてたのか」
九条は珍しく、少し言いにくそうな顔をした。
展示課主任の鳴海千景と、研究部教授の榊原進一。ほのかの直属の上司である鳴海は明るく世話好きで、展示の企画や施工など実務に強い。一方の榊原は、世界各地の祭礼文化研究の第一人者で、厳格な研究者気質だ。
どうやら、次の企画展の方向性をめぐって、二人の間で意見が割れているらしい。榊原は文化的価値の正確な記録を最優先すべきだと主張し、鳴海は来館者に伝わりやすい展示を優先すべきだと譲らない。ここ数日、廊下ですれ違うたびに、微妙な空気が流れているのを、ほのかも感じていた。
「まさか、それとこの太鼓が関係してるって言うんじゃないだろうな」
「わからないです。でも……」
ほのかは資料をもう一度見つめた。
「もし、この太鼓が本当に何か『想い』を持っているんだとしたら、今、この博物館で起きてる小さな仲違いに反応してるのかもしれない、って思って」
「非科学的な仮説だ」
「はい。九条さんには納得してもらえないと思います」
「……だが」
九条は腕を組み、しばらく黙り込んだ。
「否定できる根拠もない、というのが正確なところだな。今のところは」
その日の夕方、閉館後のオセアニア展示室に、ほのかと九条は再び立っていた。
「本当にまた鳴るのか?」
「わかりません。でも、確かめないと」
二人は太鼓の前で待った。展示室は静まり返り、時折、空調の音だけが響く。
三十分ほど経った頃だろうか。
どん。
低い音が響いた。
九条の肩がわずかに跳ねる。
「……今のは」
「ほら! やっぱり!」
ほのかは声を上げかけて、慌てて口を押さえた。
太鼓の前には、やはり誰もいない。けれど、確かに音は鳴った。
「振動計を持ってくればよかったな」
九条は冷静さを取り戻そうとするように呟きながらも、その声はわずかに上ずっていた。
ほのかは、太鼓に向かって冷静に語りかけた。
「あなたは、誰かに仲直りしてほしくて、鳴ってるんですか?」
返事はない。けれど、太鼓の音は、それ以上鳴らなかった。
代わりに――。
「あ」
展示ケースの陰から、小さな影がすっと現れた。
猫とも犬ともつかない、輪郭のぼんやりとしたあの影。
「タビ!」
思わず、昨日つけた名前を呼んでいた。
「九条さん、見てください、あそこ!」
「どこだ」
九条が視線を向けたときには、影はすでに柱の向こうへと消えていた。
「……何もいないが」
「今、いたんです! 昨日も見た、あの影です!」
「見間違いだろう」
「見間違いにしては、二回とも同じ場所に現れてます」
九条は釈然としない表情のまま、それでも柱の陰まで足を運んで確認していた。
その様子を見て、ほのかは小さく笑ってしまった。
「九条さんも、ちょっとは気になるんですね」
「……調査だ」
むすっとした答えが返ってくる。
二人でオセアニア展示室を出て、事務室へ戻ろうとしたときだった。
「タビ、か」
九条がぽつりと呟いた。
「さっき、あの影をそう呼んでたな」
「はい。私が勝手につけた名前です。展示室から展示室へ、旅をするみたいに動いてたので」
「……なるほどな。呼びやすい名前だとは思う」
それだけ言うと、九条はさっさと先に歩いていってしまう。
その背中を追いながら、ほのかはオセアニア展示室の方をもう一度振り返った。
どこかで、小さな影がこちらを見ている気配がした。
☆
鳴海と榊原の間にあった小さな衝突は、翌日には自然と収まっていたらしい。企画展の方向性についても、双方の意見を取り入れる形で落ち着いたと、後になって聞いた。
もちろん、それが太鼓のおかげだと証明する術はない。
けれど、ほのかは、あの太鼓が確かに何かを伝えようとしていたのだと、心のどこかで感じていた。




