第一話 みんぱくの迷子
※この物語は実在の国立民族学博物館を参考にしていますが、登場する人物・展示資料・館内構造・出来事、職員の採用制度などはフィクションです。
博物館という場所は、開館している時間より、閉館してからのほうが少しだけ不思議に見える。
「よし。オセアニア、異常なし」
小宮ほのかは手元のチェック表に丸をつけ、顔を上げた。肩に届く黒髪は、仕事の邪魔にならないよう、後ろでひとつに結んでいる。淡い色のブラウスに紺色のカーディガンという、動きやすさを優先した服装だった。首から下げた職員証が、歩くたびに小さく揺れる。
閉館後の国立民族学博物館は静かだった。
昼間なら、世界各地の仮面を見上げる子どもたちの声や、展示解説を読む来館者の足音が絶えない。それが今は、広い展示室に自分の靴音だけが響いている。
照明は、通路の要所を残して落とされていた。展示ケースのガラスが薄暗がりの中で青白い光をぼんやりと集めている。空調が、低く、途切れることなく唸っていた。時折、建物のどこかで、ぱきん、と乾いた音が鳴る。木の展示品が、温度の変化に身じろぎする音だ。
ほのかは、この時間が嫌いではなかった。
むしろ、少し好きだった。
オセアニア展示室の壁際には、色鮮やかな羽根飾りや、貝殻を連ねた首飾りが並んでいる。ガラスの向こうで、それらは昼間とは違う顔をしていた。人の視線から解き放たれて、ようやく肩の力を抜いているように見える。
「今日も一日、お疲れさまでした」
誰に言うでもなく、展示ケースの中の民具へ小さく声をかける。
もし九条さんに聞かれたら、また「展示品に挨拶する職員はお前くらいだ」と呆れられるだろう。研究部の若手研究員で、合理主義の塊のような人だ。ほのかがどれだけ熱心に展示の話をしても、「根拠は」の一言であっさり切り返してくる。
けれど、ほのかにとって、ここに並んでいるものはただの古い道具ではなかった。
誰かが使って、誰かが大切にして、海を越えて、今ここにいる。
そう考えると、無言で通り過ぎるほうが、なんとなく落ち着かないのだ。
大学では文化人類学を専攻し、卒業論文では、祭礼に使われる仮面と共同体の関係について書いた。卒業後も研究職を目指したが、その門は狭く、なかなか思うようにはいかなかった。
資料整理や調査補助の仕事を転々とした末、七月にこの博物館へ契約職員として採用された。それから、もうすぐ二年になる。
所属は展示課。肩書きは学芸員補。研究員たちを支えながら、展示品の点検や資料整理、来館者への案内などを担当している。
「私は補助役なので」
それが、いつの間にか口癖になっていた。
けれど、ほのかには、一つだけ誰にも負けないものがあった。
入職して最初の三か月、ほのかは休憩時間のたびに館内を歩き回った。配置図に手書きのメモを書き込み、ケースの前で目を閉じては、中身を思い出す練習をした。誰に頼まれたわけでもない。ただ、この場所を知りたかったのだ。
この博物館の展示品の配置をほとんど全部、覚えていること。どの展示室の、どのケースの、どの棚に何がどんな向きで置かれているか。それが数センチずれただけでも、なぜか気づいてしまう。便利なような、少し困るような不思議な癖だった。
今日のほのかの担当は、閉館後の展示品の最終点検だった。その後の館内警備は、警備担当者に引き継ぐことになっている。
「次はアメリカ展示室っと……」
ほのかが歩き出そうとした、そのときだった。
視界の端を、小さな何かが横切った。
「……え?」
足を止める。
猫。
そう思った。けれど、ここは博物館の展示室である。
「いやいや。猫は入ってこないでしょ」
自分に言い聞かせながら、ほのかは影が消えたケースの向こうへ回り込んだ。床のリノリウムが靴底で、きゅ、と鳴る。
誰もいない。ケースの下を覗き込んでも、柱の陰を確かめても、あるのは静かな暗がりだけだった。
「見間違いかな……」
そう呟いて、体を起こした、その直後。
どん。
低い音が、展示室の奥から響いた。
ほのかの肩が跳ねる。
もう一度。
どん。
それは、展示されている大きな太鼓の音だった。
もちろん、誰も叩いてはいなかった。
ほのかはその場に立ち尽くしたまま、しばらく息を止めていた。
太鼓は、オセアニアの祭礼で使われていたものだ。木をくり抜いた胴に動物の皮を張った、見上げるほど大きな太鼓だった。ほのかの背丈ほどもあるその胴は、展示ケースの中でいつも通りの位置に、いつも通りの角度でひっそりと置かれている。解説パネルには「共同体の集会や儀礼の際に打ち鳴らされた」と書かれていた。
もちろん、誰かが叩けるような場所ではない。ケースには鍵がかかっている。そして何より、この展示室には今、自分以外誰もいないのだ。
ケースのガラスには、自分の顔がぼんやりと映り込んでいる。その向こうで、太鼓の皮の表面が非常灯の緑を鈍く跳ね返していた。叩かれた痕跡のように見える細かな傷が、いくつも刻まれている。長い年月、誰かの手がこの皮を打ち続けてきたのだ。
ほのかは、掌にじっとりと汗をかいていることに気づいた。
「……防犯カメラ、確認しよう」
声に出すと、少しだけ落ち着いた。チェック表を胸に抱え直し、警備室へつながる内線の場所を思い出しながら、足早に歩き出す。
警備室では、当直の警備員が眠そうな顔でモニターの前に座っていた。
「すみません、展示課の小宮です。オセアニア展示室の映像、確認させてもらえますか」
「ああ、はい。何かありました?」
「太鼓が……鳴ったような気がして」
「太鼓?」
警備員は一瞬、怪訝そうな顔をしたが、それでも、手際よく映像を巻き戻してくれた。画面の中で、薄暗い展示室が無言のまま流れていく。ほのかが入ってくる姿。チェック表に丸をつける姿。振り返る姿。
そして、太鼓の前は、ずっと無人だった。
「人影も、動物も、映ってないですね。虫くらいなら、反応しないこともありますけど、太鼓が鳴るほどの振動って話になると……ちょっと、僕にも、分からないです」
警備員は少し気遣うような目で、ほのかを見た。
「地震計にも、反応はないですね。……小宮さん、最近、残業続きでしょう。疲れてるのかもしれませんよ」
「ですよね……。すみません、夜分に」
「いえいえ。何かあったら、また呼んでください」
礼を言って警備室を出ると、ほのかは少しの間、廊下に立ち尽くした。
説明のつかないことが起きている。けれど、その正体を自分の目で確かめないまま、今夜を終わらせる気にはなれなかった。
オセアニア展示室へもう一度、戻ってみることにした。
怖くないと言えば、嘘になる。それでも、確かめたい気持ちの方が強かった。
展示室の入口を抜けると、空気が先ほどよりも少しだけ、ひんやりしているような気がした。薄闇の中に、大きな太鼓の輪郭がいつもより少しだけ大きく浮かんでいる。
「太鼓さん。さっきの、あなたですか」
答えが返ってくるはずもないのに、ほのかは、そっと話しかけてみた。
もちろん、返事はない。
けれど。
「……あ」
視界の端を、また何かが横切った。今度は、見失わなかった。ほのかは息を殺したまま、展示ケースの陰から陰へ視線を動かしていく。
小さな影だった。
猫ほどの大きさ。けれど、猫にしては輪郭がどこかぼんやりしていて、耳の形も、尻尾の長さも、はっきりとは見えない。犬かと思えばそうでもない。猫かと思えば、それも違う気がする。
その影は、太鼓のケースのすぐそばにちょこんと座っているように見えた。
「……誰?」
ほのかが、そっと声をかけると、影はゆっくりとこちらを向いた。
――ような、気がした。
目が合った、と思った瞬間、影はふっと横に動き、展示室の奥の暗がりへするりと消えていく。
「ま、待って!」
気づけば、足が勝手に動いていた。
展示室を抜け、通路を曲がり、また別の展示室へ。
影は、いつも数歩先にいた。追いつきそうで、追いつかない。ほのかが足を止めると、影も止まる。ほのかが一歩踏み出すと、影も一歩、先へ進む。まるで案内しているようでもあり、からかっているようでもあった。
オセアニアから、アジアへ。アジアから、アフリカへ。仮面のケースの前を通り過ぎるとき、木彫りの目がいくつも暗がりの中でこちらを見ている気がした。
アジア展示室では、婚礼衣装の金糸が非常灯の緑を受けて一瞬だけ、きらりと光った。アフリカ展示室では、壁一面の仮面が闇の中に白い顔を並べている。ほのかは、その間を息を切らして走り抜けた。チェック表が胸の前で、ばさばさと鳴る。
走りながら、ふと可笑しくなった。夜中の博物館で、正体の分からない影を追いかけている自分。誰かに見られたら、確実に始末書ものだ。
やがて、影は企画展示室の手前で、ふっと足を止めた。
そこでようやく、ほのかは追いついた。
薄暗がりの中、影がゆっくりと、こちらを振り返る。
輪郭は相変わらずぼんやりしていて、はっきりとは見えない。けれど、なぜだろう。怖いとは思わなかった。むしろ、どこか懐かしいような不思議な気持ちになる。
「あなた……何なの?」
ほのかはしゃがみ込んで、そっと手を伸ばそうとした。
その瞬間。影は、すっと展示ケースの隙間に溶けるように、消えてしまった。
「……え」
残されたほのかは、しばらくその場から動けなかった。
辺りを見回しても、影らしきものはどこにもない。太鼓の音も、もう聞こえない。まるで、最初から何もなかったかのように展示室は静まり返っていた。ただ、空調の唸りだけが変わらず続いている。
「見間違い……にしては、二回も見たしなあ」
ほのかは、呟きながらスマホの時計を確認した。巡回の予定時刻を少し過ぎている。
「戻らなきゃ」
後ろ髪を引かれる思いで、巡回に戻った。けれど、歩きながらも頭の中はさっきの光景でいっぱいだった。
猫でも犬でもない、小さな影。
誰も触れていないのに、鳴った太鼓。
どちらも、説明のつかないことばかりだ。九条さんに話したら、きっと「気のせいだろう」の一言で、片づけられてしまうに違いない。
それでも。
「タビ、とか、呼んでみようかな」
ふと、そんな名前が頭に浮かんだ。理由は、よく分からない。ただ、あの影が展示室から展示室へと、まるで旅をするように動いていったから、そんな名前がしっくりきた気がしたのだ。
「タビ、ね」
誰もいない廊下で、ほのかは小さく声に出してみる。
誰かに話したい気持ちと、話したら笑われるに違いないという気持ちが、胸の中でぶつかり合った。
名前をつけると、少しだけあの影が身近なものに感じられた。得体の知れない怪異ではなく、この博物館のどこかに住んでいる、小さな同居人のような。
巡回を終えて事務室に戻る頃には、すっかり夜も更けていた。明日も朝から開館準備がある。今日見たことは、とりあえず自分の胸にしまっておこう。そう決めて、ほのかは帰り支度を始めた。
ロッカーに鍵をかけながら、ほのかはもう一度、展示室の方を振り返った。
薄暗い通路の奥。そこに、何かがいる気配はもう、感じられなかった。
それでも、確かにあの太鼓は鳴った。確かにあの小さな影は、そこにいた。
(明日、もう一度、確かめてみよう)
そう心に決めて、ほのかは通用口を出た。
夜の万博記念公園は、しんと静まり返っていた。木々の黒い影の向こうに、太陽の塔がぼんやりと立っている。
ほのかは自転車に跨ったところで、ふと、館の方を振り返った。窓の一つひとつが、暗い。あの中に、あの小さな影がいるのだろうか。
六月初旬。梅雨の気配を含んだ夜風が頬を撫でた。それは怖いというより、なぜか少しだけわくわくする感触だった。




