第十五話 万博を覚えている人
八月初旬のある日、博物館には、団体見学の小学生たちの声で賑わっていた。ほのかは案内スタッフの手伝いで、館内を行き来していた。
昼過ぎ、来館者対応のシフトに入っていたほのかのもとに、一人の高齢女性が近づいてきた。
「あの、すみません」
「はい、何でしょうか」
女性は上品な佇まいで、ゆっくりと歩いてきた。
「この展示、少し前から気になっていたんです」
女性が指差したのは、東南アジアの祭礼具を集めた一角にある、精緻な彫刻が施された木製の箱だった。
箱の蓋には、幾重にも重なる植物の蔓のような模様が彫られていた。四隅には小さな鳥の姿があり、側面には人々が輪になって並ぶような意匠が続いている。
木肌は長い年月を経て黒ずんでいたが、彫刻の細い溝には、かつて塗られていたらしい赤い顔料がわずかに残っていた。
ほのかは、その独特な模様に見覚えがあった。
「これ、昔、万博で見た気がするんです」
「万博、ですか」
「ええ。一九七〇年の、大阪万博。私、子どものころ、何度もあの会場に通っていましてね」
ほのかは、興味を引かれて、女性のそばに近づいた。
「私は展示課の小宮と申します。よろしければ、当時のお話、聞かせていただけますか」
「ええ、喜んで。水岡と申します」
水岡澄江はそう名乗ると、懐かしそうに目を細めた。
「当時、私は小学校の高学年でした。近所の子どもたちと一緒に、何度も万博会場へ通ったものです。世界各国のパビリオンが並んでいて、あちこちで珍しいものが見られました」
「この箱を、パビリオンでご覧になったんですか」
「ええ、確か……東南アジアのどこかの国のパビリオンだったと思います。今のこの箱と、そっくりの形をしたものが、飾られていた記憶があります」
ほのかは、展示解説パネルに目を移した。そこには、この箱の収蔵年が記されていた。
「あの、こちらの記録によりますと、この品が博物館に収蔵されたのは、もう少し後の年代になっているんです」
「あら、そうなんですか」
水岡は少し不思議そうな顔をした。
「でも、確かに見た覚えがあるんですけれど……。記憶違いかしら」
「いえ、もしよろしければ、もう少し詳しくお聞かせいただけますか」
ほのかは、水岡を近くのベンチに案内し、話を続けてもらうことにした。
「当時、パビリオンで見た品物について、何か覚えていることはありますか」
「そうですねえ……。確か、案内をしてくださった方が、この箱について、何か説明してくれたはずなんですけど」
水岡は記憶をたどるように、目を閉じた。
「『これは、儀式で使われる大切な箱です』というようなことを、言われた気がします。中に、何か特別なものを入れる箱だとか」
ほのかは、その言葉をメモに取りながら、資料と照らし合わせたいと思った。
「水岡様、貴重なお話をありがとうございます。もしよろしければ、後日改めて、当時の記録を調べてご連絡させていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろん。私も、気になっていたことなので」
水岡は、連絡先を教えてくれた。
その日の夕方、ほのかは収蔵資料室で、この箱に関する記録を調べ始めた。
現行のデータベースには、収蔵年月日や、収蔵時の状況について、簡潔な記載しかなかった。それによれば、この箱が博物館に収蔵されたのは、一九七〇年代後半――万博からしばらく経った後のことになっている。
(水岡さんの記憶とは、時期がずれてる)
ほのかは、九条にこのことを相談することにした。
「水岡さんという方が、この箱を万博当時に見た記憶がある、と?」
「はい。でも、記録上は、収蔵されたのはもっと後になってるんです」
九条は、腕を組んで考え込んだ。
「記憶違いという可能性もあるが……」
「先日の、台帳の件を思い出しませんか。行方の分からない収蔵品のリスト」
ほのかがそう指摘すると、九条もはっとした表情を見せた。
「MK-1970番台の、地下収蔵区画へ送られたとされる品々か」
「もしかしたら、この箱も、その中の一つだったんじゃないでしょうか」
「つまり、万博の年に日本に持ち込まれたものの、正式に収蔵記録がつけられたのは、ずっと後になってから、ということか」
「その間、どこにあったのか……」
二人は、再び収蔵資料室にこもり、この箱に関する記録を洗い直すことにした。
☆
夜遅くまで資料を調べた結果、ある興味深い記述を見つけた。この箱には、収蔵当時の担当者による、簡単な引き継ぎメモが残されていた。
「『経緯不明。地下収蔵区画より発見。詳細は要調査』」
「経緯不明、地下収蔵区画より発見……」
ほのかは、その文字を、何度も読み返した。
「これって、つまり」
「一度、地下に収められていたものが、後になって発見され、正式に展示品として収蔵し直された、ということだろうな」
九条の言葉に、ほのかは息を呑んだ。
水岡の記憶は、正しかったのだ。万博の年、確かにこの箱は存在していた。けれどその後、何らかの理由で記録から漏れ、地下収蔵区画に眠ることになった。そして、しばらく経ってから再び発見され、今この場所に展示されている。
「じゃあ、地下には、まだ他にも、こういう品が眠っている可能性が……」
「かなり高いだろうな」
翌日、資料室で調査を続けていたほのかは水岡に電話でこの件を伝えた。
「やっぱり、私の記憶違いじゃなかったんですね」
電話越しに、水岡の声が明るくなった。
「はい。当時、確かに万博会場にあったものが、一度、記録から漏れてしまっていたようです」
「そうだったんですか……。安心しました。年を取ると、記憶が曖昧になることも多いから」
「貴重なお話を聞かせてくださって、ありがとうございました」
「いいえ。こちらこそ、調べてくださってありがとうございます。また、あの箱に会いに行かせてくださいね」
電話を切った後、ほのかは、しばらく窓の外を見つめていた。
長谷が語らなかった「忘れられない光景」とは、いったい何だったのか。
ほのかは、資料室の隅に視線を向けた。そこには、タビが、いつの間にか静かに座っていた。
「あなたも、その頃から、ずっとここにいたの?」
タビは答えなかった。けれど、その視線は、まるで遠い過去を見つめるように、じっと動かなかった。




