第十三話 収蔵庫の老人
七月も下旬に入り、学校は夏休みを迎えていた。
国立民族学博物館でも、校外学習などの団体に加え、普段より家族連れの来館者が目立つようになった。展示室には朝から賑やかな声が響き、ほのかも来館者への案内や、開催中の夏休み企画展の運営に追われる毎日だった。
ひと月ほど前、企画展の準備が始まった頃から、慌ただしい日々が続いていた。そのため、以前タビに導かれた職員通路の奥の古い扉についても、なかなか調べる機会がなかった。
けれど、気にならなくなったわけではない。
ほのかは古い扉について、そろそろ本格的に調べてみたいと思っていた。
ある日の昼休み、ほのかは研究部のオフィスを訪ねた。
「九条さん、あの古い扉のこと、まだ何も分かっていませんよね」
「ああ。気になって、建物の図面は一応調べてみた。だが、はっきりした記載はなかった。他に、知っていそうな人はいるか」
ほのかは少し考えてから答えた。
「長谷さんなら、何か知ってるかもしれません」
「次に会ったとき、聞いてみるか」
「はい」
長谷史郎は、収蔵庫管理担当のベテラン職員だ。定年後も再雇用で働き続けており、館内の歴史なら誰よりも詳しいはずだった。
☆
それから数日後。ほのかは収蔵庫への搬入作業の手伝いを頼まれ、長谷と一緒に作業をすることになった。
長谷は、勤務する日には決まった時間に、決まった順路で館内を見回っている。無口だが優しい人柄で、若手職員からも慕われている。ほのかも、これまで何度か言葉を交わしたことはあったが、深く話し込んだことはなかった。
「小宮さんは、確か……展示課だったな」
「はい。学芸員補をしています」
「ふうん」
長谷はそれだけ言って、作業を始めた。短く刈った髪には白いものが多く混じり、作業着の袖口は長年使い込まれたように柔らかくなっている。年齢を感じさせる姿だったが、資料の箱を持ち上げる手つきに迷いはなかった。
「小宮さん、その箱は、もう少し奥に置いてくれるか」
「はい。この辺りですか?」
「ああ。……いや、待った」
長谷は箱の側面に貼られた古いラベルを見つめた。
「こっちを手前にしてくれ。文字が見えなくなる」
「でも、もうほとんど読めませんよ?」
「そうだな。私にも、もう読めん」
長谷は少しだけ笑った。
「だが、いつか読める人が現れるかもしれん。見えないところに押し込んでしまったら、その機会もなくなる」
ほのかは、もう一度箱の向きを直した。
長谷は、それから黙々と作業を進めた。そんな彼の背中を見ながら、ほのかは、長谷が館内の歴史にとても詳しいという噂を思い出していた。
作業の合間、休憩室で二人きりになったとき、ほのかは思い切って切り出した。
「長谷さん、この博物館には、ずいぶん昔からいらっしゃるんですよね」
「ああ、そうだな。もう長い付き合いになる」
「じゃあ、館内のこと、隅々までご存知なんですね」
「まあ、それなりには」
長谷は湯呑みに口をつけながら、ほのかの様子を窺うようにしていた。
「あの、実は……」
ほのかは少し迷いながらも、思い切って話すことにした。
「最近、閉館後の館内で、いろんな不思議なことが起きていて。太鼓が鳴ったり、仮面の向きが変わったり、鈴が鳴ったり」
長谷の表情が、わずかに変わった。
「それと……小さな影を見るんです。猫とも犬ともつかない、輪郭のぼんやりした影を。私は『タビ』って呼んでるんですけど」
その瞬間、長谷の顔色が、はっきりと変わった。
「……タビ、と」
「知ってるんですか、その影のこと」
「……」
長谷は、しばらく黙り込んだまま、湯呑みを見つめていた。長い沈黙が続く。
「長谷さん?」
「……小宮さん」
長谷は、ようやく口を開いた。その声は、いつもより低く、重かった。
「地下には、近づかない方がいい」
「地下、ですか」
ほのかの脳裏に、先日タビに案内された、あの古い扉と階段が浮かんだ。
「もしかして、職員通路の奥にある、古い扉のことですか」
「……知っていたのか」
「先日、偶然見つけました。まだ、下りてはいませんが」
長谷は、深いため息をついた。
「あそこには、下りない方がいい」
「どうしてですか。何があるんですか」
長谷は、答えるべきかどうか、迷っているようだった。
「……昔のことだ。私が、まだ若かった頃の」
「教えていただけませんか」
長谷は、しばらく黙り込んでから、ぽつぽつと語り始めた。
「あの地下には、古い収蔵区画がある。まだ私が入って間もない頃、一度だけ、あそこに足を踏み入れたことがある」
「何があったんですか」
「……忘れられない光景を見た。それ以来、誰もあそこには近づかないようにしている」
長谷は、それ以上詳しく語ろうとはしなかった。
「若い職員が、興味本位で入って、痛い目を見るのを何度も見てきた。だから、小宮さんにも、忠告しておきたい」
「でも、長谷さん」
ほのかは、思い切って尋ねた。
「タビは、私を、その扉まで案内したんです。何かを伝えようとしているように見えました」
「……」
「長谷さんは、タビのことを知ってるんですよね。もしかして、長谷さんも、昔、見たことがあるんじゃないですか」
長谷の目が一瞬、遠くを見るような色を帯びた。
「……見たことは、ある」
「どんな……」
「今は、それ以上は言えない」
長谷はそう言って、話を打ち切るように立ち上がった。
「作業に戻ろう」
その日の作業は、それ以上会話もなく静かに進んだ。
夕方、ほのかは研究部のオフィスに立ち寄り、九条に長谷とのやり取りを報告した。
「長谷さんが、そんなことを?」
「はい。地下には近づくな、って。何か、昔、あったみたいなんですけど、詳しくは教えてくれませんでした」
九条は、腕を組んで考え込んだ。
「長谷さんは、何かを知っている。それも、かなり具体的なことを」
「私も、そう思います」
「だが、簡単には話してくれなさそうだな」
九条は、手帳に何かを書き記した。
「長谷さんが働き始めた時期を、人事記録で確認してみるか。それと、その頃の博物館の資料も」
「調べれば、何か分かりますか」
「分からないが、少なくとも、長谷さんが何を見たのか、手がかりくらいは掴めるかもしれない」
その夜、ほのかは一人で、長谷の言葉を何度も思い返していた。
「忘れられない光景」
それが何だったのか、長谷は語らなかった。けれど、その表情の重さから決して軽い出来事ではなかったことだけは、はっきりと伝わってきた。
☆
閉館後の巡回中、ほのかは、職員通路の奥にある、あの古い扉の前まで足を運んだ。
「タビ、いる?」
声をかけてみても、今日はタビの姿は見えなかった。
扉は、変わらずそこにあった。色褪せたプレート、ひんやりとした空気。その向こうに続く、暗い階段。
「長谷さんが、何を見たのか……」
ほのかは、扉にそっと手を触れた。
冷たい木の感触が、指先に伝わってくる。
まだ、その先に踏み込む勇気は出なかった。けれど、いつか、この扉の向こうにあるものと、向き合わなければならない気がしていた。
長谷が守ろうとしているものが何なのか。
タビが伝えようとしているものが何なのか。
その答えは、まだ扉の向こうに、ひっそりと眠ったままだった。




