第十一話 展示する人、見る人
「ほのか、ちょっと相談があるんだけど」
昼休み、事務室の自販機の前でコーヒーを買っていると、ミュージアムショップ兼広報担当の寺前小春が声をかけてきた。
「小春さん、どうしたんですか」
「次の企画展のSNS告知、作ってるんだけどさ。榊原先生に監修してもらった説明文、正直、難しすぎて誰にも読まれないと思う」
小春は肩のあたりで揺れる明るい茶色の髪を耳にかけ、スマホの画面を見せながら、困り顔でため息をついた。
「見て、これ」
画面には、企画展の紹介文が表示されていた。専門用語が並び、一文が長く、読み進めるだけで骨が折れる内容だった。
「……確かに、これは」
「でしょ? 正確なんだろうけど、これじゃ誰も『行ってみよう』って思わないよ」
小春は博物館には詳しいものの、研究者ではない一般人的な視点を持つ人物だった。専門用語が続くと、すぐに「待って。それ、小学生にも分かる言葉で」と止めてくる。そのおかげで、研究員たちの説明が難しくなりすぎるのを自然に防いでくれていた。
「榊原先生に、書き直してって言えないんですか」
「言ったよ。でも『事実に忠実であることが最優先だ』の一点張りで、全然譲ってくれないの」
小春は肩を落とした。
「ほのかさ、専門知識はちゃんとあって、それを噛み砕くのも得意でしょ。書き直し、手伝ってくれない?」
「私が、ですか?」
「うん。鳴海さんにも話は通してあるから」
午後、ほのかは鳴海に呼ばれた。
「小宮さん、聞いた? 企画展の解説文、書き直しをお願いしたいの」
「はい、小春さんから聞きました。でも、榊原先生が書かれたものを、私が書き直すというのは……」
「大丈夫。榊原先生にも了承は取ってあるから。正直、あの人も、一般向けの文章を書くのは苦手だって自覚はあるみたいよ」
鳴海は明るくそう言うと、資料の束をほのかに手渡した。
「展示を見た人が何か一つ持って帰ってくれたら、それも立派な博物館の仕事。小宮さんなら、それができると思うから」
「……やってみます」
「頼りにしてるわ」
その日の夕方から、ほのかは九条の上司でもある榊原の原稿と向き合うことになった。
原稿を読み込みながら、ほのかはその正確さに圧倒された。展示品の由来、収集の経緯、地域ごとの文化的背景。細部まで丁寧に記述されており、研究者として真摯に品物と向き合ってきたことが伝わってくる。
けれどそれは同時に、一般の来館者にとってはあまりに情報量が多く、専門的すぎる文章でもあった。
(正確さと、伝わりやすさ。両方を大事にするには、どうしたらいいんだろう)
ほのかは原稿を何度も読み返しながら、少しずつ、来館者に語りかけるような文体に書き直していった。専門用語には、簡潔な補足を添える。長い一文は、いくつかに区切る。事実の正確さは損なわないまま、けれど読む人の心に残るような言葉を選んでいく。
数日かけて書き上げた原稿を、まず小春に見せた。
「わあ、すごい! これなら分かる!」
「本当ですか」
「うん、専門的なことも、ちゃんと入ってるのに、読みやすい。ほのか、才能あるよ、これ」
小春の反応に、ほのかは少しほっとした。
次に、原稿を榊原に見せる番だった。研究部のオフィスに向かうと、榊原は背筋を伸ばして机に向かっていた。白いものが混じる髪をきちんと整え、眼鏡越しに、じっと原稿を読んでいく。その表情からは、考えていることがなかなか読み取れなかった。
「……」
沈黙が続く。ほのかは緊張しながらその様子を見守った。
やがて、榊原は原稿から顔を上げた。
「事実関係に、誤りはないな」
「はい。何度も確認しました」
榊原は、もう一度原稿に目を落とした。
「……読みやすくなった」
「本当ですか?」
「私には、こういう文章は書けん」
それは榊原なりの、最大限の賛辞だった。ほのかは驚きながらも、少し誇らしい気持ちになった。
その日の夜、ほのかは研究部のオフィスで、九条に今日のことを話した。
「榊原先生に、褒めてもらえたんです」
「珍しいこともあるものだな」
「九条さんにまで、そんな言い方されると思わなかったです」
九条は、少し口の端を上げた。
「悪い意味じゃない。あの人は、滅多に他人の仕事を褒めない。それだけ、お前の文章が良かったということだろう」
その言葉に、ほのかは少し照れくさくなった。
「私にも、できる仕事があるんですね」
「今さら気づいたのか」
九条は、いつもの通りそっけなく言った。けれど、その言葉は、ほのかの中に確かな重みを持って残った。
閉館後、ほのかは一人で展示室を巡回した。企画展の準備が進む一角には、新しい解説パネルの下書きが仮設置されていた。
その前を通りかかったとき、小さな影が、パネルをじっと見つめているのに気づいた。
「タビ、この文章、どう思う?」
もちろん、答えは返ってこない。けれど、タビは、しばらくその場を離れずにいた。
まるで、その言葉が、ちゃんと誰かに届くかどうかを、見守っているかのように。
ほのかは小さく微笑んで、その場を後にした。




