第十話 衣装が見送るもの
婚礼衣装をめぐる怪異が収まってから、二週間ほどが過ぎたある日の午後、ほのかがアジア展示室の巡回をしていると、見覚えのある女性が、展示ケースの前に立っているのが目に入った。
「あの……」
ほのかが声をかけようとすると、女性の方が先に振り返った。
「あ、小宮さん」
やはり、あの日、婚礼衣装の前で迷いを語っていた女性だった。前回会ったときよりも、さらに晴れやかな表情をしている。
「こんにちは。またいらしてくださったんですね」
「はい。式まで、あと一週間なんです」
女性はそう言って、少し照れくさそうに笑った。名前を、涼子といった。前回のやり取りの中で、そう名乗っていたのをほのかは覚えていた。
「一週間後なんですね。準備、大変じゃないですか」
「もう、バタバタです。でも……」
涼子は展示ケースの中の婚礼衣装に、視線を戻した。
「式が近づくにつれて、また、少し不安になることがあって」
「不安、ですか」
ほのかは、その言葉に少し緊張した。前回、あれほど晴れやかな表情で去っていったはずの涼子が、また不安を口にしていることに、意外な思いを抱いた。
「大丈夫ですか。少し、お話ししませんか」
ほのかは涼子を近くのベンチに案内した。閉館まで、まだ時間に余裕がある。
「あの日、小宮さんに、いろいろ話を聞いてもらって。自分で決めるっていうこと、ちゃんと分かったつもりだったんです」
「はい」
「でも、式が近づくにつれて、また、いろんなことが頭をよぎるようになって」
涼子は膝の上で、手を組み合わせた。
「彼のことは、本当に好きです。それは、変わらない。でも、結婚したら、仕事はどうなるのか、これまでの友達との関係はどうなるのか、自分の名前まで変わってしまうことに、まだ少し戸惑いがあって」
「そうなんですね……」
「周りの友達に相談しても、『贅沢な悩みだよ』とか、『マリッジブルーってやつじゃない?』って、軽く流されちゃうことが多くて」
涼子は少し寂しそうな表情を見せた。
「私、贅沢な悩みを言ってるだけなんでしょうか」
ほのかは慎重に言葉を選びながら、答えた。
「贅沢とか、そうじゃないとか、私には、判断できません。でも、涼子さんが今、感じている不安は、確かに、涼子さんにとって本物のものだと思います」
「……」
「大きな決断をするときに、不安を感じるのは、当たり前のことだと思うんです。それは、決断が間違ってるっていう意味じゃなくて、その決断が、それだけ大切なものだっていう証拠なんじゃないでしょうか」
涼子は、その言葉をじっくりと聞いていた。
「私、この前、この展示品の話を聞いて、すごく心が軽くなったんです。誰かに決められるんじゃなくて、自分で選ぶことが大事だって」
「はい」
「でも、自分で選んだからこそ、今度は、その選択に対する責任みたいなものを、強く感じるようになった気がして」
ほのかは、その言葉に深く頷いた。
「もう一度、あの衣装のこと、詳しく聞かせてもらえますか」
涼子の言葉に、ほのかは展示ケースの方へと視線を移した。
「あの婚礼衣装は、花嫁の母親や祖母、周りの女性たちが、何日もかけて縫い上げたものだったんです。遠い土地へ嫁ぐ娘のために、災厄から守られるようにという願いを込めて」
「はい、覚えてます」
「実は、あれから、もう少し詳しく調べてみたんです」
ほのかは、収蔵資料室で改めて確認した内容を、思い出しながら続けた。
「その地域の伝承には、こんな話も残っていました。花嫁になる女性は、婚礼衣装を身にまとう前、必ず、周りの女性たちに、不安なことを打ち明ける時間を設けたそうです」
「不安なことを、打ち明ける?」
「はい。結婚に対する期待だけじゃなくて、これから始まる新しい生活への戸惑いや、これまでの暮らしを離れることへの寂しさ。そういうものを、隠さずに語り合う場が、儀礼の一部として、大切にされていたそうです」
涼子は、少し驚いたような表情を見せた。
「不安を、隠さなくてもよかったんですね」
「はい。むしろ、その不安を、周りの人たちと共有すること自体が、大切な儀礼の一部だったみたいです。花嫁一人で抱え込むものじゃなくて」
ほのかは続けた。
「衣装に縫い込まれた刺繍は、そういう不安も含めて、花嫁の新しい人生を、みんなで見守っていくという意味が、込められていたんじゃないかと思います」
「みんなで見守っていく……」
涼子は、その言葉を、噛みしめるように繰り返した。
「私、不安なことを言うと、彼に迷惑をかけるんじゃないかとか、周りをがっかりさせるんじゃないかって、ずっと思ってました」
「そう思うのは、自然なことだと思います。でも……」
ほのかは、少し考えてから、続けた。
「不安を口にすることは、決断を後悔してるということとは、違うと思うんです。むしろ、その不安を、大切な人たちと一緒に受け止めてもらうことで、より確かな一歩を踏み出せるんじゃないでしょうか」
涼子はしばらく黙って、婚礼衣装を見つめていた。
「彼に、ちゃんと話してみようと思います。私が今、感じてる不安のこと」
「はい。きっと、聞いてくれると思います」
「それに……」
涼子は少し微笑んだ。
「私の母にも、聞いてみようと思います。母も、結婚するとき、きっと同じような不安を感じたことがあったはずだから」
「いいと思います」
その日、涼子は以前よりもさらに穏やかな表情で、展示室を後にした。
その後ろ姿を見送りながら、ほのかは展示ケースの中の婚礼衣装を改めて見つめた。
「あなたは、花嫁を送り出すためだけじゃなくて、不安を受け止める場所でもあったんですね」
☆
その日の閉館後、ほのかは研究部のオフィスに立ち寄り、九条にこのことを話した。
「不安を打ち明ける儀礼、か」
九条はメモを取りながら、興味深そうに頷いた。
「解説パネルに、追加で書き加えるべき内容かもしれないな」
「はい。実は、そう思って、榊原先生にも相談しようと思っています」
「良い視点だと思う」
珍しく、九条は素直にそう評価した。
☆
数日後、ほのかは、榊原にこの追加情報を報告した。
「不安を共有する儀礼か。興味深い記述だな」
榊原は資料を確認しながら、深く頷いた。
「これは、単なる装飾品としての解説だけでなく、その品が果たしていた、社会的・心理的な機能についても触れる、良い機会だ」
「はい。解説パネルに、少し追記させていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんだ。むしろ、小宮くんに、その部分を書いてもらいたい」
その言葉に、ほのかは驚いた。
「私が、ですか」
「これまでの経緯を、一番よく理解しているのは、あなただろう。事実に基づいた、正確で、かつ来館者に伝わりやすい文章を、期待している」
その日の夜、ほのかは婚礼衣装の解説パネルに追加する文言を、慎重に書き上げていった。
「この婚礼衣装は、花嫁を送り出すためだけのものではありませんでした。刺繍を縫い上げる過程で、周りの女性たちは、花嫁の不安や戸惑いにも、丁寧に耳を傾けたと伝えられています。新しい人生への期待と不安、その両方を受け止め、見守るための衣装だったのです」
書き上げた文章を何度も読み返しながら、ほのかは涼子との会話を思い返していた。
☆
結婚式当日、涼子から一枚の写真付きのメッセージが、ほのかの元へと届いた。
「小宮さん、無事に結婚式を終えました。彼にも、母にも、不安なこと、ちゃんと話せました。二人とも、じっくり聞いてくれて、それだけで、すごく心が軽くなりました。ありがとうございました」
写真には、幸せそうな笑顔の涼子が写っていた。
その夜、閉館後の展示室で、ほのかは婚礼衣装の前に立った。
「涼子さん、無事に式を終えたって」
展示ケースの奥、婚礼衣装の裾に縫い付けられた小さな鈴が、かすかに、ちりん、と鳴った。
「聞こえてるの?」
ほのかが問いかけると、鈴の音はもう一度、優しく鳴った。
その音は、これまで聞いてきたどの音よりも、穏やかで、満たされたもののように、ほのかには感じられた。
視線を感じて振り返ると、展示ケースの陰からタビが姿を現した。
「あなたも、聞いてたのね」
タビは答えることなく、ゆっくりと婚礼衣装の前まで歩いていった。
そして、まるでその場に佇む何かにそっと寄り添うようにして、しばらくその場に留まった。
ほのかは、その様子を静かに見守った。
この博物館にある、一つひとつの品物には、単なる展示物としての価値だけではなく、その向こうにいる人々の暮らしや感情が、確かに込められている。
太鼓には、仲直りを願う気持ちが。仮面には、共同体との結びつきが。そして、この婚礼衣装には、新しい人生への期待と不安をみんなで受け止め合う優しさが。
涼子との出会いを通して、ほのかはまた一つ、その豊かさに気づかされた気がした。
「タビ、あなたは、どんな想いを、この博物館で見てきたんだろう」
ほのかは問いかけてみた。
タビは、答えなかった。けれど、その存在そのものが、この博物館に眠る無数の物語を象徴しているように、ほのかには感じられた。
☆
翌日、涼子から送られてきた写真を、ほのかはそっと自分のノートに挟んだ。
これから、この博物館で出会う人々の物語を、一つひとつ大切に記録していこう。
その決意はこの日、また一段と確かなものになっていた。
そして、涼子が持ってきてくれた、結婚式で使ったブーケの一輪を模した小さな押し花のしおりが後日、展示課への感謝の品として届けられた。
ほのかはそれを、展示課の事務室にある自分の机の引き出しに、大切にしまうことにした。
後で鳴海にしおりを見せると、彼女は嬉しそうに頷いた。
「これも、記録の一つ、ですね」
「展示を見た人が何か一つ持って帰ってくれたら、それも立派な博物館の仕事。今回は、逆に、来館者から、大切なものを届けてもらえたわね」
その言葉に、ほのかは深く頷いた。
この博物館という場所は、展示品を通して来館者に何かを伝えるだけでなく、来館者からも新たな物語を受け取ることができる場所なのだと、改めて実感した瞬間だった。
閉館後の静かな展示室に、婚礼衣装はいつものように、ひっそりと佇んでいた。
その裾に縫い付けられた小さな鈴が、風もないのにほんの一瞬、優しく揺れた気がした。




