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七尾工房、開店休業中  作者: 七尾 拓哉


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9/20

第9話 移住者の、折れた椅子

四月の終わり、工房の電話が鳴った。




「はい、七尾工房です。──ええ。──椅子。──折れた。──はい、見に行けますよ。──場所を教えてもらえますか?」




 受話器を置いて、七尾さんがメモを私に渡した。




「田村チーズ工房。計根別のほうです」




「計根別、ですか?」




「牧草地の中に、ポツンとある感じの」




「チーズ工房、ですか」




「珍しいよね。行ってみましょうか」




 返事が早かった。




 道具を軽トラに積みながら、七尾さんに訊いた。




「椅子の修理に、道具がこんなにいるんですか?」




「折れ方を見てみないとわからんからね、念のため」




 念のため、がいつも多い人だった。




 今日読んでいた本のことを考えていた。朝の読書は、重松清の『ビタミンF』だった。家族の話で、誰かのそばにいることの難しさと、でもそばにいることの意味を描いている。読んでいると、ここに来た理由のことを、またぼんやりと考えてしまう。





 計根別まで、中標津から軽トラで三十分ほどかかった。




 国道を北に走ると、牧草地がどこまでも続いた。四月の終わりで、草はまだ短い。牛たちが、広い土地にぽつぽつと散らばっていた。道の両側に、防風林のカラマツが等間隔に並んでいる。この直線が、どこまで続くのか、見ていても終わりが見えなかった。




「七尾さん、田村さんって、どういう人なんですか?」




「知らないです」




「知らない人のところに行くんですか?」




「Instagramで連絡来たんよ。写真見たら、いい雰囲気の工房で」




 七尾さんは、それだけ言って、煙草に火をつけた。




 田村チーズ工房は、防風林を折れた先の農道の奥にあった。白い壁の、小さな建物だった。入り口に、手書きの看板が立っていた。『田村チーズ工房』。七尾工房の看板と同じように、文字だけで、装飾がない。




「ごめんください。七尾工房です」




 引き戸を開けると、乳製品の甘い匂いがした。工房の中は、大きなステンレスの釜と、棚に並んだチーズの型。奥から、エプロン姿の女性が出てきた。二十代の後半くらい。髪を後ろでまとめて、長靴を履いている。




「田村です。来てもらってありがとうございます」




「七尾です。こちら、弟子の橋本」




「橋本です。はじめまして」




「はじめまして。どうぞ、こっちに」




 田村さんに案内されたのは、工房の奥の小さな部屋だった。休憩室らしく、小さなテーブルと、椅子が四脚置いてあった。そのうちの一脚が、壁に立てかけてあった。脚が一本、付け根のあたりで折れていた。




「これです。朝、座ったら、ぱきっと」




 七尾さんが、椅子を手に取った。折れた脚の断面を、じっと見た。




「いつごろ買った椅子ですか?」




「東京にいたとき、五年くらい前。インテリアショップで」




「東京から持ってきたんですか?」




「はい。こっちに来るとき、気に入ってたものだけ持ってきて」




 七尾さんは、折れた断面に指を当てた。




「木が痩せてます」




「痩せる、んですか?」




「乾燥すると、木が縮むんです。東京より、北海道のほうが冬の乾燥が強くて。接合部の木が縮んで、隙間ができて、そこに力がかかって折れた」




「東京から持ってきたせいですか?」




「場所が変わったせいです。椅子が悪いわけじゃない」




 田村さんは、少し間を置いた。




「直りますか?」




「直ります。接合部を作り直して、補強を入れれば」




「よかった。お願いできますか?」




「はい。他の三本の脚も、少し緩んでます。今回折れなかっただけで、同じ状態になってる」




「全部、直したほうがいいですか?」




「せっかくなので」




 七尾さんは、工具袋からノギスを取り出して、接合部の寸法を測り始めた。私は、折れた脚の断面を覗き込んだ。切り口がきれいだった。ぱきっと、と田村さんが言っていた通り、割れた、というより折れた感じがした。木が、限界まで我慢して、最後に一度だけ折れた、という感じ。




 場所が変わったせいです、と七尾さんは言った。椅子のせいじゃない。我慢させた環境のせい。その言い方が、なぜか、自分のことを言われているような気がした。





「よかったら、チーズ食べてってください」




 田村さんが、冷蔵庫から小さなプレートを出してきた。白いチーズが、三種類並んでいた。




「ここで作ったものですか?」




「はい。フレッシュチーズとセミハードと、あと、これは燻製にしたやつです」




「いただきます」




 フレッシュチーズを一口食べた。あっさりしていた。ミルクの味がした。




「おいしいですね」




「ありがとうございます。まだ試行錯誤中で」




「田村さん、中標津に来て、どのくらいですか?」




「去年の秋に来ました。半年ちょっと」




「移住ですか?」




「はい。東京でOLしてたんですけど、やめて。チーズを作りたくて」




「なぜチーズなんですか?」




 田村さんは、少し笑った。




「変ですよね、よく言われます。東京にいたとき、北海道旅行で食べたチーズがすごくおいしくて。自分で作れないかなと思って、チーズ作りを勉強して、農家さんを探して、ここに来た感じです」




「勉強、どこでしたんですか?」




「チーズ工房で二年、修業して。その間に、独立する場所を探してました」




 七尾さんが、チーズを一口食べた。




「これ、どこの牛乳ですか?」




「すぐ近くの牧場さんです。毎朝、取りに行って」




「搾りたてですか?」




「はい。鮮度が全然違うので」




「なるほど」




 七尾さんは、燻製チーズをもう一枚取って、また食べた。




「橋本さんも、移住ですよね?」




 田村さんが、私を見た。




「はい。去年の十一月に、東京から」




「何をしてたんですか、東京で?」




「広告の会社で、コピーを書いてました」




「コピーライター。全然違う仕事ですね」




「全然違います」




「橋本さんは、なんで木工を選んだんですか?」




 私は、少し考えた。




「木工を選んだというより、七尾工房を選んだ、という感じで。動画を見て、この工房に来たいと思って」




「動画、私も見てました。あの寄木細工のカッターナイフ」




「そうなんですか」




「端材が、一本のカッターナイフになっていく。なんか、こういう仕事がしたいって、思って。チーズも、牛乳という素材が、形を変えて何かになっていく仕事で」




「似てますね、そういう意味では」




 田村さんは、コーヒーを一口飲んだ。




「橋本さん、中標津に来て、どうですか?」




「来てよかったです。今のところ」




「今のところ、か」




「まだ一年ちょっとなので。でも、今のところは、来てよかった」




「私、半年経って、ちょっと不安になってきて」




「不安、ですか?」




「チーズ、まだほとんど売れなくて。やっていけるのかなって」




 私は、少し考えてから言った。




「東京にいたときも、不安でしたよ。仕事が安定してても、これでいいのかって、ずっと不安だった」




「わかります」




「だから、不安がなくなる場所を探してたわけじゃないんですよね、たぶん。不安と、来てよかった、は、両方あっていいんだと思って、最近」




「両方?」




「不安があることと、失敗したことは、別だと思うので」




 田村さんは、しばらく黙っていた。




「それ、なんかすっきりしました」




 七尾さんが、ぽつりと言った。




「木も、同じですよ」




 二人で、七尾さんを見た。




「場所が変わると、木が動く。それを、失敗とは言わない。動くのが、木の性質なんで」




「椅子が折れたのも、失敗じゃないですか?」




「椅子は、直せますから」




 七尾さんは、それだけ言って、チーズをまた一枚取った。





 午後、七尾さんが椅子の修理に取り掛かった。




 折れた脚の接合部を、ノミで整える。木工用ボンドを塗って、新しい木片で補強する。私は、工具を渡したり、木片を押さえたりする係だった。




 作業の合間に、田村さんがチーズ工房の中を案内してくれた。




 大きなステンレスの釜に、牛乳を入れて温める。そこに乳酸菌と酵素を加えると、固まってくる。固まったものを型に入れて、水分を抜いて、熟成させる。説明を聞きながら、木工と似ていると思った。素材があって、道具があって、時間をかけて形になっていく。急かせない、という点も。




「チーズって、失敗しますか?」




「します。温度が少し違うだけで、固まり方が変わったり。慣れてきても、毎回同じにはならなくて」




「七尾さんも、木は毎回違うって言ってました」




「そうですよね。生き物だから」




 田村さんは、棚に並んだチーズの型を、一つずつ確認しながら言った。




「修業してたころは、失敗が怖くて。でも、ここに来てからは、失敗しても材料代だけの損で済む、って思えるようになって。少し、楽になりました」




「独立したほうが、気が楽になるんですか?」




「責任は増えるんですけどね。でも、失敗が全部自分のものになるので、誰かのせいにできない分、すっきりする、というか」




 私は、その感覚が少しわかる気がした。東京で仕事をしていたとき、失敗はいつも、誰かと一緒のものだった。チームで、会社で、クライアントと一緒に。ここでは、削りすぎた木は、私が削りすぎた木だった。それが、重かったり、軽かったりする。




「チーズって、どのくらいで売れるようになりますか?」




「フレッシュチーズは、作ってすぐ売れる。でも、セミハードは熟成に時間がかかるので、作ってから三ヶ月くらい。今、ちょうど最初のセミハードが、来月出せるくらいになってきて」




「じゃあ、これからですね」




「そうなんです。だから、焦ってもしょうがない、って思いつつ、焦るんですよね」




 七尾さんが、接合部を金槌で軽く叩きながら言った。




「木も、急がせると割れますよ」




「木が、ですか?」




「乾燥させるとき、急いで乾かすと、割れる。じっくり時間をかけると、割れない」




 田村さんが、少し笑った。




「職人って、みんなそういう話し方をするんですか?」




「どういう話し方ですか?」




「自分の仕事のことを、他のことに例えて」




「うーん。そういうつもりはないですけど。木のことしかわからないんで、他のことを考えるときも、木で考えちゃうんですよね、たぶん」




 三時間ほどかかって、椅子の修理が終わった。




 四本の脚が、全部締まった。七尾さんが、椅子を床に置いて、座ってみた。がたつきがない。




「できました」




「ありがとうございます。触り心地が、変わりましたね」




「補強が入ってるので、前より丈夫です」




「前より丈夫」




「一回折れた木は、直し方によっては、前より強くなります」




 田村さんは、椅子の脚を、手でそっと触った。




「折れた経験が、木に残る」




「補強の跡が、見えますよ、よく見ると」




 田村さんが、しゃがんで接合部を見た。補強した木片の色が、元の木と少し違った。揃っていない。でも、悪くなかった。




 第一話で、サワさんが「直さないで、いいわ」と言ったのを思い出した。ご主人が差し替えた一本のセン材。ぴったり同じじゃないから、覚えている。今日の田村さんの椅子も、補強の跡が残る。折れたことが、消えないように残る。それは傷というより、来歴だった。




「このまま、使います」




 田村さんが、椅子を壁から起こして、床に置いた。座ってみた。




「いいですね。東京にいたころと同じ感じがする」




「同じではないですよ」




「でも、同じ感じがします」




 七尾さんは、何も言わなかった。工具を片付けながら、少しだけ笑っていた気がした。





 帰り道、軽トラで農道を走った。




 夕方の光が、牧草地を横から照らしていた。朝より、空が高くなった気がした。




「七尾さん、田村さんに言ったこと、木を急がせると割れる、って、本当にそう思ってますか?」




「実際そうだよ。急いで乾かすと、材料が割れる」




「なんとなく、田村さんに向けて言ってたような気がして」




 七尾さんは、少し間を置いた。




「木のことを言ってたつもりですけど」




「そうですか」




「でも、同じかもしれない、とは思いました」




 煙草に火をつけて、煙を窓の外に逃がした。




 農道の両側に、牧草地が続いていた。夕日が、カラマツの防風林の向こうに沈もうとしていた。




 来てよかった、と田村さんに言ったとき、自分でも少し驚いた。不安と、来てよかった、は両方ある。そう言葉にしたとき、東京を出た日のことを、初めてすっきりした気持ちで思い出せた気がした。




 半年前の田村さんと、一年前の私は、たぶん、同じ場所にいた。それが、少しずつ変わっていく。折れた椅子が、補強を入れて前より丈夫になるみたいに。




 軽トラが、中標津の町に入った。




 工房の明かりが、遠くに見えた。朝、出発するときと同じ場所に、明かりがある。でも、夕方に見ると、少し違って見えた。




 帰る場所がある、という感覚が、いつの間にか、当たり前になっていた。

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