第9話 移住者の、折れた椅子
四月の終わり、工房の電話が鳴った。
「はい、七尾工房です。──ええ。──椅子。──折れた。──はい、見に行けますよ。──場所を教えてもらえますか?」
受話器を置いて、七尾さんがメモを私に渡した。
「田村チーズ工房。計根別のほうです」
「計根別、ですか?」
「牧草地の中に、ポツンとある感じの」
「チーズ工房、ですか」
「珍しいよね。行ってみましょうか」
返事が早かった。
道具を軽トラに積みながら、七尾さんに訊いた。
「椅子の修理に、道具がこんなにいるんですか?」
「折れ方を見てみないとわからんからね、念のため」
念のため、がいつも多い人だった。
今日読んでいた本のことを考えていた。朝の読書は、重松清の『ビタミンF』だった。家族の話で、誰かのそばにいることの難しさと、でもそばにいることの意味を描いている。読んでいると、ここに来た理由のことを、またぼんやりと考えてしまう。
計根別まで、中標津から軽トラで三十分ほどかかった。
国道を北に走ると、牧草地がどこまでも続いた。四月の終わりで、草はまだ短い。牛たちが、広い土地にぽつぽつと散らばっていた。道の両側に、防風林のカラマツが等間隔に並んでいる。この直線が、どこまで続くのか、見ていても終わりが見えなかった。
「七尾さん、田村さんって、どういう人なんですか?」
「知らないです」
「知らない人のところに行くんですか?」
「Instagramで連絡来たんよ。写真見たら、いい雰囲気の工房で」
七尾さんは、それだけ言って、煙草に火をつけた。
田村チーズ工房は、防風林を折れた先の農道の奥にあった。白い壁の、小さな建物だった。入り口に、手書きの看板が立っていた。『田村チーズ工房』。七尾工房の看板と同じように、文字だけで、装飾がない。
「ごめんください。七尾工房です」
引き戸を開けると、乳製品の甘い匂いがした。工房の中は、大きなステンレスの釜と、棚に並んだチーズの型。奥から、エプロン姿の女性が出てきた。二十代の後半くらい。髪を後ろでまとめて、長靴を履いている。
「田村です。来てもらってありがとうございます」
「七尾です。こちら、弟子の橋本」
「橋本です。はじめまして」
「はじめまして。どうぞ、こっちに」
田村さんに案内されたのは、工房の奥の小さな部屋だった。休憩室らしく、小さなテーブルと、椅子が四脚置いてあった。そのうちの一脚が、壁に立てかけてあった。脚が一本、付け根のあたりで折れていた。
「これです。朝、座ったら、ぱきっと」
七尾さんが、椅子を手に取った。折れた脚の断面を、じっと見た。
「いつごろ買った椅子ですか?」
「東京にいたとき、五年くらい前。インテリアショップで」
「東京から持ってきたんですか?」
「はい。こっちに来るとき、気に入ってたものだけ持ってきて」
七尾さんは、折れた断面に指を当てた。
「木が痩せてます」
「痩せる、んですか?」
「乾燥すると、木が縮むんです。東京より、北海道のほうが冬の乾燥が強くて。接合部の木が縮んで、隙間ができて、そこに力がかかって折れた」
「東京から持ってきたせいですか?」
「場所が変わったせいです。椅子が悪いわけじゃない」
田村さんは、少し間を置いた。
「直りますか?」
「直ります。接合部を作り直して、補強を入れれば」
「よかった。お願いできますか?」
「はい。他の三本の脚も、少し緩んでます。今回折れなかっただけで、同じ状態になってる」
「全部、直したほうがいいですか?」
「せっかくなので」
七尾さんは、工具袋からノギスを取り出して、接合部の寸法を測り始めた。私は、折れた脚の断面を覗き込んだ。切り口がきれいだった。ぱきっと、と田村さんが言っていた通り、割れた、というより折れた感じがした。木が、限界まで我慢して、最後に一度だけ折れた、という感じ。
場所が変わったせいです、と七尾さんは言った。椅子のせいじゃない。我慢させた環境のせい。その言い方が、なぜか、自分のことを言われているような気がした。
「よかったら、チーズ食べてってください」
田村さんが、冷蔵庫から小さなプレートを出してきた。白いチーズが、三種類並んでいた。
「ここで作ったものですか?」
「はい。フレッシュチーズとセミハードと、あと、これは燻製にしたやつです」
「いただきます」
フレッシュチーズを一口食べた。あっさりしていた。ミルクの味がした。
「おいしいですね」
「ありがとうございます。まだ試行錯誤中で」
「田村さん、中標津に来て、どのくらいですか?」
「去年の秋に来ました。半年ちょっと」
「移住ですか?」
「はい。東京でOLしてたんですけど、やめて。チーズを作りたくて」
「なぜチーズなんですか?」
田村さんは、少し笑った。
「変ですよね、よく言われます。東京にいたとき、北海道旅行で食べたチーズがすごくおいしくて。自分で作れないかなと思って、チーズ作りを勉強して、農家さんを探して、ここに来た感じです」
「勉強、どこでしたんですか?」
「チーズ工房で二年、修業して。その間に、独立する場所を探してました」
七尾さんが、チーズを一口食べた。
「これ、どこの牛乳ですか?」
「すぐ近くの牧場さんです。毎朝、取りに行って」
「搾りたてですか?」
「はい。鮮度が全然違うので」
「なるほど」
七尾さんは、燻製チーズをもう一枚取って、また食べた。
「橋本さんも、移住ですよね?」
田村さんが、私を見た。
「はい。去年の十一月に、東京から」
「何をしてたんですか、東京で?」
「広告の会社で、コピーを書いてました」
「コピーライター。全然違う仕事ですね」
「全然違います」
「橋本さんは、なんで木工を選んだんですか?」
私は、少し考えた。
「木工を選んだというより、七尾工房を選んだ、という感じで。動画を見て、この工房に来たいと思って」
「動画、私も見てました。あの寄木細工のカッターナイフ」
「そうなんですか」
「端材が、一本のカッターナイフになっていく。なんか、こういう仕事がしたいって、思って。チーズも、牛乳という素材が、形を変えて何かになっていく仕事で」
「似てますね、そういう意味では」
田村さんは、コーヒーを一口飲んだ。
「橋本さん、中標津に来て、どうですか?」
「来てよかったです。今のところ」
「今のところ、か」
「まだ一年ちょっとなので。でも、今のところは、来てよかった」
「私、半年経って、ちょっと不安になってきて」
「不安、ですか?」
「チーズ、まだほとんど売れなくて。やっていけるのかなって」
私は、少し考えてから言った。
「東京にいたときも、不安でしたよ。仕事が安定してても、これでいいのかって、ずっと不安だった」
「わかります」
「だから、不安がなくなる場所を探してたわけじゃないんですよね、たぶん。不安と、来てよかった、は、両方あっていいんだと思って、最近」
「両方?」
「不安があることと、失敗したことは、別だと思うので」
田村さんは、しばらく黙っていた。
「それ、なんかすっきりしました」
七尾さんが、ぽつりと言った。
「木も、同じですよ」
二人で、七尾さんを見た。
「場所が変わると、木が動く。それを、失敗とは言わない。動くのが、木の性質なんで」
「椅子が折れたのも、失敗じゃないですか?」
「椅子は、直せますから」
七尾さんは、それだけ言って、チーズをまた一枚取った。
午後、七尾さんが椅子の修理に取り掛かった。
折れた脚の接合部を、ノミで整える。木工用ボンドを塗って、新しい木片で補強する。私は、工具を渡したり、木片を押さえたりする係だった。
作業の合間に、田村さんがチーズ工房の中を案内してくれた。
大きなステンレスの釜に、牛乳を入れて温める。そこに乳酸菌と酵素を加えると、固まってくる。固まったものを型に入れて、水分を抜いて、熟成させる。説明を聞きながら、木工と似ていると思った。素材があって、道具があって、時間をかけて形になっていく。急かせない、という点も。
「チーズって、失敗しますか?」
「します。温度が少し違うだけで、固まり方が変わったり。慣れてきても、毎回同じにはならなくて」
「七尾さんも、木は毎回違うって言ってました」
「そうですよね。生き物だから」
田村さんは、棚に並んだチーズの型を、一つずつ確認しながら言った。
「修業してたころは、失敗が怖くて。でも、ここに来てからは、失敗しても材料代だけの損で済む、って思えるようになって。少し、楽になりました」
「独立したほうが、気が楽になるんですか?」
「責任は増えるんですけどね。でも、失敗が全部自分のものになるので、誰かのせいにできない分、すっきりする、というか」
私は、その感覚が少しわかる気がした。東京で仕事をしていたとき、失敗はいつも、誰かと一緒のものだった。チームで、会社で、クライアントと一緒に。ここでは、削りすぎた木は、私が削りすぎた木だった。それが、重かったり、軽かったりする。
「チーズって、どのくらいで売れるようになりますか?」
「フレッシュチーズは、作ってすぐ売れる。でも、セミハードは熟成に時間がかかるので、作ってから三ヶ月くらい。今、ちょうど最初のセミハードが、来月出せるくらいになってきて」
「じゃあ、これからですね」
「そうなんです。だから、焦ってもしょうがない、って思いつつ、焦るんですよね」
七尾さんが、接合部を金槌で軽く叩きながら言った。
「木も、急がせると割れますよ」
「木が、ですか?」
「乾燥させるとき、急いで乾かすと、割れる。じっくり時間をかけると、割れない」
田村さんが、少し笑った。
「職人って、みんなそういう話し方をするんですか?」
「どういう話し方ですか?」
「自分の仕事のことを、他のことに例えて」
「うーん。そういうつもりはないですけど。木のことしかわからないんで、他のことを考えるときも、木で考えちゃうんですよね、たぶん」
三時間ほどかかって、椅子の修理が終わった。
四本の脚が、全部締まった。七尾さんが、椅子を床に置いて、座ってみた。がたつきがない。
「できました」
「ありがとうございます。触り心地が、変わりましたね」
「補強が入ってるので、前より丈夫です」
「前より丈夫」
「一回折れた木は、直し方によっては、前より強くなります」
田村さんは、椅子の脚を、手でそっと触った。
「折れた経験が、木に残る」
「補強の跡が、見えますよ、よく見ると」
田村さんが、しゃがんで接合部を見た。補強した木片の色が、元の木と少し違った。揃っていない。でも、悪くなかった。
第一話で、サワさんが「直さないで、いいわ」と言ったのを思い出した。ご主人が差し替えた一本のセン材。ぴったり同じじゃないから、覚えている。今日の田村さんの椅子も、補強の跡が残る。折れたことが、消えないように残る。それは傷というより、来歴だった。
「このまま、使います」
田村さんが、椅子を壁から起こして、床に置いた。座ってみた。
「いいですね。東京にいたころと同じ感じがする」
「同じではないですよ」
「でも、同じ感じがします」
七尾さんは、何も言わなかった。工具を片付けながら、少しだけ笑っていた気がした。
帰り道、軽トラで農道を走った。
夕方の光が、牧草地を横から照らしていた。朝より、空が高くなった気がした。
「七尾さん、田村さんに言ったこと、木を急がせると割れる、って、本当にそう思ってますか?」
「実際そうだよ。急いで乾かすと、材料が割れる」
「なんとなく、田村さんに向けて言ってたような気がして」
七尾さんは、少し間を置いた。
「木のことを言ってたつもりですけど」
「そうですか」
「でも、同じかもしれない、とは思いました」
煙草に火をつけて、煙を窓の外に逃がした。
農道の両側に、牧草地が続いていた。夕日が、カラマツの防風林の向こうに沈もうとしていた。
来てよかった、と田村さんに言ったとき、自分でも少し驚いた。不安と、来てよかった、は両方ある。そう言葉にしたとき、東京を出た日のことを、初めてすっきりした気持ちで思い出せた気がした。
半年前の田村さんと、一年前の私は、たぶん、同じ場所にいた。それが、少しずつ変わっていく。折れた椅子が、補強を入れて前より丈夫になるみたいに。
軽トラが、中標津の町に入った。
工房の明かりが、遠くに見えた。朝、出発するときと同じ場所に、明かりがある。でも、夕方に見ると、少し違って見えた。
帰る場所がある、という感覚が、いつの間にか、当たり前になっていた。




