第8話 春の工房、初めての外仕事
四月の中標津は、まだ冬の匂いがする。
雪は解けていた。でも、土がまだ凍っていて、踏むとざくざくと音がした。牧草地は茶色いまま、ところどころに残雪が白く残っている。それでも、空の色が変わった。冬の間、鉛色だった空が、少しだけ青くなっていた。
朝、窓を開けると、牛の声がした。
遠くの牧場に、牛が戻ってきていた。冬の間、牛舎の中にいた牛たちが、春になると牧草地に出てくる。七尾さんは「中標津の春は、牛で始まるんだよ」と言った。たしかに、そうかもしれなかった。
今日読んでいるのは、宮下奈都の『羊と鋼の森』だ。ピアノの調律師の話で、音と木と、人の繊細な感覚を描いている。読んでいると、木の手触りや、工房の音のことを、なぜか考えてしまう。七尾さんの本棚で見つけたとき、「これ、読んでいいですか」と訊いたら、「おすすめだよ」と言われた。
その朝、工房に多胡さんが来た。
多胡材木店の、多胡さん。五十代の、がっしりした体格の男で、いつも軍手を作業着のポケットに突っ込んでいる。工房に材木を届けてくれる人で、私が来てからも何度か顔を合わせていた。口数が少なくて、用件だけ言って帰る。七尾さんとの付き合いは長いらしいけれど、二人が長話をしているところを、一度も見たことがなかった。
「七尾さん、畑山さんからの伝言。今週末、縁側、お願いできるかって」
「ああ、やっと解けましたか」
「昨日から土が出てきたんで。材料は、うちから届けるよ」
「じゃあ、土曜日いくわ」
多胡さんは、それだけ言って帰っていった。
「七尾さん、縁側って、どこかの修理ですか?」
「畑山さんの古民家。縁側ってゆーかウッドデッキみたいなところの板を張り替える仕事だね」
「外仕事ですか?」
「そう。たまにこういうのがあって」
七尾さんは、コーヒーを一口飲んだ。
「アユムさん、土曜日、一緒に行くかい?」
「行っていいですか?」
「道具の運搬があるんで、人手があると助かるよ」
道具の運搬、という言い方が、らしかった。
畑山さんのことは、名前だけ知っていた。七尾さんの口から、何度か出てきた名前だった。老大工、とだけ聞いていた。
「畑山さんって、どんな方ですか?」
「うーん。中標津で、ずっと大工やってた人だね。もう八十近いかな。今は仕事はしてないけど」
「七尾さんとは、どういう知り合いですか?」
「昔、建築会社とか建具屋さんから仕事をもらってたころ、よく一緒に現場やってたんです。五年くらい前まで」
「今はやってないんですか?そういう仕事」
「うーん。工房の仕事が増えてきたんで、だんだん減らして。畑山さんの分だけ、今も受けてる」
七尾さんは、それ以上説明しなかった。
でも、その「畑山さんの分だけ」という言い方に、何かがある気がした。仕事の量の話だけじゃなくて、もう少し別の何かが、その言葉の後ろにある気がした。
土曜日の朝、七時半。
工房の前に停めてある軽トラの荷台に、道具を積んだ。スライド丸鋸、コードレス丸鋸、鉋、ノミ、サンダー、インパクトドライバー。
「七尾さん、これ、全部使うんですか?」
「半分くらいは、念のため」
念のため、という量ではなかった。でも、黙って積んだ。
軽トラは、農道をまっすぐ走った。道が細くて、舗装が古い。両側に、牧草地が続いている。牛が、朝の光の中に点々としていた。冬の間、牛舎の中にいた牛たちが、まだ外の感覚を取り戻している途中みたいに、少しぎこちなく歩いていた。
「七尾さん、外仕事は久しぶりですか?」
「畑山さんのところは、年に一回か二回。他は、もうほとんどやってないね」
「工房の仕事と、どっちが好きですか?」
七尾さんは、少し考えた。
「工房のほうが、好きかな。でも、外仕事にしかない感覚があって」
「どんな感覚ですか?」
「木が、生きてるのが、わかりやすい」
それ以上、説明しなかった。
農道の突き当たりで、七尾さんが軽トラを林の細道に乗り入れた。少し走ると、開けた場所に、一軒の家が現れた。古い農家を改装した家で、屋根が低く、窓が小さい。庭に、雪解け水が溜まっていた。煙突から、白い煙が出ていた。
「七尾くん、来たか」
玄関から出てきたのは、小柄な老人だった。七十代の後半だろうか。背中が少し丸まっているけれど、手が大きかった。職人の手だ、と思った。指の節が太くて、手のひらが厚い。七尾さんの手とも、私の手とも、違う手だった。
「畑山さん、お久しぶりです。こちら、弟子の橋本アユムです」
「はじめまして。橋本です」
「畑山です。よく来てくれた」
畑山さんは、私の手をひと目見た。
「まだ、やわらかい手だな」
「はい、まだ一年で」
「一年か。七尾くんは、三年で手が変わった。もう少しかかるかな」
畑山さんは、それだけ言って、縁側のほうに歩いていった。褒めているのか、けなしているのか、よくわからなかった。でも、悪い感じはしなかった。
縁側は、家の南側にあった。幅約一・八メートル、長さ約五・五メートルの板張りの縁側。日当たりがいいのか、雪はもう解けていて、板が乾いていた。板が何枚か、色が変わっていた。腐っているのではなく、長年の日光と雨で、繊維が傷んでいる。踏むと、少したわむ箇所があった。
「ここと、ここと、端の三枚。全部で五枚」
畑山さんが、指で示した。
「七尾さん、全部張り替えますか?」
「色が揃わないですけど、それでいいですか、畑山さん」
「いい。どうせ日に焼けたら揃う」
作業は、午前中に始まった。
七尾さんが傷んだ板を外し、私が古いビスを抜いて、板の下の根太の状態を確認する。根太は生きていた。板だけ替えれば済む。外した古い板を脇に積みながら、私は工房との違いを感じていた。工房の中では、音が壁に吸われる。でも外では、鋸の音も、木を叩く音も、遠くまで響いた。風が、作業台の代わりに空気を運んでいく。体で感じる温度も、空気の湿り気も、工房とは全然違う。
「アユムさん、これ、持ってみて」
七尾さんが、新しいナラ材の板を渡した。
「重いですね」
「工房の中で同じ板を持ったとき、どうだった?」
「もう少し、軽かった気がします」
「気のせいじゃないよ」
七尾さんは、板の側面を指でなぞった。
「外に出すと、木が水分を含むんだよ。工房の中は乾燥してるから、同じ板でも重さが変わる。それだけじゃなくて、動き方も変わる」
「動き方?」
「膨らむんよ、少し。外にだすと、気候に合わせて木が動く。工房の中で測った寸法より、少し余裕を持って切らないといけない」
「工房の中だけで作ってると、忘れるんだよね、それを。木は生きてるから、環境で変わる」
畑山さんが、縁側の端に腰を下ろして、煙草に火をつけていた。それを聞いていたのか、いないのか、ぽつりと言った。
「七尾くんは、最初、それで失敗してた」
「してましたね」
「外に出した途端に、板が割れた」
「あれは恥ずかしかったです」
畑山さんが、笑った。七尾さんも、苦笑いをした。
七尾さんにも失敗していた時期があったんだ、と思った。当たり前のことなのに、なぜか、少し安心した。
昼になって、畑山さんの奥さんが、おにぎりと味噌汁を持ってきてくれた。縁側の端に座って、三人で食べた。
「七尾くん、工房のほうは順調か?」
「まあまあです」
「弟子もできたし、いいじゃないか」
「アユムさんは、コピーライターだったんですよ。文章書く人」
「物書きか」
畑山さんは、私を見た。
「木工と文章は、どっちが難しい?」
「木工のほうが難しいです。今のところ」
「今のところ、か。いい答えだ」
畑山さんは、おにぎりを一口食べた。
「七尾くんが来たころは、ここらへんに若い職人がほとんどいなくて。一人で現場やってると、しんどいことがあって。七尾くんが来てから、助かった。最初はギター職人なんか大工仕事できるわけないと思ってたけどな」
畑山さんが笑った。
「畑山さんに教えてもらったことのほうが多いですよ」
「そうかな」
「木の動き方、教えてくれたのも畑山さんじゃないですか」
「ああ、そうか」
畑山さんは、煙草に火をつけた。しばらく、庭の雪解け水を眺めていた。それから、ふと笑った。
「七尾くん、階段の話、覚えてるか?」
「覚えてます。忘れられないです」
「どんな話ですか?」
私が訊くと、畑山さんが話し始めた。
「七尾くんが、初めて一人で階段を作ったんだ。古民家の玄関の外階段。段数は六段。寸法もちゃんと測って、丁寧に作ってた」
「そこまでは、よかったんですよ」
七尾さんが、苦笑いしながら続けた。
「最後の一段だけ、一センチ高かったんです」
「一センチ?」
「ええ。五段はぴったりで、六段目だけ、一センチ高い。踏んだとき、わずかに引っかかる感じがする」
「気づかないんじゃないですか、一センチくらい」
「すぐ気づくんですよ、体が。毎日使う階段だと」
畑山さんが、頷いた。
「施主さんから『なんか最後の段だけ、つまずく』って連絡が来て。測ってみたら、最後の段だけ一センチ高かった」
「原因は何だったんですか?」
「工房で全部の板を切って、現場で組んだんです。でも最後の一枚だけ、現場で少し木が動いてた。工房で測ったときと、現場で組んだときで、寸法がずれてた」
七尾さんは、味噌汁を一口飲んだ。
「作り直しましたよ。六段、全部」
「全部ですか。一段だけじゃなくて?」
「一段だけ直すと、今度は色が揃わないんで。それに、一段直すなら全部見直したほうがいい、と畑山さんに言われて」
畑山さんが、また笑った。
「七尾くん、そのとき、一言も文句を言わなかった。黙って全部解体して、全部作り直した」
「文句を言える立場じゃないですから」
「職人は、そういうもんだ。でも、それからは、外の現場では必ず現場で寸法を取り直すようになった」
私は、六段の階段を頭の中で思い浮かべた。五段は完璧で、最後の一段だけ一センチ高い。踏んだ瞬間に、体が感じる違和感。
「一センチって、そんなに違うんですね」
「人間の体は、リズムで動いてるんです」
七尾さんが言った。
「階段を上るとき、無意識に同じ高さを繰り返すリズムができる。最後だけ違うと、体がびっくりする。頭じゃなくて、足が気づく」
私は、その言葉を、頭の中にしまった。文章のリズムも同じだ、と思った。最後の一文だけトーンが変わると、読者の体が気づく。木も、言葉も、ずれは体に来る。
「まあ、失敗して覚えるもんだ」
畑山さんが、煙草の煙を空に向けて吐いた。
午後、板の取り付けに入った。インパクトドライバーで下穴を開けて、ビスで留める。七尾さんの手際が、工房とは少し違った。動きが大きい。外の仕事のリズムがある。
午後二時には、五枚の板が張り終わった。
七尾さんが、板の上を歩いてみた。踏み心地を確かめるように。畑山さんも、ゆっくり歩いた。
「いいな」
畑山さんが言った。
「色が揃ってないですけど」
「揃わなくていい。新しいのが入ったほうが、気持ちがいい」
新しいナラ材の板は、明るい色をしていた。古い板と並ぶと、確かに揃っていない。でも、悪くなかった。むしろ、新しい板のところだけ、光を反射して、縁側が少し明るくなった気がした。第一話でサワさんの椅子を見たときのことを、ふと思い出した。揃っていないから、覚えている。
帰り際、道具を片付けていると、畑山さんが母屋のほうから出てきた。手に、古いギターケースを持っていた。
「七尾くん、これ、見てくれるか?」
「ギターですか?」
「押し入れに入れっぱなしで。ちゃんと鳴るのか、確かめたくて」
七尾さんがケースを受け取って、留め金を外した。
中から出てきたのは、古いアコースティックギターだった。年季が入っているけれど、よく保管されている。ボディの色が、深い飴色をしていた。
七尾さんの手が、一瞬止まった。
ヘッドのロゴを、じっと見た。
「九鬼ですね」
「そうだ。知ってるか?」
「もちろん」
七尾さんは、ギターをそっと抱えた。弦を軽く弾いてみた。弦が古くて、音がくぐもっていた。でも、ボディの鳴りは生きていた。
「九鬼楽器、知ってるんですか?」
私は、訊いた。
「長野のギターメーカーです。今はもうない」
「有名なんですか?」
「昔は、かなり。国産ギターの中では、ちょっと別格で」
七尾さんは、ギターのネックを、指で撫でた。
「当時ギターをやってた人には、憧れのブランドだったんですよ。今でも、ジャパンビンテージとして、高値で取引されてて」
「畑山さん、これ、どこで手に入れたんですか?」
「若いころ、無理して買った。給料三か月分くらいした」
「そうですか」
七尾さんは、また弦を弾いた。今度は、コードを一つ。くぐもってはいたけれど、音の輪郭がはっきりしていた。いいギターの鳴り方だった。
「弦、替えて、少し調整すれば、ちゃんと鳴りますよ」
「じゃあ、お願いしていいか?」
「はい。工房に持って帰っていいですか。一週間くらい」
「おう、頼むよ」
七尾さんは、ギターをケースに戻した。留め金を閉める手が、いつもより丁寧だった。
軽トラに乗り込んで、農道を走り始めた。
夕方の光が、牧草地を横から照らしていた。朝よりも、牛の数が増えていた。冬の間、牛舎にいた牛たちが、少しずつ外に慣れていくのかもしれない。
助手席から、七尾さんの横顔を見た。いつもと、少し違う顔をしていた。何かを思い出しているような、何かを堪えているような。うまく言えないけれど、工房にいるときの七尾さんとは、少し違った。
「七尾さん」
「ん?」
「九鬼楽器って、長野のメーカーだったんですよね」
「だよ」
「七尾さんが、長野にいたころ、まだあったんですか?」
七尾さんは、少し間を置いた。
「あった」
「知ってる人がいたんですか、そこに?」
また、間があった。
「うーん。まあ、いろいろと」
それだけだった。
農道の両側に、牧草地が続いていた。牛が、夕方の光の中で草を食んでいた。
九鬼楽器。
その名前を、私は頭の中で転がした。以前、佐久間さんが帰り際に七尾さんに向けて言っていた名前だ。あのときの七尾さんの沈黙と、今日の手が止まった一瞬が、重なった。
七尾さんは、窓の外を見たまま、何も言わなかった。煙草に火をつけて、煙を細く吐いた。
工房に着くまで、二人とも、口を開かなかった。
夜、七尾さんが畑山さんのギターを調整していた。弦を張り替えて、ネックの反りを確かめて、ペグを締める。黙々と、丁寧に。
私は、ソファに座って、『羊と鋼の森』の続きを読んでいた。
ピアノの調律師が、初めて一人で仕事をする場面だった。音が正しいかどうか、自分の耳だけを信じるしかない場面。不安と、集中と、静かな喜びが混ざり合う場面だった。
九鬼楽器のギターを触る七尾さんの手は、いつもより、少しだけ、慎重だった。
工房の木と、外の木は、同じように見えて、動き方が違う。
七尾さんの工房での顔と、今日の顔も、どこか、違った。
訊いてはいけない気がして、私は本に目を戻した。
ストーブの薪が、ぱちん、と鳴った。
窓の外、中標津の四月の夜に、また牛の声がした。朝と同じ声で、でも、夜に聞くと、少し違って聴こえた。




