第7話 リボン柄のベースが、鳴る夜
三月の朝、雪が解け始めていた。
工房に来て、一年が経った。
中標津の三月は、まだ寒い。朝の気温はマイナスのままで、日中だけ少し緩む。それでも、軒先の氷柱が昼に滴るようになって、雪がざらついた質感に変わった。春が来ているのか、冬がまだ粘っているのか、よくわからない季節だった。
朝、八時二十分。白い合皮のソファ。十分間の読書。
今日読んでいるのは、梨木香歩の『西の魔女が死んだ』だ。何度目かの再読だった。読むたびに違う場所が引っかかる。今日引っかかったのは、まいが「ここにいていい」と感じる場面だった。どこかに属することの、静かな安心感。
最初の日、緊張でコーヒーを零した染みは、まだソファの右側にある。七尾さんは、一度も拭かなかった。私も、拭かなかった。いつの間にか、あって当然の染みになっていた。
ソファの座面の真ん中の、薄い跡は、まだある。誰の跡なのか、まだ訊いていない。一年経っても、訊けていない。訊くタイミングを、ずっと探しているのかもしれない。それとも、訊かないままでいることを、どこかで選んでいるのかもしれない。
中村トキさんが来たのは、午前十時ごろだった。
引き戸が開いて、小さな人影が入ってきた。八十五歳とは思えない足取りで、工房の入り口に立った。両手に、大きな紙袋を抱えていた。
「七尾くん、ふきのとう、採れたよ」
「ああ、トキさん。わざわざ」
「隣の畑の端っこに、もう出てたから」
トキさんは、紙袋を作業台に置いた。中を覗くと、丸くて青い、ふきのとうがたくさん入っていた。
「こちら、弟子の橋本さんです」
「はじめまして」
「中村トキです。隣に住んでます。七尾くんが来たときから、ずっと隣」
「十年ですね」
「十年。早いもんだ」
トキさんは、工房の中をぐるりと見渡した。機械、工具、棚に並んだ木材。慣れた目で見ていた。何度も来ているのだろう。
「今日は何、作ってるの?」
「椅子の修理と、あと、アユムさんが、ボールペン」
「ボールペン?」
トキさんが、私のほうを見た。
「はい。木製のボールペンを。チェリー材で」
「見せてもらえる?」
作業台の上の、半分できあがったボールペンを手に取って、トキさんに渡した。旋盤で削り出して、紙やすりで磨いている途中だった。まだ表面が粗い。
トキさんは、ボールペンを指でゆっくり回した。
「きれいな色だね」
「チェリーです。削ると、こういうピンクになるんです」
「へえ」
「まだ途中で、磨きが全然足りなくて」
「でも、形はできてるじゃない」
トキさんは、ボールペンを返してくれた。
「七尾くん、この子、筋がいいんじゃないの?」
「うーん。手は、普通ですね」
「褒めてあげなよ」
「悩み方は、合ってます」
トキさんが、笑った。七尾さんの褒め方を、前から知っているような笑い方だった。
お茶を淹れて、三人でリビングに移った。
トキさんは、白いソファに腰を下ろして、ゆっくりと部屋を見渡した。それから、ソファの右側のコーヒーの染みを見て、小さく笑った。
「相変わらず、拭かないんだね」
「拭けば落ちるかもしれないんですけど」
「落ちたら、落ちたで、寂しいだろ」
七尾さんは、何も言わなかった。でも、否定しなかった。
トキさんは、カンナの頭を撫でた。カンナは迷惑そうな顔をしたが、逃げなかった。
「カンナも、大きくなったね」
「太ったんだと思います」
「太ったんじゃなくて、落ち着いたんだよ。猫は、安心すると丸くなる」
七尾さんは、何も言わなかった。
「七尾くん、最近、夜中にギター弾いてるね。聞こえるよ、うちまで」
「すみません、うるさかったですか?」
「うるさくはない。静かな夜に、ちょうどいいくらい。何を弾いてるの?」
「いろいろ」
「昔より、多く弾いてる気がする」
「……そうかな」
「そうだよ。私には、わかる」
トキさんは、お茶を一口飲んだ。
「この子が来てから、変わったんじゃないの?」
私のことを、顎で示した。
「うーん。どうでしょう」
「変わったよ。私には、わかる」
七尾さんは、コーヒーを飲んだ。否定しなかった。
私は、お茶を持ったまま、なんと言えばいいかわからなかった。変わった、という言葉の意味を、もう少し訊いてみたかったけれど、訊けなかった。
「橋本さん、ここ、来てよかった?」
トキさんが、急に私に訊いた。
「はい」
「迷わず言えるね」
「迷わないです」
「じゃあ、よかった」
トキさんは、満足そうに頷いた。
「一年前、七尾くんが弟子を取るって聞いて、びっくりしたんだよ。十年、一人でやってきた人が、人を入れるって言うから」
「私も、びっくりしました。来てみたら、って返信だけで」
「それが七尾くんらしいんだよ。言葉が少なくて、でも、ちゃんと考えてる」
トキさんは、七尾さんを見た。七尾さんは、コーヒーを飲んでいて、聞こえていないふりをしていた。たぶん、聞こえていた。
トキさんは、それから、七尾さんを見た。
「七尾くん、この子、大事にしなよ」
「してますよ、たぶん」
「たぶん、って何だよ」
トキさんが笑って、七尾さんも笑った。
私も、笑った。
昼前、トキさんが帰り際に、玄関で振り返った。
七尾さんを、まっすぐ見た。
「七尾くん」
「はい」
「いつまでも、ここに居ていいんだよ」
七尾さんは、すぐには答えなかった。
少し間があった。ストーブの薪が、ぱちん、と鳴った。
「……はい」
「居たいだけ、居なさい」
「はい」
トキさんは、それだけ言って、引き戸を開けた。隣の家まで、雪の上を、ゆっくり歩いていった。
七尾さんは、しばらく、戸の前に立っていた。
私は、何も言わなかった。
ただ、七尾さんの横顔が、いつもより少し、やわらかかった気がした。いつも飄々としていて、何を考えているのかわからない横顔が、今日だけ、少し違った。
トキさんの言葉が、七尾さんの何かに触れたのだと思った。どこに触れたのかは、わからなかったけれど。
午後、工房に戻った。
ボールペンの続きをやった。紙やすりの番手を上げながら、表面を磨いていく。粗いところが取れて、だんだんすべらかになってくる。光に当てると、チェリー材の赤みが濃くなった。
七尾さんが、隣で椅子の修理をしながら言った。
「アユムさん、仕上げ、もう少し番手上げて」
「これ以上ですか?」
「一段階。そうすると、オイル入ったとき、全然変わるから」
言われた通りにやってみると、表面の質感が、たしかに変わった。指で触れると、つるりとした感触になった。
夕方、オイルを薄く塗った。
チェリー材が、みるみる色を深めた。さっきまでのピンクが、赤みを帯びた飴色になった。
「七尾さん」
「はい」
「これ、できましたか?」
七尾さんが、ボールペンを手に取った。指で転がして、光に当てた。
「できてるね」
「本当ですか」
「芯入れてみなよ」
インクの芯を差し込んで、ノックした。
紙に書いてみた。
ちゃんと、書けた。
自分で削った木で、字が書けた。
なんでもないことのはずなのに、少し、手が震えた。一年かけて、やっと、こういうものが作れた。木を、削って、磨いて、字が書けるものになる。その工程を、全部自分の手でやった、という感覚が、初めて指先にあった。
「七尾さん、これ、売れますか?」
「売れますよ」
「本当に?」
「Instagramに上げましょう。明日」
七尾さんは、ボールペンを返してくれた。
私は、ボールペンを手の中で転がした。軽かった。
コピーライターのとき、私は言葉を作っていた。でも、言葉は形がない。誰かに届いたかどうか、手で確かめる方法がなかった。このボールペンは、形がある。持てる。書ける。誰かの手の中で、使われる。それが、今まで作ってきたものとは、違う感触だった。
夕方、三上さんが魚を持ってきた。今日はホッケだった。脂がのっている、と三上さんは言った。七尾さんは「今夜、塩焼きにしよーかな」と言った。三上さんは、ソファの背もたれのカンナをひと撫でして、すぐ帰っていった。
「三上さん、いつも来ますね」
「漁があるたびに来てくれるんだよ。もう七、八年かな」
「七尾さんと仲がいいんですか?」
「仲がいいというか、お互いに何も言わないから、楽なんじゃないかな?彼、写真もうまいし、文章もうまいんだよ?昔の七尾工房のインスタで使ってる写真は彼が撮ってくれたりしてたよ」
七尾さんは、ホッケを捌きながら、そう言った。何も言わないから楽、という友情のあり方が、七尾さんらしかった。過去の投稿ももう一度見てみようと思った。
その夜。
晩ご飯は、ふきのとうの天ぷらと、鍋だった。七尾さんがふきのとうを揚げた。少し苦くて、春の味がした。
「七尾さん、これ、うまいですね」
「ふきのとうは、揚げるだけだから」
「揚げるだけって言うけど、私がやると油っぽくなるんですよね」
「油の温度だけだよ」
「それが難しいんですよ」
七尾さんは、それ以上説明しなかった。
ご飯を食べ終えて、七尾さんが温泉に行くと思っていたら、今日は行かなかった。ストーブの前のソファに座って、本を開いた。カンナが膝に乗った。レモンサワーの缶が、隣にあった。
私も、隣に座った。
しばらく、二人で本を読んでいた。
十一時を過ぎたころ、七尾さんが本を閉じた。立ち上がって、工房のほうに向かった。
「アユムさん、少しうるさくなりますけど」
「いいですよ」
工房の明かりが、点いた。
しばらくして、音が聞こえてきた。
ベースの音だった。
低く、太い音。リボン柄のジャズベースを、小さなアンプで鳴らしている音。それが、工房の壁を通して、リビングまで届いてきた。
私は、ソファに座ったまま、聞いていた。
最初は、何の曲かわからなかった。ゆっくりとしたテンポで、単音を拾うように弾いていた。
少しして、気がついた。
GLAYだった。『春を愛する人』だった。
ベースで弾くと、ギターとは違って聴こえた。低く、じっくりと、音が部屋に溶けていく感じがした。春の曲を、冬の終わりの夜に、一人で弾いている。
私は、目を閉じた。
一年前のことを、思い出していた。
中標津空港に降り立ったとき、空が異様に広かった。ニュービートルの助手席で、牧草地を眺めた。七尾工房の看板。白いソファ。カンナ。壁のベース。
あのとき、ベースを見て、誰かが誰かのために作った一本だと思った。なぜそう思ったのか、今もわからない。
でも、今夜、七尾さんがそのベースを弾いている。
ソファの真ん中の、薄い跡。
誰かが、ここに座っていた。
その人のことを、七尾さんはまだ、話していない。いつかと言ったまま、一年が経った。でも、今夜は、弾いている。それだけで、十分な気がした。
今夜だけは、訊かなくていい。訊かないことが、正解な夜というのがある。トキさんが「いつまでも、ここに居ていいんだよ」と言った夜に、七尾さんがそのベースを弾いている。それだけで、何かが伝わっている気がした。
春を愛する人、という曲を、七尾さんは誰かのために弾いているのかもしれない。ここにはいない誰かのために。ここに来るまでに、置いてきた誰かのために。
そういうことが、今夜は、なんとなくわかった気がした。わかった、というより、感じた、という感じだったけれど。
真夜中近く、工房の音が止まった。
七尾さんが、リビングに戻ってきた。手を洗って、また、ソファに座った。
「アユムさん、起きてたか」
「起きてました」
「うるさかった?」
「全然。聞いてました」
「そっか」
七尾さんは、また本を開いた。
私も、本を開いた。
ストーブの薪が、ぱちん、と鳴った。
「七尾さん」
「はい」
「来年も、ここにいていいですか?」
七尾さんは、本から目を上げた。少しだけ、考えるような顔をした。
「アユムさんが、いたければ」
「いたいです」
「じゃあ、いいよ」
それだけだった。
七尾さんは、また本に戻った。
私も、本に戻った。
白いソファの、座面の真ん中の跡が、ストーブの火の光の中で、かすかに見えた。
いつからあるんだろう、その跡。それが、誰の跡なのか。
来年も、ここにいれば、いつか、わかるかもしれない。
三月の夜は、まだ長い。でも、窓の外の雪は、昨日より少し減っている。
冬が、ゆっくりと、終わろうとしていた。




