第6話 東京の編集者、煙に巻かれる
二月の中標津は、一年で一番寒い。
朝、温度計を見ると、マイナス十五度だった。窓ガラスの内側に、霜の模様が張り付いていた。ストーブを全開にしても、工房の隅は冷えたまま。七尾さんは、それでも半袖のインナー一枚で鉋を引いていた。慣れ、らしい。
今日読んでいるのは、角田光代の『八日目の蝉』だ。あの日、飛行機の中で読みかけたまま、ずっと後回しにしていた本だった。主人公が逃げ続ける話で、逃げることが悪いのか正しいのか、読み終わっても答えが出ない。そういう本だった。
朝の読書が習慣になって、もう三ヶ月になる。工房にある本を片っ端から読んでいたら、いつの間にか、七尾さんの読書傾向が少しわかってきた。紀行文と、現代文学と、たまに料理の本。共通点は、どれも「どこかへ行く話」か「誰かと出会う話」であることだった。七尾さんが読む本には、必ず、移動と出会いがある。そのことに、今朝気づいた。
佐久間さんから電話があったのは、そんな朝だった。
七尾さんが受話器を取って、三分ほど聞いていた。相槌は、ほぼなかった。最後に「うーん」と言って、切った。
「アユムさん」
「はい」
「来週、東京から人が来ます」
「お知り合いですか?」
「知らないです」
「知らない人が来るんですか?」
「Instagramで連絡来て。出版社の人で、本を出したいって」
私は、思わず前のめりになった。
本。出版社。取材。
広告会社にいたころ、そういう話が来たら、即座に企画書を出していた。どう見せるか、どう切り取るか、何を前に出すか。反射的に、頭が動き始めた。
「七尾さん、それ、すごくいい話じゃないですか」
「うーん」
「七尾工房、本になったら、認知が一気に広がりますよ。Instagramだけじゃなくて、書店に並んで、新しい層にリーチできて」
「うーん」
「写真集でも、エッセイでも、職人の技術本でも、切り口はいくらでも──」
「アユムさん」
「はい」
「来てから、考えるかな」
七尾さんは、また鉋を引いた。シャッ、シャッ、と。
私は、口を閉じた。
佐久間さんが来る前日、工房でこんなことがあった。
午後の作業中、七尾さんが手を止めずに言った。
「アユムさん、明日来る編集者の人、たぶん、いろいろ訊いてくるよ」
「はい」
「俺が黙ってても、助けに入らなくていいから」
「え」
「訊かれたことには答えるけど、こっちから話すことはない」
七尾さんは、それだけ言って、また鉋を引き始めた。
助けに入らなくていい。その言葉を、私は頭の中で繰り返した。
コピーライターのとき、私はいつも助けに入っていた。クライアントが詰まったら言葉を補い、会議が止まったら話題を変え、沈黙があったら埋めた。それが私の仕事だと思っていた。
でも、七尾さんの隣では、それが正解じゃないのかもしれない。
佐久間雅人さんは、火曜日の午後に来た。
中標津空港からタクシーで工房の前に停まった。
降りてきたのは、四十代半ばの男だった。グレーのコートに、黒のマフラー。眼鏡をかけていて、手に革のトートバッグを持っている。東京の編集者、という感じがした。靴が、この雪道には明らかに向いていなかった。
「七尾さん、はじめまして。春秋社の佐久間です」
「七尾です。遠いところ、わざわざ」
「いえ、こちらこそ。突然の連絡にもかかわらず、ありがとうございます」
「こちら、弟子の橋本」
「はじめまして、橋本です」
「佐久間です。あ、元コピーライターの方ですよね。Instagramのキャプション、読んでます。いい文章ですね」
褒められると、職業病で、次の一手を考えてしまう。
リビングのソファに案内して、コーヒーを淹れた。佐久間さんは、白いソファの染みをちらりと見て、何も言わなかった。カンナが、背もたれから佐久間さんを見下ろしていた。
「七尾さん、早速なんですが」
佐久間さんは、トートバッグからノートを取り出した。
「七尾さんの仕事を、一冊の本にまとめたいと思っています。職人のエッセイと写真集の中間のような形で。北海道の工房で、木と向き合う日々。読み物として、非常に面白いと思って」
「うーん」
「道東の風土と、職人の手仕事。今、こういう本が求められていると思うんです。スローライフとか、地方移住とか、そういうキーワードとも親和性が高くて」
「うーん」
佐久間さんのペンが、少し止まった。
「七尾さんは、どんな形の本ならやってみたいと思いますか?」
「うーん」
「たとえば、写真中心で文章は少なめとか、逆に文章を読ませる形とか」
「うーん」
「どちらも難しいですか?」
「うーん」
ノートに何も書けていない佐久間さんを、私は横目で見ていた。
助けに入りたかった。本当に。広告の仕事なら、ここで「つまりこういうことですよね」と言って、相手の言葉を引き出す。それが私の仕事だった。クライアントが黙ったとき、間を埋めるのが私の役割だった。
でも。
七尾さんは、コーヒーを静かに飲んでいた。困っている顔ではなかった。ただ、うーん、と言っているだけだった。それが演技なのか、本気なのか、私にはまだわからなかった。
私は、口を閉じたままでいた。
「七尾さん、率直に聞かせてください」
佐久間さんが、ノートを閉じた。
「取材を受けたくない、ということですか?」
「うーん。そういうわけでも」
「では、本を出すこと自体は、否定していない?」
「うーん」
「でも、何かが引っかかっている?」
「うーん」
佐久間さんは、眼鏡を外して、レンズを拭いた。少し疲れた顔をしていた。でも、諦めた顔ではなかった。
「七尾さん、一つだけ聞いてもいいですか。本を出すとしたら、何を書きたくないですか?」
七尾さんは、少し間を置いた。
「うーん。過去のことですかね?」
「過去?」
「ここに来るまでのこと。あんまり、触られたくないんで」
「それ以外は?」
「うーん。それ以外は、まあ」
佐久間さんが、またノートを開いた。今度は、何かを書いた。
「わかりました。過去には触れない。現在の仕事と、道東の風土だけで構成する。そういう形なら、検討していただけますか?」
「うーん。検討は、します」
「検討してもらえるだけで、十分です」
佐久間さんは、少しだけ笑った。七尾さんも、少しだけ笑った。
私は、その二人のやり取りを見ながら、なぜか、ほっとしていた。
助けに入らなくて、よかったのかもしれない。そう思った。
工房を見せてほしいという佐久間さんの希望で、三人で工房に入った。
機械室を一通り見て、作業室に入ったとき、佐久間さんが棚の上の端材を見て言った。
「木の種類って、たくさんあるんですね」
「ナラ、セン、ウォルナット、チェリー。国産と輸入もので、だいたいこのくらいは」
「触ってもいいですか?」
「どうぞ」
佐久間さんは、端材を一本ずつ、手に取った。重さを確かめるみたいに。
「七尾さん、ギターも作るんですよね?」
「修理が多いですね。製作は、たまに」
「ギターに使う木と、家具に使う木って、違うんですか?」
「違います。響きが必要なものと、強度が必要なものと」
「面白いですね」
佐久間さんは、また何かをノートに書いた。
私は、棚の工具を整理しながら、聞いていた。
七尾さんが、仕事の話になると、少しだけ言葉が増える。「うーん」が減って、短い説明が出てくる。それだけで、佐久間さんは満足そうにノートを埋めていた。
さすがだな、と思った。編集者というのは、こうやって引き出すのか。
同時に、私には出来なかったことだとも思った。さっき口を閉じていたのは、正解だったのかもしれない。コピーライターとして、私はずっと「言葉で埋める人」だった。でも、七尾さんの隣にいると、言葉を出さないことにも、何かが宿ることがある。それを、少しずつ、覚えていく気がした。
「ところで」
佐久間さんが、工房の奥の壁を見た。
「あのベース、七尾さんが弾くんですか?」
「まあ、一応」
「リボン柄、珍しいですね。市販品じゃないですよね」
「ええ、まあ」
「七尾さんが作ったんですか?」
七尾さんは、少し間を置いた。
「知り合いです」
それだけ言った。それ以上、何も言わなかった。
佐久間さんは、ノートに何かを書いて、それ以上訊かなかった。
さすがだな、とまた思った。今度は、訊かないことへの、さすが、だった。
夕方近く、作業室を出たところで、佐久間さんが私に小声で言った。
「橋本さん、少し聞いていいですか」
「はい」
「七尾さんって、いつもあんな感じですか」
「あんな感じ、とは?」
「うーん、ばかりで」
「まあ、だいたいは」
「話したくないことが、あるんでしょうね」
「たぶん、そうだと思います」
「でも、話したいことも、あるはずで」
佐久間さんは、メモ帳を一度見て、また閉じた。
「今日、ギターに使う木と家具に使う木の話をしてくれたとき、目が少し変わったんですよ。あの顔の七尾さんの本なら、出せると思っています」
私は、何も言わなかった。でも、確かにそうだった。仕事の話をするときの七尾さんは、別の人みたいに言葉が増える。あの顔を、本の中に閉じ込められたら、と私も思った。
夕方、佐久間さんが帰る時刻になった。
タクシーを呼んで、玄関で、佐久間さんが七尾さんと握手をした。
「今日は、ありがとうございました。また連絡させてください」
「はい」
「橋本さんも、ありがとうございました」
「いえ、何もできなくて」
「いえ、コーヒー、おいしかったです」
佐久間さんは、靴を履いて、戸に手をかけた。
そこで、ふと、振り返った。
七尾さんを、まっすぐ見た。
「一つだけ、確認させてください」
「はい」
「七尾さんは、以前、九鬼楽器におられた方ですよね」
工房の中が、静かになった。
薪ストーブの火の音だけが、していた。
七尾さんは、何も言わなかった。笑いもしなかった。否定もしなかった。
カンナが、ソファの背もたれの上で、ゆっくりと体を丸めた。
「……失礼しました。では」
佐久間さんは、それだけ言って、戸を開けた。外の冷気が、玄関に流れ込んできた。マイナス十五度の空気が、一瞬、リビングに入ってきた。
白いタクシーが、雪道をゆっくり走り去った。
七尾さんは、しばらく、戸の前に立っていた。
私は、何も訊けなかった。
九鬼楽器。長野のギターメーカー。七尾さんが十年いた場所。
佐久間さんは、最初から知っていたのか。それとも、今日、工房で何かを見て気づいたのか。
あのベースの話をしたとき、七尾さんは「知り合いです」と言った。それを、佐久間さんは聞いていた。その知り合いが、九鬼楽器と繋がっているのかもしれない。
でも、それは私の推測で、何もわかっていなかった。
七尾さんが、戸を閉めた。
「アユムさん」
「はい」
「晩ご飯、何がいい?」
「……鍋ですかね?」
「いいね。鍋にしましょう。白菜、あったっけ?」
「あります」
「じゃあ、鍋だね」
七尾さんは、キッチンに向かった。
私は、玄関に立ったまま、しばらく、閉まった戸を見ていた。
昨日、七尾さんが言っていた。「助けに入らなくていいから」と。
私は、今日一日、助けに入らなかった。それは、七尾さんに言われたからだったけれど、でも、途中から、言われたからじゃなくなっていた気がする。口を閉じていると、別のものが見えてきた。七尾さんの「うーん」の奥にあるもの。佐久間さんが訊かないことを選ぶ瞬間。そういうものが、言葉を出さないでいると、見えてくる気がした。
うーん、うーん、と言い続けていた七尾さんが、あの一瞬だけ、黙った。
うーん、と言わなかった、その沈黙の重さを、私は今日初めて知った気がした。
言葉を出さないことにも、何かが宿る。
さっき工房で考えたことが、違う形で、もう一度、頭の中に戻ってきた。
七尾さんの沈黙は、怒りでも、動揺でも、ただの無言でもなかった。何かを、抱えたまま、立っている人の沈黙だった。
鍋の準備をしながら、白菜を切りながら、私は、ずっと、あの沈黙のことを考えていた。
七尾さんは今、隣でじゃがいもを剥いている。温泉にも行かず、本も読まず、ただじゃがいもを剥いている。その手が、いつもより少しだけ、ゆっくりに見えた。
「七尾さん」
「はい」
「佐久間さん、また来ると思いますか?」
「来るんじゃないかな。諦める感じじゃなかったし」
「七尾さんは、どうしたいですか?本の話」
七尾さんは、じゃがいもを鍋に落とした。
「うーん。考えてる」
うーん。今日何度聞いたか数えていなかったけれど、この「うーん」は、今日の中で一番、中身のある「うーん」だった気がした。
窓の外、中標津の二月の夜が、静かに、深く冷えていた。マイナス十五度の夜は、音さえも凍らせるようだった。




