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七尾工房、開店休業中  作者: 七尾 拓哉


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6/20

第6話 東京の編集者、煙に巻かれる

二月の中標津は、一年で一番寒い。




 朝、温度計を見ると、マイナス十五度だった。窓ガラスの内側に、霜の模様が張り付いていた。ストーブを全開にしても、工房の隅は冷えたまま。七尾さんは、それでも半袖のインナー一枚で鉋を引いていた。慣れ、らしい。




 今日読んでいるのは、角田光代の『八日目の蝉』だ。あの日、飛行機の中で読みかけたまま、ずっと後回しにしていた本だった。主人公が逃げ続ける話で、逃げることが悪いのか正しいのか、読み終わっても答えが出ない。そういう本だった。




 朝の読書が習慣になって、もう三ヶ月になる。工房にある本を片っ端から読んでいたら、いつの間にか、七尾さんの読書傾向が少しわかってきた。紀行文と、現代文学と、たまに料理の本。共通点は、どれも「どこかへ行く話」か「誰かと出会う話」であることだった。七尾さんが読む本には、必ず、移動と出会いがある。そのことに、今朝気づいた。




 佐久間さんから電話があったのは、そんな朝だった。




 七尾さんが受話器を取って、三分ほど聞いていた。相槌は、ほぼなかった。最後に「うーん」と言って、切った。




「アユムさん」




「はい」




「来週、東京から人が来ます」




「お知り合いですか?」




「知らないです」




「知らない人が来るんですか?」




「Instagramで連絡来て。出版社の人で、本を出したいって」




 私は、思わず前のめりになった。




 本。出版社。取材。




 広告会社にいたころ、そういう話が来たら、即座に企画書を出していた。どう見せるか、どう切り取るか、何を前に出すか。反射的に、頭が動き始めた。




「七尾さん、それ、すごくいい話じゃないですか」




「うーん」




「七尾工房、本になったら、認知が一気に広がりますよ。Instagramだけじゃなくて、書店に並んで、新しい層にリーチできて」




「うーん」




「写真集でも、エッセイでも、職人の技術本でも、切り口はいくらでも──」




「アユムさん」




「はい」




「来てから、考えるかな」




 七尾さんは、また鉋を引いた。シャッ、シャッ、と。




 私は、口を閉じた。





 佐久間さんが来る前日、工房でこんなことがあった。




 午後の作業中、七尾さんが手を止めずに言った。




「アユムさん、明日来る編集者の人、たぶん、いろいろ訊いてくるよ」




「はい」




「俺が黙ってても、助けに入らなくていいから」




「え」




「訊かれたことには答えるけど、こっちから話すことはない」




 七尾さんは、それだけ言って、また鉋を引き始めた。




 助けに入らなくていい。その言葉を、私は頭の中で繰り返した。




 コピーライターのとき、私はいつも助けに入っていた。クライアントが詰まったら言葉を補い、会議が止まったら話題を変え、沈黙があったら埋めた。それが私の仕事だと思っていた。




 でも、七尾さんの隣では、それが正解じゃないのかもしれない。




 佐久間雅人さんは、火曜日の午後に来た。




 中標津空港からタクシーで工房の前に停まった。




 降りてきたのは、四十代半ばの男だった。グレーのコートに、黒のマフラー。眼鏡をかけていて、手に革のトートバッグを持っている。東京の編集者、という感じがした。靴が、この雪道には明らかに向いていなかった。




「七尾さん、はじめまして。春秋社の佐久間です」




「七尾です。遠いところ、わざわざ」




「いえ、こちらこそ。突然の連絡にもかかわらず、ありがとうございます」




「こちら、弟子の橋本」




「はじめまして、橋本です」




「佐久間です。あ、元コピーライターの方ですよね。Instagramのキャプション、読んでます。いい文章ですね」




 褒められると、職業病で、次の一手を考えてしまう。




 リビングのソファに案内して、コーヒーを淹れた。佐久間さんは、白いソファの染みをちらりと見て、何も言わなかった。カンナが、背もたれから佐久間さんを見下ろしていた。




「七尾さん、早速なんですが」




 佐久間さんは、トートバッグからノートを取り出した。




「七尾さんの仕事を、一冊の本にまとめたいと思っています。職人のエッセイと写真集の中間のような形で。北海道の工房で、木と向き合う日々。読み物として、非常に面白いと思って」




「うーん」




「道東の風土と、職人の手仕事。今、こういう本が求められていると思うんです。スローライフとか、地方移住とか、そういうキーワードとも親和性が高くて」




「うーん」




 佐久間さんのペンが、少し止まった。




「七尾さんは、どんな形の本ならやってみたいと思いますか?」




「うーん」




「たとえば、写真中心で文章は少なめとか、逆に文章を読ませる形とか」




「うーん」




「どちらも難しいですか?」




「うーん」




 ノートに何も書けていない佐久間さんを、私は横目で見ていた。




 助けに入りたかった。本当に。広告の仕事なら、ここで「つまりこういうことですよね」と言って、相手の言葉を引き出す。それが私の仕事だった。クライアントが黙ったとき、間を埋めるのが私の役割だった。




 でも。




 七尾さんは、コーヒーを静かに飲んでいた。困っている顔ではなかった。ただ、うーん、と言っているだけだった。それが演技なのか、本気なのか、私にはまだわからなかった。




 私は、口を閉じたままでいた。





「七尾さん、率直に聞かせてください」




 佐久間さんが、ノートを閉じた。




「取材を受けたくない、ということですか?」




「うーん。そういうわけでも」




「では、本を出すこと自体は、否定していない?」




「うーん」




「でも、何かが引っかかっている?」




「うーん」




 佐久間さんは、眼鏡を外して、レンズを拭いた。少し疲れた顔をしていた。でも、諦めた顔ではなかった。




「七尾さん、一つだけ聞いてもいいですか。本を出すとしたら、何を書きたくないですか?」




 七尾さんは、少し間を置いた。




「うーん。過去のことですかね?」




「過去?」




「ここに来るまでのこと。あんまり、触られたくないんで」




「それ以外は?」




「うーん。それ以外は、まあ」




 佐久間さんが、またノートを開いた。今度は、何かを書いた。




「わかりました。過去には触れない。現在の仕事と、道東の風土だけで構成する。そういう形なら、検討していただけますか?」




「うーん。検討は、します」




「検討してもらえるだけで、十分です」




 佐久間さんは、少しだけ笑った。七尾さんも、少しだけ笑った。




 私は、その二人のやり取りを見ながら、なぜか、ほっとしていた。




 助けに入らなくて、よかったのかもしれない。そう思った。





 工房を見せてほしいという佐久間さんの希望で、三人で工房に入った。




 機械室を一通り見て、作業室に入ったとき、佐久間さんが棚の上の端材を見て言った。




「木の種類って、たくさんあるんですね」




「ナラ、セン、ウォルナット、チェリー。国産と輸入もので、だいたいこのくらいは」




「触ってもいいですか?」




「どうぞ」




 佐久間さんは、端材を一本ずつ、手に取った。重さを確かめるみたいに。




「七尾さん、ギターも作るんですよね?」




「修理が多いですね。製作は、たまに」




「ギターに使う木と、家具に使う木って、違うんですか?」




「違います。響きが必要なものと、強度が必要なものと」




「面白いですね」




 佐久間さんは、また何かをノートに書いた。




 私は、棚の工具を整理しながら、聞いていた。




 七尾さんが、仕事の話になると、少しだけ言葉が増える。「うーん」が減って、短い説明が出てくる。それだけで、佐久間さんは満足そうにノートを埋めていた。




 さすがだな、と思った。編集者というのは、こうやって引き出すのか。




 同時に、私には出来なかったことだとも思った。さっき口を閉じていたのは、正解だったのかもしれない。コピーライターとして、私はずっと「言葉で埋める人」だった。でも、七尾さんの隣にいると、言葉を出さないことにも、何かが宿ることがある。それを、少しずつ、覚えていく気がした。




「ところで」




 佐久間さんが、工房の奥の壁を見た。




「あのベース、七尾さんが弾くんですか?」




「まあ、一応」




「リボン柄、珍しいですね。市販品じゃないですよね」




「ええ、まあ」




「七尾さんが作ったんですか?」




 七尾さんは、少し間を置いた。




「知り合いです」




 それだけ言った。それ以上、何も言わなかった。




 佐久間さんは、ノートに何かを書いて、それ以上訊かなかった。




 さすがだな、とまた思った。今度は、訊かないことへの、さすが、だった。





 夕方近く、作業室を出たところで、佐久間さんが私に小声で言った。




「橋本さん、少し聞いていいですか」




「はい」




「七尾さんって、いつもあんな感じですか」




「あんな感じ、とは?」




「うーん、ばかりで」




「まあ、だいたいは」




「話したくないことが、あるんでしょうね」




「たぶん、そうだと思います」




「でも、話したいことも、あるはずで」




 佐久間さんは、メモ帳を一度見て、また閉じた。




「今日、ギターに使う木と家具に使う木の話をしてくれたとき、目が少し変わったんですよ。あの顔の七尾さんの本なら、出せると思っています」




 私は、何も言わなかった。でも、確かにそうだった。仕事の話をするときの七尾さんは、別の人みたいに言葉が増える。あの顔を、本の中に閉じ込められたら、と私も思った。




 夕方、佐久間さんが帰る時刻になった。




 タクシーを呼んで、玄関で、佐久間さんが七尾さんと握手をした。




「今日は、ありがとうございました。また連絡させてください」




「はい」




「橋本さんも、ありがとうございました」




「いえ、何もできなくて」




「いえ、コーヒー、おいしかったです」




 佐久間さんは、靴を履いて、戸に手をかけた。




 そこで、ふと、振り返った。




 七尾さんを、まっすぐ見た。




「一つだけ、確認させてください」




「はい」




「七尾さんは、以前、九鬼楽器におられた方ですよね」




 工房の中が、静かになった。




 薪ストーブの火の音だけが、していた。




 七尾さんは、何も言わなかった。笑いもしなかった。否定もしなかった。




 カンナが、ソファの背もたれの上で、ゆっくりと体を丸めた。




「……失礼しました。では」




 佐久間さんは、それだけ言って、戸を開けた。外の冷気が、玄関に流れ込んできた。マイナス十五度の空気が、一瞬、リビングに入ってきた。




 白いタクシーが、雪道をゆっくり走り去った。




 七尾さんは、しばらく、戸の前に立っていた。




 私は、何も訊けなかった。




 九鬼楽器。長野のギターメーカー。七尾さんが十年いた場所。




 佐久間さんは、最初から知っていたのか。それとも、今日、工房で何かを見て気づいたのか。




 あのベースの話をしたとき、七尾さんは「知り合いです」と言った。それを、佐久間さんは聞いていた。その知り合いが、九鬼楽器と繋がっているのかもしれない。




 でも、それは私の推測で、何もわかっていなかった。




 七尾さんが、戸を閉めた。




「アユムさん」




「はい」




「晩ご飯、何がいい?」




「……鍋ですかね?」




「いいね。鍋にしましょう。白菜、あったっけ?」




「あります」




「じゃあ、鍋だね」




 七尾さんは、キッチンに向かった。




 私は、玄関に立ったまま、しばらく、閉まった戸を見ていた。




 昨日、七尾さんが言っていた。「助けに入らなくていいから」と。




 私は、今日一日、助けに入らなかった。それは、七尾さんに言われたからだったけれど、でも、途中から、言われたからじゃなくなっていた気がする。口を閉じていると、別のものが見えてきた。七尾さんの「うーん」の奥にあるもの。佐久間さんが訊かないことを選ぶ瞬間。そういうものが、言葉を出さないでいると、見えてくる気がした。




 うーん、うーん、と言い続けていた七尾さんが、あの一瞬だけ、黙った。




 うーん、と言わなかった、その沈黙の重さを、私は今日初めて知った気がした。




 言葉を出さないことにも、何かが宿る。




 さっき工房で考えたことが、違う形で、もう一度、頭の中に戻ってきた。




 七尾さんの沈黙は、怒りでも、動揺でも、ただの無言でもなかった。何かを、抱えたまま、立っている人の沈黙だった。




 鍋の準備をしながら、白菜を切りながら、私は、ずっと、あの沈黙のことを考えていた。




 七尾さんは今、隣でじゃがいもを剥いている。温泉にも行かず、本も読まず、ただじゃがいもを剥いている。その手が、いつもより少しだけ、ゆっくりに見えた。




「七尾さん」




「はい」




「佐久間さん、また来ると思いますか?」




「来るんじゃないかな。諦める感じじゃなかったし」




「七尾さんは、どうしたいですか?本の話」




 七尾さんは、じゃがいもを鍋に落とした。




「うーん。考えてる」




 うーん。今日何度聞いたか数えていなかったけれど、この「うーん」は、今日の中で一番、中身のある「うーん」だった気がした。




 窓の外、中標津の二月の夜が、静かに、深く冷えていた。マイナス十五度の夜は、音さえも凍らせるようだった。

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