第5話 あーちゃんが、減らすってよ
一月の中標津は、音が少ない。
雪が厚くなると、外の音がぜんぶ吸われる。車の音も、風の音も、遠くなる。工房の中では、鉋の音と、ヨルシカだけが鳴っている。それ以外は、しんとしていた。
今日読んでいるのは、重松清の『ナイフ』だ。七尾さんの本棚から借りてきた短編集で、子供たちの痛みを描いた話が続く。読むたびに、何かを我慢している人間の話だと思う。我慢しながら、それでも続けている人の話。
静かな工房の中で、本を読んでいると、ここが東京だったら、こういう時間を持てなかったと思う。締め切りと、会議と、クライアントの電話に追われて、こんなふうに静かに本を読む午前中は、なかった。ここに来て三ヶ月、ゆっくりと本が読めるようになった。それだけで、来た意味があった気がした。
あーちゃんが「来月から、工房は週一にします」と言ったのは、そういう静かな午後だった。
あーちゃんは、その日、朝から来ていた。スケッチブックを棚に置いて、エプロンをつけて、黙って塗装の下準備を始めていた。七尾さんは鉋を引いていた。私はナラの端材を磨いていた。三人がそれぞれの作業をしながら、工房に音楽もなく、ただ道具の音だけが鳴っている、そういう午後だった。
工房の奥で、あーちゃんはエプロンの紐を結びながら、なんでもないことみたいに言った。
「七尾さん、来月から、工房は週一にします」
七尾さんは、鉋を止めなかった。
「うん」
「急で、すみません」
「うん」
シャッ、シャッ、と、また鉋が動いた。
私は、作業台の前で、ナラの端材を持ったまま、固まっていた。
週一。あーちゃんが。
「七尾さん」
私は、思わず口を開いた。
「今、うん、って言いましたよね」
「言ったよ」
「あーちゃんが週一になるって」
「聞こえてたよ」
「何か言わないんですか」
七尾さんは、鉋を置いて、あーちゃんのほうを見た。
「あーちゃん、養老牛、増えるんだ?」
「……はい。週四になって」
「そっか。じゃあ、しょうがないね」
「週一でも、来ます」
「来てください」
七尾さんは、それだけ言って、また鉋を取った。
私は、二人を交互に見ていた。
何か大事なことが変わるはずなのに、何も変わっていないような顔をしていた。二人とも。
昼になって、風貴庵に行った。
三人で行ったのは初めてだった。田中のおやじは、カウンターを挟んで三人分の顔を一度も見ずに「いつもの、三つ」と言って奥に消えた。あーちゃんは、何も言わなかった。初めて来たくせに「いつもの」で注文されたことを、受け入れていた。
「あーちゃん、ここ来たことあるんですか?」
「……何回か」
「七尾さんと?」
「一人で」
それ以上、訊かなかった。あーちゃんは、一人でここに来て、田中のおやじに「いつもの」と言われる関係を、すでに作っていたのだ。そういう人だった。
出てきたのは、洗面器みたいなどんぶりに、冷たい蕎麦と、巨大なとんかつと、大根おろしと、きゅうりのスライスが盛られた、例の何かだった。三人とも黙って食べた。その沈黙が、不思議と心地よかった。
今日もタコの唐揚げがサービスされた。
昼前、工房から戻ると、引き戸が開いた。
見慣れない顔が、のぞいた。
二十代の後半くらいの女性だった。大きなリュックを背負って、ダウンジャケットの前を開けたまま。頬が、外の寒さで赤くなっていた。
「あーちゃん、いますか?」
あーちゃんが、奥から顔を出した。一瞬、目を丸くした。それから、ぼそっと言った。
「……なんで来てるの」
「来ちゃった」
女性は、工房に入ってきて、靴を脱いだ。七尾さんと私を見て、ぺこりと頭を下げた。
「突然すみません。あーちゃんの友達で、緒方といいます。札幌から来ました」
「七尾です」
「橋本です」
「美大の同期なんです、あーちゃんと。ちょっと中標津来る用事があって、ついでに」
「ついでって」
あーちゃんが、無表情で言った。
「だって、住所、知ってたし」
「教えた覚えない」
「美香さんに聞いた」
あーちゃんは、短く息を吐いた。怒っているのか、呆れているのか、よくわからない顔だった。
「七尾さん、すみません、少しいいですか」
「どうぞ。お茶でも淹れますか」
「あ、ありがとうございます」
緒方さんは、リビングのソファに腰を下ろした。大きなリュックをどさりと床に置いた。あーちゃんは、ヘッドフォンを首にかけたまま、緒方さんの隣に座った。二人の距離が、少し遠かった。
私は、お茶を淹れながら、盗み聞きするつもりもなかったけれど、工房は狭い。
「つかさ、なんで本当に来たの」
「会いたかっただけ。半年ぶりだし」
「……そう」
「あーちゃん、元気そうで良かった」
「元気だよ」
「ここ、減らすって聞いた」
「美香さん、なんでも話すな」
「心配してたよ。私も」
「養老牛増やすだけだから、大丈夫」
「そういうことじゃなくて」
緒方さんが、少し声のトーンを落とした。
「あーちゃんが、ちゃんと作りたいものを作れてるかどうか、心配してたの。美香さんも、私も」
あーちゃんは、しばらく黙っていた。工房のほうから、鉋の音が聞こえていた。シャッ、シャッ、と。
「……作ってる」
「木工?」
「木工も、陶芸も、たまに」
「見せてよ」
「ない」
「全部売ったの?」
「……ほとんど」
緒方さんが、少し驚いた顔をした。
「売れてるじゃん」
「たまに」
「すごいじゃん、あーちゃん」
「別に」
あーちゃんは、お茶を飲み干した。立ち上がって、エプロンを直した。
「仕事、戻る」
「うん。ごめん、邪魔した」
「いい」
あーちゃんは、工房に戻っていった。ヘッドフォンを、今度は耳にかぶせた。
緒方さんが、私に小声で言った。
「あーちゃん、変わってないですね」
「そうなんですか」
「美大のときから、ああいう感じで。でも、作るものは、すごくて」
緒方さんは、少し遠くを見るような顔をした。
「あーちゃん、卒業のとき、就職も大学院も断ってフリーターになったんです。先生にも止められてたのに。もったいないって、みんな言ってたけど」
「今も、そう思いますか?」
「今は、もったいなくなかったと思ってます。あーちゃんが作るものを見てたら」
緒方さんは、リュックの中から、小さな紙袋を取り出した。
「これ、あーちゃんに渡してもらえますか。私が作った湯呑みです。あーちゃんへのお返し。去年、木のスプーン送ってくれたから」
「わかりました」
「あーちゃん、自分からは言わないので」
緒方さんは、お茶を飲み終えて、立ち上がった。リュックを背負った。
「七尾さんのこと、あーちゃんから聞いてました。いい人だって」
「あーちゃんが、そう言ってたんですか」
「言葉では言ってないけど、ニュアンスで」
緒方さんは、笑った。あーちゃんとは全然違う、よく動く笑い方だった。
緒方さんが帰ったあと、工房に戻ると、あーちゃんが棚の整理をしていた。ヘッドフォンをしたまま、黙々と。
紙袋を差し出すと、あーちゃんはヘッドフォンを片耳だけ外した。
「緒方さんから」
あーちゃんは、袋の中を覗いた。湯呑みを取り出して、しばらく見ていた。指で、縁のラインをなぞった。
「……うまいな」
ぼそっと言った。
「緒方さん、陶芸家なんですか?」
「うん。札幌でやってる」
「あーちゃんは、木工と陶芸、両方やるんですね」
「……どっちも、中途半端だけど」
「緒方さんは、売れてるって言ってましたよ」
「大げさなだけ」
「あーちゃん、美大のとき、彫刻もやってたって聞きましたけど」
あーちゃんは、少し間を置いた。
「……今は、あんまり」
「やめたんですか?」
「……やめてはない。でも、ここ来てから、木のほうが多くて」
「木工が好きになったんですか?」
また、間があった。
「……好きな気がする。まだよくわからないけど」
よくわからないけど、好きな気がする。その言い方が、あーちゃんらしかった。断言しない。でも、続けている。
あーちゃんは、湯呑みを紙袋に戻して、棚の上に置いた。
「工房、週一は来ます。ゼロにはしないので」
「はい」
しばらく黙ってから、あーちゃんが続けた。
「七尾さんに、迷惑かけてるのはわかってて。週四、週三、週二、って減らしてきたから」
「でも、ゼロにはしたくなくて?」
あーちゃんは、少し間を置いた。
「……ここで、作るのが、好きだから」
それだけ言って、ヘッドフォンを両耳にかぶせた。それきり、何も言わなかった。
私は、その言葉を、頭の中でもう一度聞いた。
ここで作るのが好きだから。
週四が週三になって、週三が週二になって、今度は週一になる。形は変わっていく。でも、ゼロにはしない。好きだから、ゼロにはしない。
私は、東京を辞めるとき、あの仕事が好きだったのかどうか、まだよくわからない。疲れたのは確かだった。でも、好きだったのかどうかは、別の話だった気がする。
あーちゃんは、好きだと言える。それだけで、ずいぶん違う気がした。
夜、ストーブの前で、七尾さんに今日のことを話した。
あーちゃんが、美大で一番うまかったこと。陶芸も木工も、たまに作って売っていること。「ここで作るのが好き」と言っていたこと。
七尾さんは、レモンサワーを飲みながら、聞いていた。
「七尾さん」
「はい」
「さっき、あーちゃんが『ここで作るのが好きだから』って言ってたんですけど」
「うん」
「七尾さん、それ、聞こえてましたか?」
「聞こえてたよ」
七尾さんは、レモンサワーをひとくち飲んだ。
「あーちゃんが、そういうことを言うのって、珍しいんですよ。たぶん」
「そうなんですか?」
「うん。三年いて、初めて聞いた気がする」
それを聞いて、少し驚いた。あーちゃんが「好き」という言葉を使ったことが、七尾さんにも特別に聞こえていたのだ。
「七尾さん、知ってたんですか。あーちゃんのこと」
「だいたいはね」
「だから、何も言わなかったんですか。週一になるって聞いたとき」
「来てくれるんだから」
「でも、減るのに」
「週一でも来てくれるなら、十分だよ」
七尾さんは、缶を置いた。
「アユムさん」
「はい」
「人は、続けられる形を見つけるんだよ」
「はい」
「週四が無理なら週三、週三が無理なら週二。ゼロにさえなければ、続いてるんで」
「ゼロにさえなければ」
「続けることと、同じ形を保つことって、別のことだから」
ストーブの薪が、ぱちん、と鳴った。
カンナが、ソファの背もたれから、七尾さんの膝の上に移動した。七尾さんは、カンナの背中を、ゆっくりと撫でた。
「七尾さん、週一になって、困ることないんですか」
「困ることは、あるよ」
「でも」
「でも、あーちゃんがゼロになるより、ずっといい」
七尾さんは、それきり、本を開いた。今夜読んでいるのは、何だろう。背表紙をちらりと見ると、開高健の『オーパ!』だった。釣りの紀行文だ。七尾さんが釣りをするイメージは全くなかったけれど、読んでいるのは釣りではなく、どこか遠い場所のことを、ここから眺めているのかもしれなかった。
私も、『ナイフ』の続きを開いた。
窓の外、中標津の一月の夜が、静かに積もっていた。
ゼロにさえなければ、続いている。
その言葉は、あーちゃんの話だけじゃない気がした。私自身の話でもある気がした。ここに来て、何かをゼロにしないでいる、ということ。それだけで、たぶん、まだ続いている。
ページをめくると、主人公が何かを我慢しながら、それでも学校に通い続ける場面だった。
続けることと、同じ形を保つことは、別のことだから。
七尾さんの言葉と、重松清の主人公が、頭の中で少しだけ重なった。
一月の工房は、音が少ない。でも、鉋の音が止まらない限り、ここは続いている。あーちゃんが週一でも来る限り、続いている。私が毎朝八時二十分にソファに座る限り、続いている。
形は変わっても、ゼロにさえならなければ。
窓の外の雪が、また少し積もっていた。音もなく、静かに。




