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七尾工房、開店休業中  作者: 七尾 拓哉


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4/20

第4話 養老牛温泉、開かずの和箪笥

工房に来て、三ヶ月が経った。




 十二月の終わり、中標津はもう完全に雪の中にいた。朝、窓の外を見ると、昨夜積もった雪が、畑も、道路も、ぜんぶ同じ白さに塗りつぶしている。遠くの山との境界が、どこなのかわからなくなる。




 こういう日は、外と内の区別が曖昧になる。工房の中にいても、世界全体が静まり返っているような気がして、自分がどこにいるのか、少しわからなくなる。




 工房の電話が鳴ったのは、午後二時を少し過ぎたころだった。





「はい、七尾工房です。──ああ、あーちゃん。どうしました。──うん。──うん。──ちょっと待って、かわって」




 七尾さんが、受話器を私のほうに向けた。




「アユムさん、メモ」




 急いでノートを取り出す。




「──はい、七尾工房の橋本です。──湯川さん、はじめまして。──和箪笥。──一段だけ。──はい。──はい、わかりました。七尾さんに伝えます」




 受話器を置いて、メモを読み上げた。




「養老牛温泉の湯川旅館、若女将の湯川美香さん。旅館に戦前からある和箪笥があって、一段だけ、どうしても開かない引き出しがある。鍵もなく、壊れているわけでもなさそう。一度見てほしいと」




「ふうん」




 七尾さんは、コーヒーを一口飲んで、しばらく天井を見ていた。




「あーちゃんのバイト先か」




「そうみたいですね」




「明日行こうか」




「行きましょう」




 返事が早かった。




 養老牛温泉まで、中標津からニュービートルで四十分ほどだと、七尾さんは言った。「牛が老いるまで湯に浸かれるくらい、いい湯だって意味らしいよ」と付け加えた。本当かどうかは、わからなかった。たぶん、また適当なことを言っている。





 翌朝、九時半。




 ニュービートルの助手席に乗り込むと、七尾さんはすでにアメリカンスピリットに火をつけていた。窓を少しだけ開けて、煙を外に逃がしながら走る。外気温は、たぶんマイナス八度か九度。窓の隙間から入ってくる風が、耳の奥まで刺さった。




 南に下ると、景色が変わった。牧草地の白が続いたあと、道が細くなり、両側に木が増えてくる。カラマツとトドマツが、雪を抱いたまま並んでいた。




「七尾さん、和箪笥のからくりって、よくあるんですか?」




「うーん。時代によって、いろいろあるよ。秘密の引き出しとか、鍵穴が隠れてるやつとか」




「ギター製作家はからくりも開けられるんですか?」




「見てみないとわからない」




 川沿いの道に入ると、硫黄の匂いがかすかにした。雪の下から、温泉の気配がにじんでいる気がした。




 湯川旅館は、川のすぐそばにあった。木造二階建て、年季の入った板張りの外壁。玄関の上に、手書きの看板が下がっていた。『湯川旅館』。文字の周りに、薄く雪が積もっていた。




 玄関を開けると、あーちゃんが掃除中だった。紺色の作務衣を着た珍しいあーちゃんだ。今日はヘッドフォンがない。




「お疲れさまです」




 あーちゃんが、先に声を出した。




「あーちゃん、美香さんは?」




「奥にいます。案内します」




 廊下は、板張りで、歩くとわずかに軋んだ。天井が低くて、古い旅館らしい空気がした。壁には、開拓時代らしい白黒写真が何枚かかけてあった。川と、雪と、小さな建物。この旅館の最初のころの写真だろうか。




 廊下を歩きながら、あーちゃんがぼそっと言った。




「美香さん、ずっと気にしてたんです。あの引き出し」




「いつから開かないんですか?」




「美香さんが旅館を継いだときには、もう開かなかったって。五年くらい前」




「継いだときから、ずっと」




「お祖母さんが亡くなる前に、教えてもらえなかったって。急だったから」




 あーちゃんは、それきり黙った。廊下の突き当たりで立ち止まって、「ここです」とだけ言った。





 部屋に入ると、窓際に和箪笥が置いてあった。




 高さ一メートル半ほどの、黒漆塗りの箪笥だった。引き出しが六段。金具は真鍮で、長年の手脂で鈍く光っている。全体に、深い艶があった。よく手入れされてきた箪笥だとわかった。




 部屋の隅に、三十代前半くらいの女性が立っていた。着物姿ではなく、紺のセーターにチノパン。髪を後ろでまとめている。




「七尾さん、はじめまして。湯川です」




「七尾です。こちら、弟子の橋本」




「アユムです。よろしくお願いします」




「遠いところ、すみません。あーちゃんから話は聞いてたんですけど、なかなか頼む機会がなくて」




「どの段ですか?」




 七尾さんが訊いた。




「三段目です」




 七尾さんは、三段目の引き出しを引いた。動かない。左右に揺らしてみる。動かない。上下の段は、するすると開く。




 七尾さんは、今度は箪笥全体に手を当てた。上から順に、一段ずつ。引き出しの正面、側面、金具の周り。黙ったまま、ゆっくりと触っていく。




 私は、その手の動きを見ていた。診断しているのか、会話しているのか、よくわからない触り方だった。木下さんのギターを診るときも、こういう手の動きをしていた。まず、全体を触る。答えを探すんじゃなくて、まず聞く。




 広告の仕事をしていたとき、私はクライアントのブリーフを読んで、課題を整理して、コピーを考えていた。でも七尾さんのやり方は、もっと手前から始まる。課題の前の、その物自体に触れることから始める。そういうことなんだと思った。




 しばらくして、七尾さんが一段目の引き出しを引いた。すっと開く。そのまま、少し持ち上げてみた。




 かちん。




 小さな音がした。




「あ」




 私は、思わず声が出た。




 七尾さんが、三段目を引いた。




 すっと、開いた。




 美香さんが、息を飲んだ。あーちゃんが、一歩、前に出た。




「どういう仕組みですか?」




 美香さんが訊いた。




 七尾さんは、一段目の引き出しを元に戻しながら言った。




「親子錠っていう仕掛けです。一段目を引いて持ち上げると、三段目のロックが外れる。引き出しの中の見えないところで、連動してるんです」




「鍵じゃなくて、動かし方が鍵、ってことですか?」




「そう。知ってる人しか開けられない」




 美香さんは、しばらく箪笥を見ていた。




「祖母は、知ってたんでしょうか」




「たぶん」




「私には、教えてくれなかった」




「……タイミングが、なかったのかもしれない」




 七尾さんは、それだけ言った。





 三段目の引き出しの中には、二つのものが入っていた。




 一つは、薄い冊子。表紙に、毛筆で『宿帳』と書いてあった。昭和の年号と、旅館名。




 もう一つは、封筒。古い、茶色に変色した封筒。封はされていなかった。




「開けていいですか?」




 七尾さんが、美香さんに訊いた。




 美香さんは、しばらく封筒を見つめていた。それから、小さく頷いた。




 七尾さんは、封筒から、折りたたまれた紙を取り出した。広げると、びっしりと文字が書いてあった。古い仮名遣いで、読みにくい。




 美香さんが、手を伸ばした。




「私が、読みます」




 七尾さんは、紙を渡した。




 美香さんは、窓の光に透かすようにして、ゆっくりと読み始めた。声には出さなかった。




 私は、部屋の隅で、あーちゃんの隣に立っていた。




 川の音がかすかに聞こえた。雪の中でも、川は流れている。




 あーちゃんが、小声で言った。




「美香さん、旅館、売ろうとしてた時期があったんです。お祖母さんが亡くなってすぐ」




「そうなんですか」




「私も、バイトしながら、なんとなく聞こえてきただけで」




 あーちゃんは、それきり黙った。でも、目は美香さんから離さなかった。




 美香さんが、紙を下ろした。




「創業者の、曾祖父の手記でした」




 七尾さんが、静かに聞いていた。




「この旅館を建てたときのこと。最初のお客さんのこと。それから──」




 美香さんは、一度、深く息を吸った。




「どんな時代が来ても、この旅館を売るな、と書いてありました。ここの湯が、誰かの体を治した。それだけで、十分だと」




 七尾さんは、何も言わなかった。




「この箪笥を作ったときのことも。旅館を継ぐ者だけに開け方を伝えていく、と」




 美香さんは、封筒を、そっと胸に当てた。




「祖母が亡くなる前に、教えてもらえなかったんです。急だったから。だから、ずっと、気になってて」




 あーちゃんが、一歩、前に出た。そして、珍しく、まっすぐ美香さんを見て言った。




「開いてよかったですね」




 美香さんが、小さく笑った。




「開いてよかったです」




 七尾さんは、三段目の引き出しを、そっと元に戻した。




「開け方、覚えておきますか?」




「はい」




「一段目を引いて、少し持ち上げる。それだけです」




「ありがとうございます」




 美香さんは、箪笥の正面に手を当てた。しばらく、そのままでいた。




 川の音だけが、部屋に流れていた。





 帰り際、玄関で、美香さんが言った。




「お代は」




「いえ、これくらいは」




「そんなわけには。せめて、お昼だけでも」




 七尾さんは少し考えて、「じゃあ」と言った。




 旅館の食堂で、山菜の炊き込みご飯と、鹿肉のスープを食べた。エゾシカの肉は、臭みがなくて、ほろりとほぐれた。あーちゃんは、配膳の合間に食堂の隅に座って、同じものを食べた。美香さんが「あーちゃん、今日は食べていって」と言ったとき、あーちゃんは黙って席に着いた。断らなかった。それだけで、二人の関係が少しわかった気がした。




「七尾さん」




 美香さんが、お茶を注ぎながら言った。




「曾祖父は、売るな、と書いてくれたけど。売ろうとしてた私は、どうなんだろうと思って」




「うーん」




 七尾さんは、スープを一口飲んだ。




「売らなかったんだよね、結局」




「ええ」




「じゃあ、それでいいんじゃない?」




 美香さんは、少し考えてから、言った。




「曾祖父が、引き出しを開けるなって言ったわけじゃなくて。開けられる人間に、開けろって言ってたのかもしれない、と思えてきました。今日」




 七尾さんは、何も言わなかった。ただ、炊き込みご飯を、ゆっくり食べていた。




 あーちゃんが、食堂の隅から、ぼそっと言った。




「おかわり、ありますよ」




「じゃあ、お願いします」




 七尾さんが、茶碗を差し出した。





 帰り道、ニュービートルの中で、七尾さんは何も言わなかった。煙草を一本吸って、窓の外を見ていた。




 カラマツの林が、また続いていた。来るときと同じ道なのに、光の角度が変わって、少し違う景色に見えた。




「七尾さん」




「はい」




「親子錠、最初から気づいてましたか?」




 七尾さんは、少しだけ、笑った。




「一段目触ったとき、だいたい」




「早いですね」




「慣れだよ」




 それ以上、説明しなかった。




 中標津に近づくと、また牧草地の白が広がった。空が、夕方に向かって、少しだけ赤みを帯びていた。




 私は、助手席で、今日のことを反芻していた。




 一段目を引いて、持ち上げる。かちん。




 知っている人だけが、開けられる。でも、知らなくても、いつか誰かが開ける。




 美香さんが「開けられる人間に、開けろって言ってたのかもしれない」と言ったとき、私は少し、自分のことを考えていた。




 私は、何かを開けられる人間なんだろうか。




 広告の仕事をしていたとき、私は言葉で何かを開けようとしていた。でも、開いたのかどうか、わからないまま辞めてしまった。ここに来て三ヶ月、まだナラとセンを五回に一回しか当てられない。




 でも、今日、七尾さんの手が箪笥に触れる瞬間を見ていた。




 答えを探すんじゃなくて、まず触れる。まず聞く。それが、何かを開けることへの、いちばん手前にあるものなのかもしれない。




 そんな気がした。確信はなかったけれど。





 年が明けて、一月の初め。




 美香さんが、工房に来た。手土産に、養老牛温泉の入浴券を三枚と、旅館で出している山わさびの瓶詰めを持ってきた。




「七尾さん、これ、お礼というか、お年賀というか」




「ありがとうございます。山わさびはいいね。蕎麦に合う」




「あーちゃんにも渡してあります」




 美香さんは、白いソファに腰を下ろして、工房のほうをぐるりと見渡した。




「いい匂いですね、木の」




「慣れると、わからなくなるんだよ」




 美香さんは、少し笑った。




「箪笥の手記、読み直しました。何回も」




「そうですか」




「開け方、覚えてますか?」




「はい。一段目を引いて、持ち上げる」




「忘れないようにしてください」




「はい」




 美香さんは、ふと、壁のリボン柄のジャズベースに目を向けた。




「あれ、七尾さんが弾くんですか?」




「まあ、一応」




「可愛い柄ですね」




「ええ、まあ。よく言われます」




 七尾さんは、それ以上、説明しなかった。




 美香さんが帰ったあと、工房に戻った七尾さんは、また鉋を取った。シャッ、シャッ、と、規則正しい音が始まった。




 私は、ストーブの前のソファに座って、山わさびの瓶詰めを眺めていた。




 親子錠。一段目を動かすことで、三段目が開く。




 知っている人だけに、開けられる仕掛け。




 でも、知らなくても、いつか誰かが開ける。




 窓の外の雪は、朝と変わらず積もっていた。世界の境界は、まだどこにあるかわからないままだった。

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