第3話 鳴らないギター、釧路から
工房に来て、ふた月が経った。
十二月の中標津は、もう完全に冬だった。朝、窓を開けると、息が白く出るどころか、目の奥がしみる。地面は薄く凍り、霜柱が立っていた。ストーブの煙突から立つ煙が、相変わらず、まっすぐ空に伸びていく。
朝、八時二十分。白い合皮のソファ。十分間の読書。
もう習慣だった。
今日読んでいるのは、東野圭吾の『手紙』だ。七尾さんの物置の段ボールから借りてきた。殺人を犯した兄を持つ弟が、普通に生きようとする話。読むたびに、誰かの事情というのは、外から見えないところにあるんだな、と思う。
「アユムさん、それ、なに読んでるの?」
階段を下りてきた眠そうな七尾さんが、めずらしく、私の本の表紙を覗き込んだ。
「『手紙』。東野圭吾です」
「読んだことあるよ。重いんだよね」
「重いですね。でも、やめられなくて」
「そういう本、あるよね。久々に読みたいなー読み終わったら、貸してください」
「これ、七尾さんの本棚から持ってきた本ですよ?」
「……あ」
七尾さんは、しばらく考え込んで、それから言った。
「うーん。覚えてないから、もうアユムさんのでいいよ」
所有の概念がゆるい人だな、と思った。
午前十時、工房の電話が鳴った。固定電話だった。スマートフォンをほとんど使わない七尾さんは、いまだに固定電話を置いている。
「はい、七尾工房です。──ああ、木下さん。お久しぶり。──え、今から?──いや、別にいいよ。──はい、待ってます」
受話器を置いて、七尾さんが小さく息を吐いた。
「アユムさん、お客さん来ます。釧路から」
「お知り合いですか?」
「昔、長野時代に、ライブハウスでギター預かったりしてた人です」
長野時代、という単語が出たのは、初めてだった。聞き返したいと思ったけれど、七尾さんはもう、別の話を始めていた。
「コーヒー、もう一杯淹れてもらえる?二人分」
「はい」
豆を挽きながら、私は、長野、という二文字を頭の隅で転がしていた。
二時間ほどして、工房の前に、軽自動車が停まる音がした。
「ごめんください」
戸を開けて入ってきたのは、四十前くらいの、痩せた男だった。古いピーコートを着て、首に黒のマフラーを巻いている。背中に、ハードケースを背負っていた。エレキギターのケースだった。
「木下さん、雪、降ってました?」
「ちょっと」
「お疲れさまです」
木下さんはケースをそっと床に置いて、軽く頭を下げた。
「こちら、弟子の橋本さん」
「アユムです」
「木下です。釧路で、しがないライブハウスやってます」
名刺を渡された。『LIVE HOUSE ZEAL/木下武』とあった。住所は、釧路市の末広町だった。
「七尾さん、しがないライブハウスって、もう二十年やってますよね」
「ええ。しがなく、二十年」
七尾さんが、ふっと笑った。木下さんも、似たように笑った。
二人の笑い方が、似ていた。
「アユムさん、せっかくだから、こっち座ってください」
七尾さんが、リビングのほうを目で示した。工房は寒い。客を入れる時はだいたい、リビングの白いソファのほうに案内する。ストーブが暖かい。
木下さんは、ソファの片側に腰を下ろした。座面の塗料の染みを見て、一瞬、目を細めたけれど、何も言わなかった。
「これ、なんですけど」
木下さんは、ローテーブルにケースを開けた。
中から出てきたのは、サンバーストの古いエレキギターだった。年季が入っているけれど、よく手入れされている。ボディの塗装に、長年弾き込まれた跡の、独特の艶があった。
「七十年代のジャパンビンテージ。父のものです」
七尾さんが、ぴくり、と眉を動かした。
「お父さん、もしかして」
「ええ。三月に」
「……そうですか」
七尾さんは、ギターをそっとソファに乗せた。
「音出ないんです」
木下さんが、ソファの背に体を預けた。
「シールド挿しても、無音。配線、見てもらえればと思って」
七尾さんは、ソファの横に置いてあるベースアンプにシールドを挿した。ボリュームを上げて、弦を弾いてみた。
無音だった。
「アンプは生きてる」
リボン柄のジャズベースを繋いでみる。普通に音が出る。
「やっぱり、ギターのほうですね」
七尾さんは、ピックアップを軽く叩いてみた。マイクテストのような音が、アンプから返ってきた。
「ピックアップ、生きてる」
「えっ」
木下さんが、目を上げた。
「音が出ないのに、ピックアップは生きてる。となると、配線だね」
七尾さんは、ギターを裏返した。電装部のフタをドライバーで外す。
配線を、ひとつひとつ、目で追っていく。しばらくして、七尾さんの手が止まった。
「あ」
小さく言った。
「どうですか?」
木下さんが、身を乗り出した。
「アース線が、切れてる」
「断線ですか?」
「断線じゃない」
七尾さんは、ライトを当てて、もう一度確かめた。
「きれいに、切ってある。ニッパーか何かで、一か所だけ」
工房の中が、静かになった。
ストーブの薪が、ぱちん、と鳴った。
木下さんは、何も言わなかった。
「弦の振動はピックアップで拾えてるのに、アースが切れてるから信号がアンプまで届かない。これが原因です」
「……わざと、ですか」
「たぶん」
七尾さんは、電装部のフタを、いったん脇に置いた。
「木下さん、ここ、見てもらえますか」
木下さんが、覗き込んだ。
切られたアース線のすぐ脇に、薄く折りたたまれた紙が、テープで留めてあった。
「あ」
木下さんが、小さく声を漏らした。
七尾さんは、紙を見たまま、動かなかった。
「読んで、いいやつですか、これ」
七尾さんが訊いた。
木下さんは、立ち上がって、覗き込んだ。数秒、何も言わなかった。それから、すごく短く、首を縦に振った。
七尾さんは、ピンセットで、紙を慎重に剥がした。古いセロハンテープで、貼られていた。
紙には、走り書きで、こう書いてあった。
武へ
このギター、おまえが二十歳になったら渡す。
俺が二十歳のとき、親父にもらったやつだ。
たぶん、おまえの代で、もうおしまいだ。
でも、捨てないで、使ってくれ。
鳴らなくなったら、自分で直せ。
「父の字です」
木下さんが言った。
「これ、いつのですか?」
「いつだろう。たぶん、二十年くらい前」
木下さんは、笑った。笑ったまま、口元を手で押さえた。ソファに座り直して、しばらく、目を瞑った。
「二十歳のとき、もらわなかったんですよ。父と、十年くらい喧嘩してたから。ライブハウスやるって言って、家を飛び出して」
七尾さんは、紙を、そっとローテーブルに置いた。
「親父が死んで、遺品整理してたら、出てきたんです。これだけが、クローゼットの奥にしまってあって」
「鳴らさなかったんですね、お父さん」
「ええ。一度も」
木下さんは、ギターのボディに、そっと手を置いた。
「アース線を、切ってまで」
七尾さんは、小さく頷いた。
「渡す相手が来るまで、誰にも鳴らされたくなかったんだと思う。たぶん」
「……息子が来なかったら、ずっと黙ってたわけだ」
「そういうことだと思う」
木下さんは、しばらく、何も言わなかった。
ストーブの火が、ぱちん、ともう一度鳴った。
「直しますか?」
七尾さんが訊いた。
「直して、ください」
「了解です」
七尾さんは、紙を、丁寧に保存袋に入れた。
「あとで、お返ししますね」
「ありがとうございます」
アース線をハンダで繋ぎ直して、電装部のフタを戻した。再度、弦を弾いた。
ジャーン、と、温かい音が鳴った。
古いギター特有の、少し甘い、薄く曇った音だった。
木下さんは、何度か頷いて、笑った。
「いい音ですね」
「いい音だ」
「親父が、ずっと、ここで、音を待ってたみたいだ」
七尾さんは、何も言わなかった。ただ、電装部のフタのネジを、ひとつひとつ、丁寧に締めていた。
午後三時、工房の引き戸が開く音がした。
あーちゃんだった。リビングまで顔を出して、お客さんに気がついて、小さく頭を下げた。
あーちゃんは、紙を覗き込んで、しばらく見ていた。それから、ぼそっと言った。
「いい字ですね」
「ええ」
「読めない字、ですけど」
木下さんが、笑った。
「親父、字、汚くて。母にもよく怒られてたんですよ」
「読めない字のほうが、覚えてもらえますよ。たぶん」
あーちゃんは、それだけ言って、奥に消えた。
木下さんが帰る前、玄関で、ふと、七尾さんを振り返った。
「七尾さん」
「はい」
「いつかまた、長野の話、聞かせてください」
七尾さんは、少しだけ、笑った。
「いつかね」
軽自動車が、家の前から、ゆっくり走り去った。釧路まで、一時間半。日が暮れる前には着くだろう。
七尾さんは、戸を閉めて、白いソファに座った。ストーブに薪を一本、足した。
「アユムさん」
「はい」
「機械の故障って、たぶん、半分くらい、人の事情なんだよ」
「はい」
「機械の前に、人の話、聞くんです。先に」
七尾さんは、額装の見本を、棚から取り出していた。ナラの板の上に、小さなフレーム。それを、ぼんやり眺めていた。
「七尾さん、さっき」
「はい」
「ギターを診るとき、最初に何を見てたんですか?」
「えっと、最初はアンプを確認して、次にピックアップ」
「でも、その前に、木下さんの話を聞いてましたよね。お父さんのことを」
七尾さんは、フレームを棚に戻した。
「まあ、そうだね」
「あれは、診断と関係ありますか?」
「直接は、ないかもね。でも、道具の故障って、たいてい使い手の話があるから」
「どういうことですか?」
「どういう使い方をしてきたか、どういう状況で使われてきたか。それがわかると、どこが傷んでいるか、だいたい見当がつく。だから、まず話を聞く」
私は、その言葉を、頭の中で転がした。
コピーライターのとき、私はブリーフを読んで、課題を整理して、コピーを考えていた。でも七尾さんの「話を聞く」は、もっと手前のことだった。課題の前の、その人自身のことを聞く。そういうことだった気がする。
夕方、三上さんが、また魚を持ってきた。今日は、ホッケだった。ずっしりと重い、脂ののった一本だった。
「七尾さん、今日のは脂のってるよ」
「ありがとう。今夜、塩焼きにしよーかな」
三上さんは、ソファの背もたれのカンナを、ひと撫でして、すぐ帰っていった。
ホッケを捌く七尾さんの手は、相変わらず、無駄がなかった。
その夜、午前一時を過ぎていた。
眠れなくて、二階の自室を出ると、ストーブの前で、七尾さんが本を読んでいた。膝の上にカンナ。隣に、レモンサワーの缶と、灰皿。
「アユムさん、起きてたの?」
「眠れなくて」
「どうぞ」
七尾さんは、ソファの隣を、目で示した。
二人掛けの、白いソファ。座ってみると、思ったより、近かった。
ストーブの火の音と、ページをめくる音だけが、しばらく続いた。
「七尾さん、長野のこと、本当に、いつか話してくれるんですか?」
言ってから、しまった、と思った。聞いてはいけない気がした。
七尾さんは、すぐには答えなかった。煙草に火をつけて、一度長く吸った。
「うん。たぶん、いつか。でも、たいした話じゃないよ」
それだけだった。
でも、今日の木下さんのギターの話は、半分くらい、七尾さん自身の話だったような気が、なぜか、していた。
鳴らないギター。
誰かが、待っていた音。
切られたアース線の脇に、貼られた紙。
機械の前に、人の話を聞く。
コピーライターをしていたとき、私はずっと、人の話を聞いているつもりだった。移住者の声を聞いて、地域の声を聞いて、クライアントの声を聞いて。でも、本当に聞いていたのかどうか、今日のことを思い返すと、少し自信がなくなる。
「アユムさん、これ、読む?」
七尾さんが、薄い文庫本を、私のほうに差し出した。
「眠れない夜に、ちょうどいいです」
差し出された本の表紙には、『西の魔女が死んだ』とあった。たぶん十年は触られていない埃が、薄く乗っていた。
「夜の十分でも、効果あります?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
七尾さんは、それきり、自分の本に戻った。
ストーブの薪が、ぱちん、と鳴った。
白い合皮のソファの、座面の真ん中に、知らない誰かが座っていたような、薄い跡があった。
いつからあるんだろう、その跡。
それが、誰の跡なのか、訊いてはいけない気がして、私は『西の魔女が死んだ』を読み始めた。
窓の外、中標津の十二月の夜は、深く、静かに冷えていた。
霜柱が立っていた朝から、ずいぶん遠くまで来た気がした。一日のことなのに。




