第2話 おじいちゃんの椅子の、四本目の脚
工房に来て、ひと月が経った。
十一月の中標津は、もう冬の入り口だった。朝、窓を開けると、息が白く出る。地面は、まだ凍ってはいないけれど、霜が降りている日が増えた。ストーブの煙突から立つ煙が、まっすぐ空に伸びていく。
朝、八時二十分。
ストーブの前の、白い合皮のソファに座って、十分間だけ、本を読む。これが、ここ一ヶ月の私の朝の習慣だった。
今日読んでいるのは、角田光代の『対岸の彼女』。中標津に来た日の夜に七尾さんが「読んでみなよ」と言っていた本で、翌日、工房の本棚から借りた。友情と孤独の話で、読むたびに少し胸が痛くなる。でも、やめられない。
七尾さんに「朝に十分くらい読書するってのが良いんだよ。科学的にも証明されてるんだよ」と言われたとき、たしかに、と思って始めた。たぶん、もう三十日目。
でも、たぶん。
「七尾さん、朝、本、読んでないですよね?」
朝の九時四十分、寝ぐせのひどい七尾さんが、ようやく階段を降りてきた。
朝の七尾さんは、人間の形をしているだけで、中身がまだ起きていない気がする。
「……おはよーございます……」
返事になっているのか、ただ口が開いただけなのか、わからない。後頭部が、不規則な角度に立っている。
コーヒーをマグカップに注いで差し出すと、ありがとうと呟き、ぼそっと言った。
「……夜、読んでるから」
「朝の十分が大事なんじゃなかったんですか?」
「ええっと、夜の十分でも、効果はあるかもしれないんだけど」
「ありますか?」
「……あるかもね?」
七尾さんは、テーブルにつく前に、まず玄関に向かった。古い椅子に座って、一本目の煙草に火をつけた。アメリカンスピリットの黄色い箱が、デニムのポケットから半分覗いていた。
たぶん、ない。「朝の読書」の効果。
でも、ここ一ヶ月で、私は文庫本を四冊読み終えていた。三十一年生きてきて、一ヶ月で四冊読んだのは、たぶん、はじめてだった。
科学的根拠は怪しかったけれど、効果のほうは、ほんとうだったのかもしれない。
煙草を消して、七尾さんがテーブルに戻ってきた。パンの耳から食べはじめながら、ふと、こちらを見た。
「アユムさん」
「はい」
「インスタの文章、書けるよね?」
「は」
「コピーライターだったんだよね?」
「ええ、まあ」
「じゃあ、明日から、お願いしようかな」
「えっ」
「めんどくさいんで」
元コピーライターを呼んだ理由が、まさかこれだとは思わなかった。
でも、たぶん、これ、最初から決めてたな、と私は思った。
午前十時、私たちは工房に入った。
工房は、母屋の同じ一階。リビングから渡り廊下を十五歩、引き戸を開けると、別世界みたいに木の匂いが濃くなる。手前が機械室、奥が作業室。あわせて十六畳ほどの空間。
「アユムさん、これ、どっちがナラかわかる?」
七尾さんが、二枚の板を作業台に並べた。一週間ほど前から、毎朝これをやらされている。最初は全然わからなかったけれど、最近は、五回に一回くらい、当たるようになってきた。
「……こっち」
「逆」
「あ」
「でも、悩み方は、合ってるよ」
七尾さんの褒め方は、いつもよくわからない。
工房の隅では、ヨルシカの曲が、小さな音で流れていた。七尾さんは、削るときと組み立てるとき、必ずヨルシカかずっと真夜中でいいのに。のどちらかを流す。最初に聞いたとき、こんな現代的なものを聴くのかと意外だった。
「アユムさん、ナラとセン、わかる?」
「セン、まだ自信ないです」
「これ、ナラ」
「はい」
「これ、セン」
「……たしかに、ちょっと違いますね」
「全然違うんだけどね」
じっと見ていると、だんだん木目の流れが違って見えてきた。ナラのほうが、密度が濃い。センは少し、優しい。
十時半過ぎ、工房の引き戸が、ガラガラと開いた。
「おはようございます。御免下さい」
声に振り向くと、小柄なおばあさんが立っていた。八十歳前後だろうか、紺色のカーディガンに、深い藍のスカート。背中は少し丸まっているけれど、目がはっきりしていた。
「七尾さん、いる?」
「あ、サワさん。どうしました」
七尾さんは、鉋を置いて立ち上がった。サワさんと呼ばれたおばあさんは、ゆっくり工房の中に入ってきて、入り口のすぐ脇に、紐で縛った古い椅子を置いた。
木の椅子だった。背もたれが緩やかに曲がっていて、座面は籐張り。脚は四本、ただし──。
「これ、ちょっと、見てもらえないかしら」
サワさんが言った。
脚の一本だけ、明らかに、木の色が違った。
他の三本は、深い飴色に焼けた木。一本だけ、それより少し白い、別の木。
「ぐらぐらするんですか?」
七尾さんが、しゃがみ込んだ。
「ううん、ぐらぐらはしないの。ただね、これ、主人のものだったんだけど、半年前に亡くなって。私もそろそろ、施設に入ろうかと思って、家の物を整理してるところで」
「ええ」
「そしたら、これだけ、どうしても捨てられなくてね。修理して、施設に持っていけたらと思ったの。直すところはないかもしれないけど、最後にちゃんと、見てもらいたかったの」
七尾さんは、椅子の脚を一本ずつ、手で触っていった。
「サワさん。ひっくり返してもいいですか」
「どうぞ」
七尾さんは、椅子をそっと裏返した。
脚の付け根、見えない部分に、小さな焼き印が押してあった。読めない字が、四つ。屋号のようなものらしかった。
「これ、苫小牧の家具屋さんですね。今はもうない、たぶん」
「ええ、知ってるんですか?」
「いえ、勘です」
勘で店までわかるのか、と私は内心驚いた。七尾さんはそういうことを、よくやる。
「サワさん、いつ買ったやつですか?」
「六十年くらい前、かしら。結婚したばかりのとき、主人が、自分の給料で初めて買った家具なの」
サワさんは、少し笑った。
「最初は、四つ、お揃いだったの。食卓の椅子。だんだん、子供たちが独立して、椅子も古くなって、一脚ずつ処分していって。これだけが、残った」
七尾さんは、四本目の脚に、指でそっと触れた。色の違う、一本。
「サワさん、これね」
「うん」
「ナラじゃないんです、ここ。他の三本はナラなんですけど、ここ一本だけ、セン」
「セン?」
「北海道で、よく取れる木です。木目がナラに似てるから、代用品として使われたりするんですよ。昔は」
サワさんは、しばらく黙っていた。
「……主人が、自分で直したのかしら」
「たぶん」
七尾さんは、椅子を元に戻した。
「これね、たぶんいつかの時点で、この脚一本だけ折れたんです。家具屋に持っていけば、同じナラで直してくれたはずなんですけど、たぶんご主人は、家にあったセンの端材で、ご自分で削って、差し替えた」
「あの人、不器用な人だったから。曲がってるって、ずっと言ってたわ。真ん中の引き出しの取っ手も、自分で付け直して、ちょっと斜めだったし」
サワさんが、笑った。
「七尾さん。これ、直さないで、いいわ」
「はい」
「このまま、持っていきます」
「はい」
七尾さんは、それだけ言った。
でも、椅子の埃を、丁寧に布で拭いて、椅子の脚の付け根に、ほんの少しだけ、蜜蝋を塗った。それから、紐で縛り直して、サワさんに渡した。
「お代は」
「いりません。掃除しただけなので」
「そんなわけには」
「じゃあ、今度、お饅頭でも」
「あの和菓子屋の?」
「はい」
「わかった」
サワさんは、椅子を抱えて、ゆっくり工房を出ていった。
軽トラで送ろうかと七尾さんが言ったけれど、サワさんは「歩いて帰る」と言った。家まで、徒歩で十分くらいの距離らしい。椅子は重いはずなのに、軽そうに持って歩いていた。
工房の引き戸を閉めて、七尾さんが言った。
「アユムさん、ナラとセン、もう一度」
「はい」
「これ、ナラ」
「はい」
「これ、セン」
「……たしかに」
「足りないものを、あるもので補うって、よくあることだよ」
七尾さんが、ぽつりと言った。
「はい」
「そういう時って、ぴったり同じものじゃないんだよね、たいてい」
「はい」
「でも、ぴったり同じじゃないから、覚えてるんだよね」
七尾さんは、また鉋を取った。
工房の奥から、ガサ、と音がした。振り向くと、いつの間に来ていたのか、あーちゃんが、入り口で靴を脱いでいた。
「あ、おはようございます」
あーちゃんは、無言で頷いて、エプロンを取りに行った。スケッチブックをいつもの棚に置いて、ヘッドフォンを首にかけたまま、奥に消えていった。
しばらくして、戻ってきたあーちゃんが、ぼそっと言った。
「サワさん、来てたんですね」
「知ってるんですか?」
「養老牛で、何回か」
あーちゃんが、養老牛温泉でベッドメイクのバイトをしていることを、私はこの間知ったばかりだった。
「いい椅子でしたよね」
あーちゃんは、ヘッドフォンを耳にかぶせた。それきり、何も言わなかった。
午後、私はナラとセンの端材を、ずっと触っていた。指で撫でていくと、違いが少しずつ、わかる気がしてきた。
七尾さんは、ずっと鉋を引いていた。シャッ、シャッ、と、規則正しい音だけが、工房に響いていた。
昼ごろ、田中のおやじの蕎麦屋『風貴庵』に昼飯を食べに行った。七尾さんが「一緒に来こ?」と誘ってくれたので、ついていった。
カウンターに座ると、田中のおやじはこっちを見もせずに言った。
「七尾、いつもの?」
「お願いします」
「弟子は?」
「えっと、メニューを」
「アユムさんも、いつものでいいですよ」
「俺、決めてないですよ」
「カツ盛り、二つ」
しばらくして出てきたのは、洗面器みたいなどんぶりに、冷たい蕎麦の上に、巨大なとんかつと、大根おろしと、きゅうりのスライスが、これでもかと盛られた、何かだった。
「これ、蕎麦、なんですか?」
「うん。蕎麦」
「とんかつ、なんですか?」
「うん。蕎麦」
結局、蕎麦らしい。
黙々と食べていると、田中のおやじが頼んでいないタコのカラ揚げを無言で持ってきた。
「いつもありがとうございます」
サービスらしい。
田中のおやじは、七尾さんの数少ない友人らしく、無言で並んで食べる間も、妙に居心地がよかった。
三時ごろ、あーちゃんが休憩に入った。工房の隅のスツールに座って、スケッチブックを開いた。何かを描き始めた。私は横目でちらりと見たけれど、何を描いているのかはわからなかった。鉛筆の線が、さらさらと動いていた。
「あーちゃん、いつもスケッチブック持ってるんですか?」
あーちゃんは、鉛筆を止めずに答えた。
「記録みたいな感じで」
「工房のことを?」
「道具とか、木の断面とか」
「見せてもらえますか?」
あーちゃんは、少し間を置いてから、スケッチブックを閉じた。
「また今度」
それだけ言って、また描き始めた。
七尾さんが、鉋を引きながら言った。
「あーちゃんのスケッチブック、すごいんだよ。一回見せてもらったことあって」
「どんな絵ですか?」
「写真みたいな精度の、鉋の絵があって。驚いたんだよね」
あーちゃんは、何も言わなかった。ただ、鉛筆の動きが、少しだけ速くなった気がした。
窓の外、中標津の十一月の空が、いつもより少し低く見えた。
夜、晩ご飯のあと、ストーブの前のソファに、二人で座っていた。
七尾さんは温泉に行く前の、つかの間の休憩。私は、なんとなく、今日のことを反芻していた。
白い合皮のソファは、座面の右側に、コーヒーの染みがある。私がここに来た最初の日、緊張で零した跡だった。七尾さんは「拭けば落ちるような気はするんだけどね」と言ったきり、一度も拭いていない。
「七尾さん」
「はい」
「サワさんの椅子、直さなくてよかったんですか?」
「うん」
「直したら、もっときれいになったのに」
「うん」
七尾さんは、煙草に火をつけた。
「アユムさん、直すって、何のためにやるか、わかる?」
「……元に戻すため、ですか?」
「うーん。半分くらいは、そうだね」
「半分は?」
「半分は、覚えておいてもらうため、だよ」
七尾さんは、煙を細く吐いた。
「ご主人が削った脚、たぶん、何回見てもサワさん、覚えてたんだよ。ぴったり同じじゃないから」
「はい」
「直しちゃうと、それが、消えちゃうんで」
ストーブの薪が、ぱちん、と鳴った。
ソファの背もたれに、カンナが乗っていた。いつの間にか。
七尾さんは、煙草を消して、立ち上がった。
「アユムさん、サウナ行きます?」
「今日は、いいです」
「じゃあ、行ってくるね」
玄関で、軽トラのキーを取って、出ていった。
工房はもう真っ暗で、リビングだけが、ストーブの火と、頭上の電球で、ぼんやり明るかった。
私は、ソファに座ったまま、『対岸の彼女』を開いた。
直さないことで、覚えてもらえる。
そういう修理があるんだ、と思いながら、ページをめくった。
主人公の小夜子が、かつての友人と再会する場面を読んでいた。長い時間が経って、お互いが変わって、でも何かがまだ残っている、という場面だった。
ぴったり同じじゃないから、覚えてる。
七尾さんの言葉と、小夜子と、サワさんの椅子の四本目の脚が、頭の中でいつの間にか重なっていた。
コピーライターが木工の弟子になって一ヶ月。私はまだ、ナラとセンを五回に一回しか当てられない。でも、今日のことは、たぶん、ずっと覚えている気がした。
夜の十分でも、効果はあるかもしれない、と思いながら。




