第1話 中標津空港に、雪は降っていなかった
中標津空港に、雪は降っていなかった。
十一月の初め、北海道の東の端。雪国らしい何かを期待していたわけじゃないけれど、東京から飛行機で一時間半も移動したのだから、もう少し劇的な景色が広がっていてもいいんじゃないか、と思った。
空港の外に出ると、空が異様に広かった。建物が低いせいだ。視界を遮るものが、ほとんど何もない。風が、ひたすらに乾いていた。東京の風とは質が違う。乾燥しているのに、刃物みたいに鋭い。
迎えに来ているはずの七尾さんは、いなかった。
駐車場をひと回りして、もう一度ロビーに戻り、案内板の前で立ち尽くしていると、自動ドアの向こうから白いニュービートルが、不釣り合いなくらいゆっくりと入ってきた。十五年は経っていそうな、塗装の褪せた一台だった。
助手席のドアが、内側からバタンと開いた。
「橋本さんですか?」
運転席から、片手を上げていた。黒の長袖Tシャツに、穴の開いた塗料だらけのデニム。三日前にメールで「上着持ってきてくださいね、こっちはもう冬ですから」と書いてきた本人が、Tシャツ一枚で運転していた。
「七尾さん、寒くないんですか?」
「あー。慣れだよ」
慣れで克服できる気温じゃない気がする、と思いながら助手席に乗り込む。
荷物をシートの足元に押し込んで、シートベルトをする。飛行機の中で読んでいた文庫本が、バッグの口からはみ出ていた。角田光代の『八日目の蝉』。主人公が逃げ続ける話だ。半分くらい読んだところで着陸のアナウンスが入って、しおりを挟んだまま鞄に突っ込んだ。続きは今夜読もうと思っていたけれど、いまはそんな気分じゃなかった。
「それ、読んでたの?」
七尾さんが、ちらりとバッグを見た。
「あ、飛行機の中で」
「角田光代、好きなんだ」
「好きというか、空港の本屋で目についたので」
「俺も好きだよ。『対岸の彼女』が特に。読んだ?」
「読んだことないです」
「ぜひ。おすすめ。工房の本棚にあったと思うな」
七尾さんは、それだけ言って、前を向いた。
ニュービートルは、まっすぐな道を、まっすぐ走った。看板も、信号も、やたらと少ない。両側に広がるのは、刈り取りの終わった牧草地と、まばらに点在するサイロ。もう少しすればここも一面の雪に覆われるのだと、七尾さんは言った。
「橋本さん、東京で何やってたんでしたっけ?」
「広告です。中堅の代理店で、コピーを書いたり、企画を出したり」
「ふうん。じゃあ、文章書くの得意なんだね?」
「いや、得意というか、それしかできなくて」
「いいじゃん。俺、インスタのキャプションとか書くの苦手だから、お願いしようかな」
七尾さんは笑った。冗談なのか本気なのか、よくわからない笑い方だった。
窓の外を流れていく景色を、私はずっと見ていた。
三十一歳で、何もかも辞めて、北海道の木工房に弟子入りする。同期には呆れられ、母には泣かれ、父には何も言われなかった。目白の1LDKを引き払うとき、自分でも、何をしているのか、まだよくわかっていなかった。
ただ、一年前にたまたまSNSで流れてきた、ある動画のことが、頭から離れなかった。
異なる木片を組み合わせて、一本のカッターナイフを作る、五分ほどの動画だった。栗、楢、桜、ウォルナット。ばらばらの色と木目を持つ端材が、職人の手の中で、一つの模様になっていく。
アカウント名は、「七尾工房」。投稿者の顔は映っていなかったけれど、削るときの手だけが、ずっと画面の中にあった。
その手を、もう一度見たいと思った。たぶん、それだけだった。
半年前に、仕事で「移住者インタビュー」の企画を立てたとき、いのいちばんに思い浮かんだのが、その七尾工房だった。連絡を取って、取材を申し込んだ。返事は、一週間後に来た。
──取材はお断りしてます。
たった一行のDMだった。
それから、半年。仕事のあいまにフォローし続けて、ある夜、急に何かが切れた。気がついたら、もう一度DMを送っていた。
──弟子にしてください。
返事は、その日の深夜に来た。
──とりあえず来てみたら?
「なんで弟子入りしたいと思ったの?」
七尾さんが、唐突に訊いた。
「動画を見て」
「どの動画?」
「カッターナイフの。端材を組み合わせて作るやつ」
「ああ、あれ」
「あの手が、もう一度見たくて」
七尾さんは、少し黙った。
「手、か」
「変ですか」
「変じゃないよ。でも、そんな理由で来る人、初めてだった」
「他に来た人がいたんですか?」
「いや、初めての弟子だから」
それを聞いて、少し驚いた。十年、中標津にいて、弟子を取ったのが初めて。訊きたいことが増えたけれど、七尾さんはもう窓の外を見ていた。
牧草地の向こうに、山の稜線が見えた。知床の山々だろうか。雪を被ったままの頂が、夕方の光の中でぼんやり白く光っていた。
「七尾さん、中標津に来て、十年になるんですよね」
「うん、そのくらいかな」
「なんで中標津を選んだんですか」
七尾さんは、少し間を置いた。
「縁もゆかりもなかったんだけどね。来てみたら、なんか、いい感じで」
「いい感じ、ですか」
「空が広くて、うるさくなくて。木がいっぱいあって。それだけで、十分だったんだよね」
それだけで十分、という言葉を、私は頭の中で転がした。東京では、十分という感覚を、最後のほうはもう忘れていた気がする。
「工房、お客さん、来るんですか」
「来るよ。修理の依頼とか、寄木細工の注文とか」
「忙しいですか」
「うーん。忙しいんだか、暇なんだか、あんまりわかんないんだよね。やることは毎日あるんだけど」
七尾さんは、煙草の煙を窓の外に細く吐いた。
ニュービートルは、舗装の終わった砂利道に入った。少し走って、林の中の開けた場所に、平屋──いや、二階建ての家が現れた。古い農家を改装したらしい、ログハウス風の建物だった。煙突から、白い煙が真上に伸びている。風がないのだ。
家の前には、木の看板が立っていた。文字は、彫っただけで、塗装がしてない。
「七尾工房」
とだけ書いてあった。
「着いたよ。寝るところは、二階に部屋あるから」
「ありがとうございます」
「布団は」
「あ、はい」
「買い忘れてた」
七尾さんは、悪びれもせずに笑った。
「あとで買いに行かなきゃね」
車から降りると、木の匂いがした。木材の、というより、削られたばかりの、生きている木の匂い。
玄関の引き戸を開けると、土間の向こうに、吹き抜けのリビングが広がっていた。
天井がやけに高かった。中央に大きな薪ストーブ。ストーブの前に、二人掛けの白い合皮のソファが置いてある。汚れているのが、遠目でもわかった。あちこちに、コーヒーらしき茶色の染みと、塗料らしき濃い色の跡と、爪を研いだような細かい裂け目があった。
ソファの背もたれの上に、茶トラの猫が一匹、丸くなっていた。
「猫、飼ってるんですか?」
「アレルギーとか大丈夫? ああ、名前はカンナ。勝手に住んでるんだよね」
「猫、好きなので嬉しいです」
飼ってる、とは言わなかった。
奥のキッチンのほうから、引き戸が開く音がした。
黒いエプロンをした女の人が、一人、立っていた。背は低くて、前髪が目元まで伸びている。首にはヘッドフォン。目が合うと、ぺこりと頭を下げた。声は、出さなかった。
「ああ、あーちゃん。今日来てたんだね」
「……はい」
「こちら、東京から来たアユムさん」
「……あーです」
それだけ言って、あーちゃんと呼ばれた人は、また奥に消えていった。
「コーヒー、飲む?」
「あ、はい」
「砂糖は?」
「いえ、ブラックで」
「良かった。俺もブラック派なんだ」
七尾さんは、それだけ言って、キッチンへ歩いていった。
壁に、一本のベースが立てかけてあるのが見えた。白いボディに、赤いリボン柄が一面に散らされた、明らかに普通じゃない一本。市販品ではないのは、素人の私にもわかった。
誰かが、誰かのために、特別にあつらえた一本。
なぜそう思ったのかは、自分でもわからない。
七尾さんは、ミルを手で挽き始めた。ガリガリ、という音が、薪ストーブの爆ぜる音と重なった。私は立ったまま、白いソファと、カンナと、リボン柄のジャズベースを、順番に見ていた。
「適当に座っててよ」
「あ、はい」
ソファに腰を下ろしながら、壁のほうに視線を向けると、ベースの隣に小さな額が飾ってあった。何かの認定証だった。近づいて見ると、ビリヤードのインストラクター資格の証書だった。
「七尾さん、ビリヤードもやるんですか?」
キッチンからガリガリという音が止まった。
「あー。昔ちょっとね。なんでわかった?」
「あそこに、資格証が」
「ああ、あれ。忘れてた」
また、ガリガリという音が再開した。インストラクター資格というのは、かなり本格的にやっていたということだ。ギターの職人で、木工ができて、ビリヤードのインストラクター。この人は、いったい何者なんだろうと思った。
コーヒーが、ふたつ、ダイニングテーブルに置かれた。
七尾さんは、向かいに座って、煙草に火をつけた。アメリカンスピリットの黄色い箱が、テーブルの端に置いてある。
「橋本さん」
「はい」
「アユムさん、で、いい?」
「……はい」
「七尾でいいよ」
「七尾さん」
「うん」
七尾さんは、笑った。
ここで、私は働くことになる。
たぶん。
まだ、雇うとも、雇わないとも、言われていない。給料の話も、寝るところの話も、何ひとつしていない。けれど、私は、もう来てしまった。
東京で書いていたコピーのことを、思い出した。
地方創生のプレゼン資料。「人と人とが繋がる、温かい町づくり」。私は、温かいの「あ」の字も知らずに、その言葉を打ち続けていた。
窓の外、西日が傾き始めていた。中標津の十一月の、午後三時。
バッグの中に、読みかけの文庫本があった。今夜、続きを読もうと思っていた。でも、なんとなく、読まないかもしれないとも思った。
ここに来た理由は、あの手を見たかったから。
その手は、今、コーヒーカップを持っている。
しばらくして、あーちゃんが奥から戻ってきた。エプロンをつけたまま、ヘッドフォンを外して、テーブルの端に立った。
「あーちゃん、今日、何してたの?」
「……梱包と、発送」
「ありがとね」
「……あと、棚の整理」
「あ、そっちはよかったのに」
「……気になったので」
あーちゃんは、それだけ言って、また奥に消えた。ヘッドフォンを、今度は耳にかけたまま。
「アユムさん、弟子入りするって、周りには言った?」
「親には言いました。止められましたけど」
「まあ、普通は止めるよね」
「七尾さんは、止めなかったんですか。弟子入りを」
「俺が止める立場でもないし。来たいって言うなら、来てみたら、って思って」
「とりあえず来てみたら、って返信しましたよね」
「うん。それしか言えなかったんだよね、正直」
七尾さんは、少し笑った。
「来てみないとわかんないこと、あるじゃん。どんな場所かとか、どんな仕事かとか、自分がここで何をしたいのかとか」
「来てみて、わかりましたか?」
「俺の話?」
「私の話です」
「まだ来て数時間しか経ってないじゃん」
「そうですね」
「まあ、ゆっくりわかっていけばいいんじゃないかな。急がなくても」
急がなくても、という言葉が、妙に耳に残った。
「あーちゃん、いつから工房に?」
「三年くらい前かな。美大の取材で来て、そのまま居着いた感じで」
「居着いた」
「本人もそんなつもりじゃなかったと思うんだけどね。来てみたら、なんか、帰らなくなってた」
なんか、という言い方が、七尾さんらしかった。理由を言語化しない。でも、それで十分みたいな顔をしている。
窓の外が、少し暗くなってきた。日が落ちるのが、東京より早い。
「今夜の晩ご飯、どうするんですか」
「漁師の三上さんが、今朝ホッケ持ってきてくれたから。塩焼きにしようと思って」
「七尾さんが作るんですか」
「まあね。アユムさん、魚は食べられる?」
「好きです」
「よかった。じゃあ、今夜は米、炊いてもらおうかな」
「炊けます」
「じゃあ、それだけ頼む」
七尾さんは、煙草を灰皿で消した。それだけ、という言い方が気に入った。余計なことを言わない人だと思った。
外が、完全に暗くなる前に、布団を買いに行かなければならなかった。でも、七尾さんはまだ、コーヒーを飲んでいた。急いでいる気配がまるでない。
七尾さんに弟子入りを申し込んだとき、会社はまだ辞めていなかった。DMを送ってから三日後、上司に退職を伝えた。引き止められたけれど、もう決まっていた。来てみたら、という七尾さんの返事を見た瞬間に、決まっていた。
なぜ決まったのか、うまく説明できない。
でも、あの手を見たとき、何かが動いた。それだけはわかっていた。
私も、急がなかった。
バッグの中の文庫本のことは、もう忘れていた。
「そろそろ布団、買いに行こうか」
七尾さんが、やっと腰を上げた。
「ホームセンター、遠いですか」
「車で十分くらい。ビートルで行こう」
玄関で、七尾さんが車のキーを探し始めた。三十秒くらいかけて、デニムのポケットから見つけ出した。
「いつも探すんですか」
「毎回ね」
七尾さんは、悪びれずに笑った。
ここでの生活が、たぶん、始まっていた。




