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七尾工房、開店休業中  作者: 七尾 拓哉


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10/20

第10話 あーちゃんの、スケッチブック

五月の中標津は、一年で一番気持ちのいい季節だった。




 雪が完全に解けて、牧草地が緑になる。空が高くて、風が乾いている。朝、窓を開けると、草の匂いがした。ストーブを焚かなくてもいい日が増えてきた。七尾さんは「中標津の五月は短いんですよ。あっという間に夏になるから、今のうちに外に出とかないと」と言った。




 それでも、七尾さんは工房にいた。




 五月のある朝、あーちゃんが来た。週一になってから、あーちゃんが来る日は、工房の空気が少し変わる気がしていた。静かさの質が、違う。七尾さんとあーちゃんが同じ空間にいると、会話がなくても、何か通じているものがある感じがした。




 その日の午前中、工房では三人がそれぞれの作業をしていた。七尾さんは椅子の部材を削っていた。あーちゃんは塗装の下準備をしていた。私は、先週から続いているナラの端材を磨いていた。




 工房に音楽はなかった。珍しく、ヨルシカもずっと真夜中でいいのに。も流れていなかった。七尾さんが鉋を引く音と、あーちゃんが紙やすりをかける音と、私がサンダーをかける音が、重なっていた。三つの音が、それぞれ違うリズムで鳴っていた。でも、不思議と、うるさくなかった。それぞれが、自分のペースで動いている。干渉しない。工房が一番静かに感じる時間だった。




 あーちゃんは、いつも通り、入り口で靴を脱いで、エプロンを取りに行って、スケッチブックをいつもの棚に置いた。棚の端、工具の隣。毎回同じ場所に、同じ向きで置く。




 その日は、棚に置くとき、スケッチブックが少し斜めになった。あーちゃんは気にせず、奥に消えていった。




 私は、作業台でナラの端材を磨いていた。




 昼前、工具を取りに棚に行ったとき、斜めになったスケッチブックが、棚の端から落ちた。拾い上げると、表紙が開いた。




 最初のページに、鉋の絵があった。




 鉛筆で描かれた、緻密な絵だった。鉋の台の木目まで、丁寧に描き込まれている。影の入れ方が、写真みたいだった。





「あ、すみません」




 奥から戻ってきたあーちゃんが、私の手元を見た。




「落ちちゃって。拾っただけで、見るつもりじゃ」




「いいです」




 あーちゃんは、特に慌てた様子もなく、そう言った。




「見てもいいですか」




 少し間があった。




「……どうぞ」




 ページをめくった。




 鉋の次は、ノミだった。刃の形、柄の木目、金属の光沢。次のページは、南京鉋。その次は、ルーター。工具が、一ページに一点ずつ、丁寧に描かれていた。




 工具だけではなかった。木の断面図もあった。ナラの年輪の断面、ウォルナットの木目の流れ。植物図鑑みたいに、正確で、美しかった。木目の一本一本が、丁寧に追われていた。私がいくら見ても、こういう風には見えていないものが、紙の上に並んでいた。




 さらにめくると、工房の風景になった。作業台の上の端材の配置。棚の工具の並び。ストーブの前のソファと、背もたれのカンナ。七尾さんが鉋を引いている後ろ姿のページもあった。顔は描いていない。手と、背中と、鉋の軌跡だけ。




「カンナも描いてるんですか」




「……寝てるときが、描きやすくて」




 カンナの絵は、他の絵より少し、柔らかかった。線が、工具の絵より少し緩んでいる。




「あーちゃん、これ、全部ここで描いたんですか」




「……来たときに、少しずつ」




「いつから」




「七尾さんのとこに来てから、ずっと」




 私は、最初のページに戻った。鉋の絵。紙の端に、小さく日付が入っていた。二年以上前の日付だった。




「ずっと、描いてたんですね」




「……記録、みたいな感じで」




 七尾さんが、作業台から顔を上げた。スケッチブックを見て、また作業に戻った。何も言わなかった。





 昼ご飯のあと、あーちゃんが棚の整理をしていた。私は、端材の磨きを続けていた。




「あーちゃん、美大では、こういう絵を描いてたんですか?」




 ヘッドフォンをしていないのを確認してから、訊いた。




「……違います」




「どんなものを作ってたんですか?」




 あーちゃんは、しばらく棚の整理を続けた。答えないかな、と思い始めたころ、ぼそっと言った。




「立体。彫刻、みたいなもの」




「今も、作ってますか?」




「……たまに」




「木工と、陶芸と、彫刻と」




「全部、中途半端だけど」




「全部やるのは、大変じゃないですか」




 あーちゃんは、棚の工具を一本取って、向きを直した。




「……やめたら、もっと大変そうで」




 それだけ言って、また黙った。




「美大のとき、得意だったんですか、彫刻」




 少し間があった。




「……得意かどうかは、わからない。でも、先生に、作りすぎだって言われてた」




「作りすぎ?」




「一つ作ると、その続きが見えて、また作りたくなって。作品として完成させるより、作り続けることのほうが好きだったから」




「それは、怒られたんですか?」




「……怒られてはないけど。評価されにくい、とは言われた」




 あーちゃんは、棚の端材を一本取って、木口を確認した。関係のない動作だった。ただ手を動かしていたかったのかもしれない。




「でも、ここに来てから、作り続けることが、そのまま仕事になってる気がして」




「そうですよね」




「……評価されるかどうかと、作り続けることは、別でいいんだと思って。最近」




 私は、端材を磨きながら、その言葉を頭の中で転がした。やめたら、もっと大変そう。やめることへの恐れではなくて、やめた後の自分が想像できない、ということだろうか。




 七尾さんが、削るのを止めずに言った。




「あーちゃんが来て、何年ですか」




「……三年」




「三年分、描いてるんですね」




「……まあ」




「それ、立派な仕事ですよ」




 あーちゃんは、何も言わなかった。でも、棚の整理の手が、少し止まった。




 私は、また端材を磨きながら、七尾さんの言葉を聞いていた。立派な仕事。スケッチブックに工具を描くことが、仕事だと言っていた。売れるものを作ることだけが仕事じゃない、ということだろうか。それとも、続けることが、すでに仕事だということだろうか。




 よくわからなかったけれど、なんとなく、そういうことだと思った。





 午後三時、私は水を飲みに作業を中断して、リビングに行った。




 あーちゃんがソファに座って、スケッチブックに何かを描いていた。ヘッドフォンをしていた。気づかれないように、少し離れた場所から見た。




 あーちゃんの手が、さらさらと動いていた。鉛筆の線が、紙の上に積み重なっていく。消しゴムは使わない。一本の線が、次の線で補正されていく感じがした。




 描いていたのは、作業台の上の端材だった。今日、私が磨いていたナラの端材。まだ作業中のもの。完成していないものを、描いていた。




 しばらく見ていると、あーちゃんが顔を上げた。目が合った。




「すみません、見てました」




「……いいです」




 あーちゃんは、ヘッドフォンを片耳だけ外した。




「描くの、速いですね」




「……慣れです」




「何を見て描くか、最初から決めてるんですか?」




「……目に入ったものを」




「今日は、端材ですか?」




「……磨いてる途中だったから」




「完成してないやつを描くんですか?」




 あーちゃんは、少し考えてから言った。




「……完成してないほうが、面白い。まだ、何かになろうとしてる感じがして」




 私は、それを聞いて、少しだけ、自分のことを思った。まだ何かになろうとしている、という感じ。工房に来て一年半、まだ途中だった。でも、あーちゃんがそれを「面白い」と言うなら、途中であることは、悪くないのかもしれなかった。




「あーちゃん、完成したものを描くのは、好きじゃないんですか?」




「……完成したら、記録しなくていいから」




「どういうことですか?」




「……完成したものは、そこにある。でも、途中のものは、時間が経つと変わる。だから、描いておく」




 なるほど、と思った。




 記録することは、変わっていくものを、どこかに留めておくことだった。工具の絵も、端材の絵も、カンナの絵も。変わる前の、ある瞬間を、紙の上に残しておく。




 それは、作ることと、どこか似ていた。作ることも、素材がある形になる前の、途中の時間を、手の中で感じることだから。





 夕方、あーちゃんが帰り際に、スケッチブックを棚から取った。




 パラパラとめくって、一枚のページを開いて、私のほうに向けた。




「これ」




 そのページには、工具でも木でもない図面が描いてあった。




 楽器の、設計図のようなものだった。アコースティックギターの内部構造らしく、ブレーシングのパターンと、各部の寸法が書き込まれていた。ただし、通常のギターとは少し違う。ブレーシングの配置が、見たことのない形をしていた。




「これ、あーちゃんが描いたんですか?」




「……模写です」




「何を模写したんですか?」




「……物置に、紙があって。面白い図面だったから、描き写した」




「物置の紙、ですか?」




「……七尾さんのやつだと思います」




 私は、もう一度、図面を見た。




 寸法の数字が、細かく書き込まれていた。あーちゃんの字ではなく、元の図面の字を写したらしく、読みにくい走り書きだった。




「七尾さんが、こういう図面を持ってるんですか?」




「……わからないです。描いてあったから、描き写しただけで」




 あーちゃんは、スケッチブックを閉じた。




「七尾さんに、聞いてみたら、どうですか?」




 それだけ言って、靴を履いて、出ていった。




 工房には、七尾さんの鉋の音だけが残った。シャッ、シャッ、と。




 私は、物置の方向を、ちらりと見た。




 七尾さんに訊こうかと思った。でも、訊いてはいけない気がして、また作業台に戻った。




 ストーブの薪が、ぱちん、と鳴った。




 五月の夕方、窓の外に、牧草地の緑が広がっていた。





 夜、晩ご飯のあと、ストーブの前で七尾さんに訊いた。




「七尾さん、物置に、ギターの設計図みたいなものがありますか?」




 七尾さんは、本を読んでいた。ページをめくる手が、少し止まった。




「そりゃ図面はいっぱいありますよ。あーちゃんから、聞きましたか?」




「はい。スケッチブックに、模写したものがあって」




「……そうですか。あれのことかな?」




 七尾さんは、本を閉じた。レモンサワーの缶を、一口飲んだ。




「あります」




「七尾さんが書いたんですか?」




「いえ」




 それだけ言って、また本を開いた。




 訊いてはいけない続きがある、と思った。今日ではない、という気がした。




「あーちゃんは、いい目をしてますよ」




 七尾さんが、本を読みながら言った。




「あの図面を、面白いと思って描き写すなんて、普通はしない」




「どういう図面なんですか?」




「……いつか、話します」




 たぶん、いつか。




 ストーブの薪が、もう一度、ぱちん、と鳴った。




 五月の夜は短くて、窓の外がまだ明るかった。

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