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七尾工房、開店休業中  作者: 七尾 拓哉


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11/20

第11話 風の通り道、残る音

六月の中標津は、東京の人が想像する「夏の北海道」とは少し違う。


 暦の上ではすでに初夏を迎えているはずなのに、朝晩の冷え込みは依然として厳しく、時には薪ストーブに火をつけたくなるほど室内の空気が冷え切ることもある。それなのに、ひとたび太陽が空の真ん中へと昇ると、陽射しは肌を焦がすほどに強くなり、日中は半袖のシャツ一枚で過ごすのがちょうどよくなる。


 何より心地よいのは、都会のようなまとわりつく湿気がまったくないことだ。作業をしていて額にじんわりと汗をかいても、窓から吹き抜けてくる乾いた風が、それを一瞬にして連れ去って、肌の上をすぐにサラサラにしてくれる。


 窓を大きく開け放しておくと、どこまでも広がる牧草地から刈り取られたばかりの青草の、少し甘くて青臭い匂いと、はるか遠くの放牧地から聞こえてくる牛たちののんびりとした鳴き声が、そよ風と一緒にリビングへと滑り込んでくる。この静けさと、微かな命の気配が混ざり合った空間が、私はとても気に入っていた。


 私は、ストーブの前に置かれた白い革張りソファに深く腰掛け、自分に課した「午前中の十分間の読書」をちょうど済ませたところだった。


 今、私が熱心にページをめくっているのは、宮下奈都さんの『羊と鋼の森』という小説だ。北海道の深い森の近くで、ピアノの調律師を目指す一人の青年が、木と、音と、そして繊細な人々の営みの中で、自らの道を見出していく物語。言葉の一つ一つが静かに心に染み込んでくる、とても美しい小説だった。


 「アユムさん、これ、映画もいいんだけどね、やっぱり原作の文章が本当に素晴らしいから。時間があるときに読んでみてよ」


 先週の木曜日、あーちゃんが帰った後の静かなリビングで、七尾さんが本棚の奥から「ほれ」と、少し照れくさそうに私に貸してくれたものだった。


 私は、読み終えたページの端に、自分で作った木のしおりをそっと挟み、文庫本をパタンと閉じた。


 本を膝の上に置くと、自然と、自分が座っている白いソファの座面へと視線が落ちる。


 右側には、いつだったか七尾さんがコーヒーを盛大にこぼして作った、不格好な薄茶色の染みがある。


 そして、その少し左――ソファのちょうど真ん中の部分には、革が不自然に擦り切れ、少しだけ薄く、色褪せたようになっている不思議な「跡」があった。


 それは、長年にわたって、誰か特定の人物が毎日同じ場所に座り続け、自らの体重をかけ続けたことで残された、消えない温もりの記憶のようだった。


 この工房に弟子入りして、この場所で暮らすようになってから、もう半年以上の歳月が流れていた。


 それなのに、私はまだ、七尾さんに対してその「真ん中の跡」が一体誰のものなのか、直接尋ねることができずにいた。


 尋ねるタイミングを、私はずっと測りかねている。


 七尾さんがこのソファに座るとき、なぜいつも窮屈そうに左端の境界にばかり腰をかけるのか。なぜ、真ん中のスペースを、まるでそこに見えない誰かが腰掛けているかのように、神聖な場所としてあけておくのか。その理由を、私は知りたかった。知りたいけれど、その扉をノックするには、まだ私の中の覚悟が足りないような気がしていたのだ。


 「アユムさん、今日、お客さん来るから」


 二階へと続く木製の階段から、トントンと静かな足音がして、寝癖を盛大に爆発させた七尾さんが降りてきた。


 着古したグレーのTシャツの裾が、片方だけジーンズに引っかかって捲れており、顔は完全に寝起きそのもの、目は半分も開いていない。壁掛け時計の針は、すでに午前十時を少し回ったところだった。


 相変わらずの遅起きの師匠だな、と私は心の中で苦笑しながら、ダイニングチェアから立ち上がった。


 「お客さんって、誰ですか?」


 「木下さん。釧路の」


 七尾さんは、キッチンへとふらふらと歩いていき、淹れてあったコーヒーをマグカップに並々と注ぎながら、大きな欠伸まじりに応じた。


 「ライブハウス『ZEAL』の、あの木下さんですか?」


 「うん。木下さん」


 「また、何かトラブルでもあったんですか?」


 「いや、今度は修理じゃなくてさ。音の調整をしてほしいんだって」


 キッチンのカウンターに肘をつき、温かいコーヒーをすすりながら、七尾さんは眠そうに目を細めた。


 私は、ソファの前のテーブルを片付け、ストーブの上に置かれていたやかんを、邪魔にならないように脇へとよけた。


 木下さんが、再びこの中標津の工房にやってくる。


 あの厳しい雪が吹き荒れる冬の日に、わざわざ釧路から車を走らせてやってきた、物静かな青年。お父さんの形見だという古いアコースティックギターを持って、まるで迷子のような顔をして立っていた彼。あの時、ギターの電装部の脇に挟まれていた、お父さんからの優しい手紙を、私は今でも鮮明に覚えている。


 あれから半年。あの人は、お父さんの遺してくれたギターを、今度はちゃんと、自らの相棒としての「楽器」に仕立てるために、ここへ持ってやってくるのだ。


 リビングを片付けながら、私はなぜか、自分の胸の奥が少しだけ緊張で強張っていることに気づいた。


 久しぶりに会う木下さんに対して、今の私は「ちゃんと、この工房の弟子になっていますよ」と、胸を張って言えるだけの変化を遂げられているだろうか。自分の手元を見つめ、少しだけ不安がよぎる。


 昼前、静かな工房の外から、砂利を踏みしめて車が停車する音が聞こえてきた。


 リビングの窓からそっと外を覗くと、眩しい初夏の光の中に、白いセダンが停まっており、運転席から木下さんが降りてくるところだった。


 冬に見たときよりも、彼の黒髪はすっきりと短く切り揃えられており、黒いシンプルなTシャツに、適度に色落ちしたジーンズというラフな格好をしていた。けれど、その両手には、あの重厚な黒いハードケースがしっかりと抱えられていた。


 「こんにちは、お久しぶりです」


 私が玄関の引き戸を開けると、木下さんは少しだけはにかむようにして笑った。


 「橋本さん、お久しぶりです。お元気でしたか?」


 「ええ、おかげさまで。木下さんこそ、お元気でしたか?」


 「はい、なんとか。僕のライブハウス『ZEAL』も、色々と大変な時期はありますけど、今年もなんとか潰れずに続いています」


 木下さんは、玄関で丁寧にスニーカーを脱ぐと、リビングへと上がってきた。


 七尾さんは、ソファの左端に腰掛けたまま、片手をひらひらと上げて「おう、久しぶり」と気の抜けた挨拶を済ませる。ソファの背もたれの定位置にいたカンナは、薄目をあけて木下さんの姿を一度だけ確認すると、安心したように再び目を閉じて、丸くなって眠り始めた。


 「で、今日はどうしたの?」


 七尾さんは、テーブルの上のコーヒーカップを置きながら尋ねた。


 「いや、実はね、前回ここで完璧に直してもらった後、嬉しくて、自分のライブや練習で何度も弾いてみたんです」


 木下さんは、床に静かにハードケースを置くと、金具を一つずつ、パチン、パチンと慎重に外していった。


 フタを持ち上げると、中から現れたのは、あの七〇年代のジャパンヴィンテージのエレキギターだった。アンバー(琥珀色)の美しいフィニッシュが施されたボディは、半年前のあの冬の日に見たときよりも、ずっと艶やかで、生き生きとした輝きを取り戻しているように見えた。木下さんが、このギターをどれほど大切に、毎日撫でるようにして扱ってきたのかが、その木肌の輝きだけで一目瞭然だった。


 「でもね、最近ちょっと気になるところがあって」


 木下さんは、ギターのフロントピックアップ(指板に近い方のマイク)を指先でトントンと叩いた。


 「フロントに切り替えたときだけ、どうも出力が弱いんです。リアと比べると、体感で半分くらいの音量しか出ていなくて。アンプのボリュームを上げても、なんだか音が籠もってしまうというか……」


 「ふうん。なるほどね」


 七尾さんは、ゆっくりとソファから立ち上がると、木下さんの手からギターを受け取った。


 ストラップを外し、ギターを抱えるようにして持つ。指先でポロン、と六本の弦を軽く弾き、木製のボディの裏側に耳を直接押し当てるようにして、その振動の響きを聴く。それから、もう一度、今度は少し強く弦を弾いた。


 「アンプに通してみないと正確なところは言えないけど、ピックアップそのものが断線しかかっているか、あるいは内部の配線のどっちかだね。ちょっと、作業室でバラして診てみようか」


 「はい、お願いします」


 七尾さんはギターを優しく小脇に抱え、一階の作業室へと階段を降りていった。


 私は、木下さんに「ゆっくりしていってください」と淹れたてのコーヒーを手渡し、二人の後を追うようにして、一階の作業室へと向かった。


 作業室の木製の窓は、初夏の心地よい風を通すために、すべて大きく開け放たれていた。


 網戸越しに、中標津の眩しい太陽に照らされた牧草地の緑が揺れるのが見え、牛たちの低い鳴き声と、遠くの道路で誰かが草刈り機を動かしているブーーンという規則的なノイズが、穏やかに室内に入り込んでくる。


 七尾さんは、いつもの作業台の上にクッションとなる布を敷き、その上にギターをうつ伏せに置いた。そして、工具箱からお気に入りのドライバーを取り出すと、ピックガードを留めている小さなネジを、一本ずつ、極めて手際よく外していった。ネジを外すたび、彼はそれを小さなトレイにきちんと並べていく。その手の動きには、長年の職人としての無駄のない美しさが宿っていた。


 木下さんは、作業台から一歩引いたところで、その七尾さんの手元をごくりと唾を飲み込みながら見つめている。


 私は、さらにその後ろに立ち、木下さんの少し丸まった背中を見守っていた。


 「橋本さん、もうここに来て半年ですよね?」


 木下さんが、七尾さんの手元を見つめたまま、振り返らずに静かに私に問いかけてきた。


 「あ、はい。そうですね。今年の春に来たので、もう半年が経ちました。本当に、毎日があっという間で、早いですよね」


 「冬に僕が初めてここに来たとき、橋本さんは、まだ木とか道具に触るのさえ、どこか恐る恐るやっている感じだったから」


 木下さんは、小さく笑った。その言葉に悪気はまったくないことが、声の優しさで分かった。けれど、私は自分の未熟さを指摘されたような気がして、少しだけ照れくさそうに笑い返すことしかできなかった。


 「そうですね。あの頃は本当に、ノギスで寸法を測るのさえ緊張していました。でも、今も大したものは作れないんですけど……最近、ボールペンを一本だけ、自分の手でちゃんと完成させたんです」


 「へえ、ボールペンですか」


 「はい。チェリー材の端材を使って、七尾さんが作るような複雑な寄木細工ではなくて、一本の無垢材から削り出しただけの、シンプルなやつなんですけど」


 「いいですね」


 木下さんは、そこで初めて私の方を振り返り、まっすぐな目でそう言ってくれた。


 「チェリーって、使い込むとすごくいい色に変わっていきますよね。寄木も綺麗だけど、一本の木が持っているありのままの木目を楽しめる無垢のボールペン、僕はすごく好きですよ」


 お世辞や社交辞令ではなく、本当に「いい」と思って言葉を紡いでくれている。その木下さんの温かいトーンに、私は胸の奥の緊張が、すうっと抜けていくのを感じた。


 「あー、やっぱりね」


 作業台の前で、ピックガードを完全に取り外してコントロールキャビティ(配線部)を覗き込んでいた七尾さんが、納得したように声をあげた。


 「どうしました、七尾さん?」


 木下さんが、心配そうに覗き込む。


 「ここ、ハンダがね、完全に『いも』っちゃってるよ」


 「芋?」


 私が尋ねると、七尾さんはニヤリと笑って、内部の細い銅線を指先で軽く弾いて見せた。


 「『芋ハンダ』。要するに、ハンダ付けをするときに熱が足りなくて、金属の表面でハンダが綺麗に馴染まずに、ただ丸く固まっちゃってる状態のこと。見た目は繋がっているように見えるんだけど、中はスカスカで、ハンダの中で配線が浮いちゃってるんだ。前に木下くんのお父さんが直したときは一応繋がっていたんだろうけど、ライブや移動の振動のせいで、ついに中で完全に割れて剥がれかかっちゃったんだね。だから、電気がうまく通らなくて、出力が極端に落ちてたんだよ」


 「そうだったんですね……。直りますか?」


 「簡単、簡単。ちょっと待ってね」


 七尾さんは、作業台の脇にあるハンダごてのスイッチを入れ、それが十分に温まるのを一分ほど待った。


 こて先が適切な温度に達したのを確認すると、彼は古い芋ハンダのスポットにそっと熱を当てた。ドロッと灰色に溶けたハンダを、吸い取り線を使って綺麗に除去していく。金属の端子が完全に裸になったところで、今度は新しいハンダを極少量をこて先に含ませ、配線と端子の接合部へと正確にアプローチした。


 熱を加え、ハンダが流れるのを一瞬だけ待ち、すっとこてを引く。


 溶けたハンダは、表面張力で美しい富士山のような円錐形を描きながら、ピカピカとした銀色の輝きを持って、一瞬にして固まった。


 「よし。これで完璧」


 ものの十五分ほどの、流れるような作業だった。


 七尾さんは、仮止めのためにピックガードを軽くボディに乗せ、作業台の端に置かれていた、手のひらサイズの小さな練習用ギターアンプにシールドを繋いだ。


 「はい、木下くん。ちょっと音、出してみて」


 木下さんは、緊張した面持ちでギターを抱えると、セレクトスイッチをフロントピックアップへと切り替え、右手の爪先で、ジャラン、と弦をストロークした。


 ――その瞬間、作業室の空気が、温かい音の振動で満たされた。


 ちゃんと、鳴っていた。


 半年前の、あの凍えるような雪の夜に、この機械室で初めて音を出したときよりも、ずっと芯が太く、どこか懐かしくて温かい、このギター本来のジャパンヴィンテージらしい音が、スピーカーから溢れ出てきたのだ。


 「あ……音、戻りました! 全然違います、籠もった音が嘘みたいだ」


 「うん、これでバッチリだね。他の部分のハンダも、ちょっと怪しいところがあったから、ついでに全部綺麗にやり直しておいたよ。これで当分は、ライブで激しくかき鳴らしても剥がれることはないと思う」


 「助かりました……本当に、ありがとうございます」


 木下さんは、心からの感謝を述べるように深く頭を下げた。


 それから、アンプのボリュームを少しだけ絞り、ギターを自らの膝の上でしっかりと構え直した。彼は、少しだけ躊躇うようにして、私と七尾さんを交互に見つめ、それからぽつりと言った。


 「あの……ここで、ちょっとだけ、このギターを弾いてみてもいいですか?」


 「どうぞ、好きなだけ弾いてください」


 七尾さんはそう言うと、使ったハンダごてやドライバーを、いつものように適当に工具箱へと戻し始めた。


 木下さんが静かに、弦を爪弾き始めた。


 それは、私のまったく知らない、メロディだった。


 ブルースの薫りが漂う、少し物悲しくて、それでいてどこか優しいフレーズ。彼の細い指先が、ローズウッドの指板の上を滑らかに滑り、弦をチョーキングして、優しくビブラートをかける。


 アンプは本当に小さくてチープなものなのに、作業室の中に響き渡る音は、まるで広いホールで聴いているかのように豊かで、私たちの心を強く揺さぶった。


 七尾さんは、片付けをしていた手を止め、ただ静かに、その音に耳を傾けていた。聴いている、というよりも、その音楽が作り出す温かい空気の通り道の中に、自らの体を静かに委ねて立っている、という表現がぴったりだった。


 一分ほどの、短い演奏が終わり、最後の余韻が窓の外の牧草地へと溶けて消えていった後、木下さんは、小さく深く、息を吐き出した。


 「これ……親父が、生前によく好んで弾いていた曲なんです」


 「そう」


 七尾さんは、短く応じた。ハンダごてのコードを、手のひらを使ってくるくると巻きながら、彼の演奏を反芻するように頷いている。


 「親父が亡くなったお通夜の夜、どうしても実家で一人でいるのが耐えられなくて、このギターを持ち出して、家の中でこの曲を弾いたんです。そうしたら、葬儀の間中ずっと気丈に振る舞って一度も涙を見せなかった母親が、その音を聴いた瞬間、初めて子供みたいに声をあげて泣いたんですよ。『あんたの親父は、本当は自分の病気のことなんかより、あんたがこのギターを弾く音を、一番聴きたかったんだろうね』って、そう言ってくれて」


 七尾さんは、何も言わなかった。ただ黙って、巻き終えたコードを壁のフックに静かに引っ掛けた。


 「七尾さんに、あの冬の日にこのギターを直してもらってから、僕はようやく、この楽器に触れることができるようになったんです。それまでは、なんていうか……触るのが、どこか怖かったんですよ」


 「触るのが、怖い?」


 七尾さんは、壁の方を向いたまま尋ねた。


 「はい。このギターを手に取るたびに、これは『親父のもの』であって、自分には触る資格がないような、そんな強いプレッシャーを勝手に感じてしまっていて。でも、今は」


 木下さんは、ギターのアンバーのボディを、愛おしそうにそっと撫でた。


 「今は、自分のものに、なりかけている。そんな気がするんです。親父のギターであることは一生変わらないんですけど、僕自身も、このギターの持っている本当の響きや、個性を、毎日弾くことで少しずつ知ってきたんだなって」


 「うん」


 七尾さんは、ゆっくりとこちらを向いて深く頷いた。


 それから、作業台の端に腰を浅く乗せ、ポケットからアメリカンスピリットを一本取り出した。けれど、火はつけず、ただ指の間に挟んでじっと見つめていた。


 「お父さんのギター、っていうその事実はね、たぶん、これから何十年経っても絶対に変わらないですよ」


 「はい」


 「ただね、木下くんのギター、っていう新しい歴史が、その上に少しずつ、少しずつ重なっていく。そして、それは重ねていいんです。お父さんだって、自分のギターが息子の手によって、新しい音を鳴らし続けてくれることを、何よりも喜んでいるはずですからね」


 木下さんは、その言葉を、反芻するように何度も口の中で繰り返しているようだった。


 私は、その七尾さんの言葉を、絶対に忘れないように、しっかりと頭の中の引き出しに仕舞い込んだ。あとで二階に上がったら、すぐに自分のノートに書き留めておこう、と心に誓いながら。


 「さて、お腹も減ったし、お昼ご飯にしましょうか」


 七尾さんが、不意に明るいトーンで立ち上がった。


 「近所の蕎麦屋、『風貴庵』で食べましょう。あそこなら美味しい蕎麦が食べられますから」


 七尾さんはそう言うと、いつになく率先して、ジーンズのポケットからニュービートルのキーを取り出した。



 七尾さんのプライベート用の愛車、ニュービートル。仕事のときは軽トラ、それ以外のプライベートな移動のときはこれ、というのが七尾さんの頑なな使い分けらしかった。私がこの中標津にやってきてから、この丸っこい愛らしい車に乗せてもらったのは、まだ片手で数えるほどしかなかった。


 木下さんは、「お、やっぱり後部座席は狭いですね!」と嬉しそうに笑いながら、丸いハッチバックの後ろに乗り込んだ。


 助手席に腰を下ろすと、車内には、七尾さんが毎日吸っているアメリカンスピリットの乾いた匂いと、作業室から運ばれてきた、様々な種類の木屑の匂いが、微かに優しく漂っていた。その匂いに包まれているだけで、私は何だかとても守られているような、不思議な安心感を抱くのだった。


 風貴庵ののれんをくぐり、木製のカウンター席に座ると、田中のおやじさんはいつものように、こちらに視線を向けることさえせず、ぶっきらぼうに言った。


 「七尾さん、いつものな。あんたらもそれでいいな?」


 「うん、親父さん、いつもの三つ。」


 「あ、はい、大丈夫です」


 木下さんは、メニューさえ提示されないその独特の接客スタイルに少し驚いた顔をしていたが、すぐに「すごいですね」と小声で私に耳打ちしてきた。


 「橋本さん、僕、中標津のこのお店に何回か来たことありますけど、メニューを見ずに注文が終わったの、初めてですよ」


 「ふふ、私も最初は驚きました。でも、もうすっかり常連……というよりは、おやじさんに選ばせてもらえない、と言った方が正しいかもしれませんね」


 七尾さんは、私たちのやり取りを隣で聴きながら、嬉しそうに「ふ、ふ」と声を殺して笑っていた。


 出てきた瑞々しい蕎麦を、三人で黙々とたぐっている途中で、木下さんが、ふと思い出したようにぽつりと言った。


 「そういえば、七尾さん」


 「ん? なんですか」


 「九鬼楽器って、今、どうなってるんですかね?」


 その瞬間、私の箸を持つ手が、少しだけぴたりと止まった。


 春先に、東京から来た小説誌の編集者である佐久間さんが、この工房の帰り際に私に残していった「九鬼楽器」という言葉。長野県にあった、伝説的なギターメーカー。


 七尾さんは、蕎麦を一口すうっとすすり、咀嚼して飲み込んだ後、ゆっくりと湯呑みへと手を伸ばした。


 「さあ……? どうなってるんだろうね」


 「もう、会社自体はないんですよね、たしか」


 「うん。十年くらい前に、社長が体調を崩して、畳んだはずだよ」


 「やっぱり、そうなんですね。あそこで働いていた素晴らしい職人さんたちも、みんなバラバラになっちゃったんですか?」


 「だね。みんな、本州の大きなメーカーに行ったり、自分で別の仕事始めたり、バラバラさ」


 七尾さんの返事は、極めて短かった。


 短かったけれど、その声のトーンや調子は、普段の飄々としたものと、驚くほど何も変わっていなかった。


 私は、お茶を飲むふりをしながら、横目でそっと、彼の表情を盗み見た。


 七尾さんは、湯呑みをテーブルの上に置いたその大きな右手で、テーブルの木目を、人差し指の腹を使って、なぞるようにゆっくりと往復させていた。


 風貴庵のテーブルは、古いナラ材で作られていた。乾いて、少しだけ痩せた、長年の時間が染み込んだ古い木。


 「僕のライブハウスにもね、九鬼楽器で作られたギターが何本か置いてあるんですよ」


 木下さんが、懐かしそうに話を続けた。


 「ハコモノのギターが多いんですけど、ジャズをやる人たちが店に来ると、みんな喜んでそれを弾いていきます。本当に、素晴らしい木を使っていましたよね」


 「うん。あの会社の社長がね、とにかく木にだけは金をかける人だったから。」


 「本当にもったいないですよね、あんなに素晴らしいメーカーが、なくなっちゃうなんて」


 「うん……」


 七尾さんは、もう一度だけ、小さく「うん」と呟いて、再び蕎麦をすすり始めた。


 その目は、かすかに動いていた。


 いつも飄々としていて、どこを見ているのか、何を考えているのか分からない、彼のあのどこか気の抜けた瞳が。



 それは本当に、瞬きよりも短い、一瞬の出来事だった。


 けれど、私は、その目の揺らぎを、確かに見逃さなかった。


 工房に戻ると、木下さんは自分のギターを愛おしそうにハードケースへと片付け、フタを閉めると、私たちの前でもう一度、丁寧に頭を下げた。


 「七尾さん、本当にありがとうございました。これでまた、自信を持ってステージでこのギターを弾くことができます」


 「いえいえ。また何か気になることがあったら、いつでも来てください」


 「はい。何があっても、また来ます」


 「うん。用事がなくても、ただ遊びに来るだけでも歓迎しますよ」


 木下さんは嬉しそうに笑うと、今度は私のほうを向いた。


 「橋本さん。いつか橋本さんの作ったボールペン、買わせてもらってもいいですか?」


 「え……? いや、あれは私が初めて作った試作品のようなもので、人様にお売りできるようなクオリティでは決して……」


 私は慌てて手を振ったが、木下さんは静かに首を横に振った。


 「初めて作った、世界に一本しかない特別なボールペンだからこそ、価値があるんですよ。もし、いつか販売する準備ができたら、僕に一番に教えてください」


 そう言って、木下さんはジーンズのポケットから、一枚の名刺を取り出して、私に手渡した。


 「これ、僕のライブハウス『ZEAL』の名刺です。今度、釧路に来ることがあったら、ぜひお店に寄ってください。ライブがない平日の夜なんかは、店も静かで、ゆっくり話せますから」


 「……ありがとうございます」


 私は、両手でその名刺を受け取った。


 少しだけ四隅がよれていた。ポケットの中で、彼が毎日、お守りのように持ち歩いていたのだろうということが、その紙の温もりから伝わってきた。


 白いセダンが、七尾工房の前からゆっくりと離れていくのを、私たちは並んで静かに見送った。


 車影が、まっすぐに伸びる道路の向こう、防風林の影へと消えて見えなくなった後、七尾さんはポケットからアメリカンスピリットを取り出し、静かに火をつけた。


 「アユムさん」


 「はい」


 「あの人、いいよね」


 「ええ、本当に、実直で素敵な人ですね」


 「お父さんのギターを、ちゃんと、自分自身の楽器にし始めてる。いい音が鳴ってたよ」


 七尾さんはそう言うと、吸い込んだ紫色の煙を、中標津の眩しい夏の空に向かって、細く吐き出した。雲一つない、どこまでも深く、澄み切った青空へと、白い煙は抵抗することなく、すぐに薄れて消えていった。


 「楽器っていうのはね、本当に難しいものなんよ」


 「難しい、ですか?」


 「持ち主が変わるたびにね、木がその人の手の癖や、鳴らし方を覚えて、ちょっとずつ、別の生き物に変化していくから。あいつは今、木下さんの音を一生懸命、覚えようとしているところなんだよ」


 私は、その言葉を、忘れないように頭の中のノートに、静かに書き留めた。


 夕方、陽が沈み始めると、やはり中標津の部屋はストーブが欲しくなるほどに冷え込んできた。けれど、私はあえてストーブは焚かず、リビングの白いソファに座って、自分の仕事用の黒いノートを開いた。


 今日の木下さんとの会話、そして七尾さんが口にした言葉たちを、できるだけ正確に、記憶が鮮明なうちに書き留めておく。それは私の長年の習慣であり、東京でコピーライターという「言葉を狩る仕事」をしていた頃の、消えない職業病のようなものでもあった。


 『お父さんのギターは変わらない。自分のギターが、その上に少しずつ重なってくる』  『持ち主が変わるたびに、楽器は別の生き物になる』  『九鬼楽器、十年前にたたんだ』


 最後の一行を書き終えたところで、私はふと、ペンの動きを止めた。


 私は、ノートの前のほうのページを、ゆっくりとめくっていった。


 春先に、東京から来た編集者の佐久間さんが、去り際にぽつりとこぼした「九鬼楽器」という、伝説的なメーカーの名前。  雪解けの季節、畑山さんの倉庫の古い押し入れから出てきた、埃を被った九鬼楽器製のギターを前にして、七尾さんの手が一瞬だけ、不自然に止まったこと。  そして、今日の蕎麦屋で、九鬼楽器の話題が出たときに、七尾さんが見せたあの、一瞬だけの「目の揺らぎ」。


 それまで、私の頭の中でバラバラに存在していた、いくつかの「点」。


 それが、今日の出来事を経て、ついに三つになった。


 これらを一本の線で結んでいいのか、結んだ先にどのような真実が待ち受けているのか、今の私にはまだ分からなかった。ただ、それを強引に結んで言葉にしてしまったら、この工房の穏やかで優しい日常が、二度と元には戻らない、何か取り返しのつかない変化を迎えてしまうような、そんな予感がして、私はそっとノートを閉じた。


 トントン、と二階の階段から足音がして、七尾さんが、あのエレキベースを抱えて降りてきた。


 アンプには繋がず、ただ、木の生音だけで、ポロン、ポロンと、指先で優しく弦を弾いている。私は音楽の知識が乏しく、本当はGLAYの有名な曲くらいしか聞き分けられないので、彼が今、何の曲を奏でているのかはまったく分からなかった。



 七尾さんは、私の座るソファの隣へと腰掛けた。


 座面の真ん中に残された、あの薄くて、少し色褪せたような「跡」。


 その場所を、汚さないように、避けるようにして、不自然に左端の境界にだけ、静かに腰を下ろした。


 その徹底した避け方は、私が春にこの工房にやってきたあの日から、何一つ変わっていなかった。


 私は、そのことについて、今日も何も尋ねなかった。


 尋ねるタイミングは、たぶん、まだ、来ていない。


 今はただ、この静かな夕暮れの中で、彼の奏でる生ベースの低く乾いた音色を聴きながら、中標津の静かな風が通り抜けていくのを、じっと感じていればいいのだ。


 窓の外の遠い放牧地から、一頭の牛が、夕暮れの訪れを惜しむように、長く、のんびりとした声で、一度だけ鳴いた。

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