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七尾工房、開店休業中  作者: 七尾 拓哉


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12/20

第12話 七尾さんの、長野時代(前編)

雨は昼過ぎから降り始めて、夕方にはかなり本格的なものになっていた。




 六月の末に道東で降る雨は、本州のそれとは比較にならないほど冷たい。本州のこの時期であれば、梅雨特有のじっとりとした生暖かい湿気が肌にまとわりつくところだが、中標津の雨はまったく違っていた。はるか北の、シベリアやオホーツクの海から流れてくる冷たい空気をそのまま引き連れてきたかのように大気は冷え切り、外で少し作業をするだけで、吐き出す息がうっすらと白くなる。雨粒は一粒一粒が重く、そして硬く、工房のトタン屋根を激しく叩くその強烈なノイズは、厚い防音壁を抜けて一階の機械室の奥にまでしっかりと届いてきた。




 その日は、とりたてて急ぎの木工作業の予定が入っていなかった。




 七尾さんは午前中のうちに、近所で人気の蕎麦屋を営む「田中の親父さん」から頼まれていた、調味料を乗せるための小さな杉の小棚を仕上げていた。七尾さんはいつものように適当に、どこか楽しそうに鼻歌を歌いながら鑿のみを走らせているように見えたが、出来上がった棚は角が綺麗に丸く面取りされ、長年使い込まれた蕎麦屋のカウンターにすぐ馴染むような、絶妙な風合いに仕上がっていた。




 「よし、これで美味い蕎麦が食えるな」




 そう言って笑った七尾さんに連れられて近所の店に行き、お礼として親父さんがご馳走してくれたいつもの温かい蕎麦を、私たちは二人で並んで平らげた。冷えた体に、カツオと昆布の出汁が効いた温かい蕎麦つゆがじんわりと染み渡っていくのが、何よりも嬉しかった。




 工房に戻ってくると、カンナがいつものソファの背もたれの上で、器用に丸まって眠っていた。外は激しい雨が降っているが、この古い木造の建物の中だけは、薪ストーブの微かな熱のおかげで、静かな温もりが保たれている。




 そのソファの座面の真ん中には、革が少しだけ薄く、色褪せたようになっている不思議な「跡」がある。それは単なる経年劣化による傷みというよりも、かつて誰かが気の遠くなるような長い時間をかけて、毎日毎日同じ場所に座り続けたことで残された、消えない命の痕跡のようだった。




 私が春にこの工房にやってきた最初の頃にその薄い跡に気づき、それ以来、七尾さんがそのソファに腰掛ける際、決してその真ん中には座らず、必ず不自然なほど左端に寄って腰を下ろすことも知っている。そして私自身も、いつの間にか、そのソファを使うときには自然と右端のスペースにだけ腰掛けるようになっていた。七尾さんから「真ん中には座るな」と直接言われたわけでもないのに、その場所には誰か別の、とても大切な人のための見えない領域が存在しているかのように感じられて、無意識のうちにそこを避けていたのだ。




 「ねえ、アユムさん」




 灰皿に煙草を押し付けながら、七尾さんが珍しく、私に向かって語りかけてきた。




 「はい、何ですか?」




 「長野ってさ、行ったことある?」




 あまりにも脈絡のない、唐突な質問だった。けれど、七尾さんの口から飛び出す話題は、たいていこのように前触れもなく、こちらの予想を大きく裏切るものが常だった。




 「一度だけあります。大学時代の友人が、就職して松本市に住んでいたので、彼に会いに。連休を使って遊びに行きました」




 「ああ、松本か。いい街だね。長野のちょうど真ん中だ。山が近くて、水が綺麗でさ」




 七尾さんは、懐かしそうに目を細めて言った。




 「七尾さんは、中標津に来る前、長野にいたんですよね?」




 自分でその言葉を口にしながら、私は少しだけ、自分の口調が慎重になりすぎていることに気づいた。




 七尾さんの「長野時代」については、私が春にこの工房にやってきて以来、ずっと心の奥底で気になり続けていた最大の謎だった。




 以前、東京の編集者である佐久間さんが工房を訪れた際、七尾さんの顔を見て「九鬼楽器におられた、あの七尾さんですよね?」と指摘したことがあった。その時、普段は飄々として表情を変えない七尾さんの顔が、一瞬だけ、凍りついたように強張ったのを私ははっきりと覚えている。




 それに、畑山さんから修理で預かった古い九鬼楽器製のアコースティックギターを手にしたときの七尾さんも、いつもとは明らかに違う、張り詰めたような、哀愁を帯びた表情をしていた。そのギターのボディを撫でる指先が、まるで壊れやすい宝物を扱うように繊細に動いていたのを、私は今でも忘れることができない。




 長野、九鬼楽器、そしてそこでの思い出。それらは、七尾拓哉という男の過去を語る上で、絶対に避けては通れない、しかし同時に、不用意に触れてはならない極めてデリケートな聖域であるように思われた。




 「いたよ」




 七尾さんは、指の間に残っていたアメリカンスピリットを灰皿の縁に静かに置き、窓の外の雨雲を見つめるような目をした。




 「ちょうど、十年いた。長野の南の方、諏訪すわって呼ばれる地域があるんだけどさ。冬はもの凄く冷え込んでさ、湖が丸ごと凍るようなところなんだけど、空気が乾いていて、木を乾燥させるにはもってこいの場所だった」




 「そこで、ずっとギターを作っていたんですか?」




 「作ってた。九鬼楽器っていう、小さな、本当に小さな楽器メーカーでね」




 外の雨の音が、再び少しだけ強くなった。




 屋根を激しく叩く硬い音と、軒先の雨どいを勢いよく流れていく濁った水の音。性質の異なる二つの水音が重なり合い、不規則なリズムを作り出している。その音が、私たちの沈黙を埋めるようにリビングに響いていた。




 「……どんな会社だったんですか、九鬼楽器というのは」




 私は、七尾さんの言葉を遮らないように、声を少し低くして尋ねた。




 「小さかったよ。事務員も合わせて、全員で二十人もいないような会社さ。近代的な工場なんて呼べる代物じゃなくて、古い木造の作業場に、職人たちがそれぞれの作業台を持って並んでいるような、古い徒弟制度が残った場所だった。でもさ、そこで作られるギターは、本当にいい音がしたんだ」




 七尾さんが、自分の過去についてこれほど自発的に、そして穏やかに話し始めるのは、私がここに来てから初めてのことだった。私は、持っていたボールペンを机の上に静かに置き、彼の言葉の一言一言を逃さないよう、全身を耳にして聞く姿勢を取った。




 「九鬼源蔵げんぞうっていう社長がいてね。その人がとにかく、徹底的にこだわる人だったんだよ。妥協っていう言葉を辞書から削り落としたような人だった。木材の一枚にしても、気に入らなければ絶対に妥協しない。職人にとっては鬼みたいなオヤジだったけどさ」




 「その社長は、ご自身もギター職人だったんですか?」




 「いや」




 七尾さんは、ふっとおかしそうに鼻で笑った。




 「元々は家具屋で、ある時は卓球のラケットを作ったりしてた時期もあるらしいけど、俺が居た頃は完全にギター製作しかやってなかったな。ただの、頑固な木工屋のオヤジだね。でもね、不思議なことに、『音がわかる』人だったんだ」




 「音が、わかる?」




 「そう。自分で弾けないのに、職人が作り上げたギターの最初の一音を聴いただけで、その楽器のすべてを見抜いてしまうんだ。個人の好みの問題とか、流行りの音とか、そういう曖昧なものに振り回されない。『あの社長が納得するか、しないか』。判断の基準が、それだけ明確だったからさ。軸がその一本だけに絞られているから、俺たちはただ、その高い壁を乗り越えることだけに、すべての神経を集中させることができたんだ。怖かったけど、本当にやりがいのある場所だったよ」




 七尾さんのその言葉を聞きながら、私はかつて東京の広告代理店で、がむしゃらに働いていた頃の自分を思い出していた。




 クライアントの担当者に確固たる基準がなく、上司の意見もその日の気分でコロコロと変わるようなプロジェクトでは、どれほど素晴らしいコピーを提出しても、際限のない修正のループに巻き込まれて精神が磨り減っていく。逆に、どれほど厳しい相手であっても、「この人が何を求めているか」という基準が一本通っていれば、仕事は驚くほどスムーズに進み、やり遂げた後の達成感も大きかった。




 職人の世界も、私たちのいたクリエイティブの世界も、本質的な部分はまったく同じなのだと気づかされ、私は七尾さんの言葉に深く、無言で頷いた。




 「……楽しかったですか、その頃は」




 私がそう問いかけると、七尾さんはすぐには答えなかった。指の間に挟んだ煙草を、一度灰皿に置き、何かを確認するように天井を見上げた。




 「楽しかった、と思うよ。たぶんね」




 「たぶん、ですか?」




 「うん。後からこうして振り返ってみれば。でもさ、当時はそんなことを感じる余裕なんて一ミリもなかった。毎日が必死だった。ギターの顔になる表板や裏板を切り出す『木取りきどり』っていう重要な作業なんて、最初の二年間は触らせてももらえなかった。来る日も来る日も、先輩たちが削り終えたパーツのヤスリがけや、塗装をしない部分を覆うためのマスキング貼りばかりをやってたな」




 「そこまで厳しい修行だったんですね」




 「……いや、厳しくはなかったかな? ただ、丁寧だった。ギターっていう楽器は、木という生物の遺体をそのまま使って作るものだから、湿度や温度のわずかな変化に驚くほど敏感に反応するんだ。木工界隈でよく言われる『木の個性』を読めないような半人前には、怖くて大事な木を触らせられない。それが社長の徹底した教育方針だったし、今思えば、それは絶対に正しいやり方だったよ。木を敬うってことは、そういうことだからね」




 その時、ソファの背もたれの上で丸くなっていたカンナが、ふと目を覚ましてあくびをした。




 カンナは、伸びをしながら背もたれからリビングの床へ、探るように静かに着地した。そして七尾さんの足元へと軽やかな身のこなしで近づき、台の上に置かれた図面や定規を避けるように歩き回った。しばらく周囲を偵察するように歩き回った後、退屈したように再びソファの元の場所へと戻っていった。




 外の雨が、また一段と激しさを増し、窓ガラスを叩く規則的な音がリビングに響き渡る。




 「そこまで素晴らしい場所だったのに、七尾さんはどうして九鬼楽器を辞めたんですか?」




 私が核心に触れる質問を投じると、七尾さんはポケットからライターを取り出し、今度は本当に煙草に火をつけた。シュッと小さな音がして、オレンジ色の火がアメリカンスピリットの先を焦がしていく。




 「三十二歳のときだったよ」




 ゆっくりと吐き出された煙の向こうで、彼の声が少しだけ低くなった。




 「会社が、畳まれたんだ」




 「九鬼楽器が、ですか?」




 「社長が、脳溢血で倒れてさ。一命は取り留めたんだけど、以前のように作業場に立って、あの神がかった耳で音を判断することはできなくなってしまった。社長には息子さんがいたんだけど、都会で別の仕事をしていて、楽器作りを継ぐ気はまったくなかった。後継者がいなくて、技術の承継も難しくなり、資金繰りも徐々に悪化していった。ああいう職人気質の小さな工房ってやつはさ、結局のところ、社長個人の肉体と魂の寿命と完全にリンクしているものなんだ。社長が倒れたら、すべてが止まってしまう。それは仕方のないことだった」




 「それで、会社が解散した後に、七尾さんは中標津へ移住されたんですか」




 「いや、すぐにはこっちに来なかった」




 七尾さんは、指の間のアメリカンスピリットをゆっくりと回転させながら、言葉を選んだ。




 「会社が潰れた後も、俺はしばらく長野に留まっていたんだ。そこで……色々と、少し、個人的なことがあってね。その後、すべてを整理して、この中標津に流れてきたんだよ」




 「少し、個人的なことがあって」




 七尾さんがその言葉を口にした瞬間、会話のテンポが、それまでとは明らかに異なる奇妙な変化を見せた。




 言葉の輪郭が、不自然なほどに霞み、文章と文章の間に、何かを強く警戒するような、あるいは絶対に表に出してはならない秘密を隠そうとするような、重たい「間」が確かに存在していたのだ。




 私は、その不穏な空気を敏感に察知した。




 これ以上、その「空白」に踏み込むべきなのだろうか。それとも、今は何も気づかないふりをして、引き下がるべきなのか。かつて広告の現場で、クライアントの繊細な心理の変化を読み取ってきた私の観察眼が、ここで無用に働いてしまうのが少しだけ恨めしかった。




 私は、波立つ心を落ち着かせるように一度深く息を吸い、少し視線を外してから、別の、遠回りの質問を投げかけることにした。




 「九鬼楽器で一緒に働いていた他の職人の皆さんは、会社が解散した後、どうされたんですか?」




 「みな、バラバラになったよ」




 七尾さんは、私の意図を察してくれたのか、少しだけ安堵したような表情を見せて応じた。




 「技術のあるベテランたちは、本州の大手楽器メーカーや海外の工房に移っていった。若手の中には、楽器作りを諦めて別の仕事に転職した奴もいるし、何人かは俺と同じように、自分で小さな工房を立ち上げて、個人でギター作りを始めた奴もいる」




 「七尾さんのように、自分の理想の楽器を追い求めるために、ですか」




 「まあ、俺の場合は、色々と動き出すのが人よりちょっと遅すぎたんだけどね」




 自嘲気味にかすかに笑った。しかし、その笑顔の奥には、やはり先ほど感じられた、あの張り詰めたような「間」が未だに居座り続けていた。




 「……一緒に、仕事をしていた奴がいたんだ」




 そう言って煙草を灰皿に一度置くと、リビングの天井の一点を、まるでそこに失われた過去の映像が投影されているかのように、じっと見つめ続けた。




 「そいつは、俺と同い年だった。九鬼楽器には、俺よりも半年ほど早く入社していて、俺にとってはライバルであり、同時に一番身近な先輩でもあったんだ。そいつがまた、とんでもない天才でさ。とにかく仕事の手際が良くて、俺が一日かかってようやく一枚の板を削り終える間に、そいつは三枚も四枚も正確に仕上げてしまう。何より、設計の才能がずば抜けていたんだ。俺が毎日、木屑まみれになりながら基礎の木取り修行をしている間に、そいつはもう、社長と対等に渡り合いながら、新しいギターの設計図を何枚も引いていたよ」




 「……本当に、素晴らしい才能を持った方だったんですね」




 「だね」




 誇らしげに、しかし同時にどこか酷く寂しそうな表情を浮かべて、小さく頷いた。




 「そいつが引く図面はね、ただ綺麗なだけじゃないんだ。線の裏側に、そいつが鳴らしたいと願っている『まだこの世に存在しない音』の振動が、確かに宿っているような気がした。俺はそいつの図面を見るのが大好きだったし、そいつが設計したギターを、俺の手で形にすることが、あの頃の俺の一番の喜びだったんだ」




 七尾さんは、そこまで一気に語ると、それ以上は何も言わなくなり、ただ指の間で細く立ち上る白い煙を見つめていた。




 リビングには、再び雨の音だけが戻ってきた。




 私は、彼の表情の奥にある、計り知れない喪失感の深さを感じ取り、これ以上その話題に踏み込むのを完全に止めることにした。




 七尾さんの過去の話は、いつも本当に大切な、核心の部分の寸前でぴたりと止まる。そしてその「寸前」にこそ、彼が中標津という日本の最果ての地に一人で引きこもり、開店休業のような生活を続けている本当の理由が隠されているのだということは、これまでの半年間の共同生活の中で、嫌というほど理解していたからだ。




 無理にその重い扉を開けようとすれば、彼との間に築き上げてきた、この穏やかで心地よい信頼関係そのものが、一瞬にして壊れてしまうかもしれない。それよりも、彼が自らの意志でその扉を開き、私に向かって本当のことを話してくれるその日まで、ただ静かに、彼の隣で木を削り続けることこそが、弟子である私の果たすべき役割なのだと、自分に言い聞かせた。




 「……友達、だったんですね。その、設計が得意だったという方は」




 私が、極めて静かに、確認するように尋ねると、煙草を灰皿の底に押し付け、消えゆく火を見つめながら、ぼそりと呟いた。




 「友達、だったよ。……もう、いなくなっちゃったけどね」




 七尾さんの口から漏れたのは、それだけだった。




 「いなくなっちゃった」というその言葉が、物理的な距離を意味しているのか、あるいはもっと決定的で、取り返しのつかない別れを意味しているのか、それを問うことはしなかった。




 その時、ソファの上で丸くなっていたカンナが、足音もなく床に降り立ち、私たちの座るダイニングテーブルの下へとやってきた。




 カンナは、七尾さんのジーンズの裾にその茶トラの体をすり寄せ、にゃあ、と甘えるように小さく鳴いた。そして、七尾さんが手を差し伸べるのを待つように彼を見上げた。




 「あ、このソファ、九鬼楽器にあったものなんだ。社長の奥さんが持ってっていいって言うから、もらってきたんだ」




 七尾さんは、カンナを抱き上げる代わりに、愛おしそうにソファの真ん中の、あの凹んだ跡をそっと手のひらで撫でた。




 「そうなんですか」




 「休憩室でよく俺はここに座って、ベース弾いてて、そいつがこの真ん中に座ってたんだ。だから、ここだけ座面が凹んじゃってるんだよ」




 七尾さんのその告白を聞いた瞬間、私の胸の奥で、カチリと小さなパズルのピースが嵌まるような音がした。




 だからなのだ、と思った。




 七尾さんがこのソファに座るとき、なぜいつも頑なに真ん中を避け、窮屈そうに左端にだけ腰を下ろすのか。その理由が、今ようやく、痛いほどの鮮明さを持って理解できた。




 彼にとって、その座面の真ん中の凹みは、単なる革のへたりなどではない。かつてそこで同じ夢を追いかけ、共に笑い、共に語り明かした、かけがえのない親友の「居場所」そのものなのだ。十年の歳月が流れても、その場所は親友のためのものとして、不可侵の聖域として、今も大切に残されている。




 私は、その事実にただ圧倒され、何も言葉を返すことができなかった。何かを言えば、その静かで尊い記憶の輪郭を傷つけてしまうような気がしたのだ。私はただ、自分の前にあるコーヒーカップを両手でそっと包み込み、その温もりに縋るようにして、七尾さんの手元を見つめ続けた。




 外の雨は、夜が更けても衰える気配を見せず、冷たい雫がトタン屋根を叩くノイズが、工房全体を包み込み続けていた。




 私はその夜、それ以上長野について何も尋ねなかった。




 何も聞けなかった、というよりは、今はこれ以上聞く必要がないのだと、確信していた。七尾さんが今夜、私に向かって話してくれた九鬼楽器の思い出と、その天才的な親友の存在。それだけで、彼が私を「ただの事務作業員」ではなく、一人の「信頼に足る弟子」として認めてくれ始めていることの、十分な証明であるような気がしたからだ。




 明日の朝、この冷たい雨が上がり、道東の澄み切った青空が広がっているかどうかは、この時の私にはまだ知る由もなかった。けれど、七尾さんの膝の上で眠るカンナの体温と、薪ストーブの柔らかな熱が、冷え切った私たちの心を、確かに静かに温めてくれていた。


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