第13話 七尾さんの、長野時代(後編)
翌朝、目を覚ますと、世界はまるで嘘みたいに晴れ渡っていた。
昨夜の遅くまで工房のトタン屋根を叩き続けていた激しい雨が、大気中に漂う埃や、日々の雑多な淀みをすべて綺麗に洗い流してくれたのだろう。朝の光に照らされた空は、どこまでも高くて、驚くほど吸い込まれそうな青色を湛えていた。
中標津の、六月の終わり。それは道東に生きる人々にとって、一年のうちでもっとも美しく、もっとも瑞々しい季節の始まりを告げる朝だった。
窓から外を見下ろすと、どこまでも果てしなく広がる牧草地の緑が、朝露を葉先に宿してキラキラとエメラルド色に輝いていた。そのずっと向こう、地平線の境界には、知床連山や斜里岳の雄大な稜線が、定規で引いたかのようにくっきりと、鮮やかに浮かび上がっている。
道東の朝の空気は、いつもどこか薄くて、ひんやりと冷たい。肺の奥深くにまで直接届くようなその清涼な冷気とは対照的に、東の空から差し込んでくる太陽の光は、すでにじりじりと肌を焦がすほどの強いエネルギーを持って地上に降り注いでいた。そんな、冷たさと熱さが心地よく同居する、静かで美しい朝だった。
その日の私は、特に仕事の予定が入っていない休日だった。
かといって、隣町まで買い物に出かけるような具体的な予定があるわけでもない。中標津の澄み切った青空を眺めながら、お気に入りの小説でもめくって、ただ静かに一日を過ごそうと考えていた。
私が身支度を整えて二階の自室から一階へと降りていき、リビングの扉を開けると、驚いたことに、七尾さんはすでにキッチンに立っていた。
それは、この工房の日常においては、ちょっとした天変地異に匹敵するほどの珍事だった。
七尾拓哉という男は、極端なまでに朝が弱い。夜遅くまで本を読んだり、ベースを弾きながら、黄色いパッケージのアメリカンスピリットを燻らせている不規則な生活のせいもあるのだろうが、普段であれば、彼が午前九時前に布団から這い出てくることなど、まずあり得ないからだ。私がいつものように「おはようございます」と声をかけ、彼が「…おはよーございます…」と地獄の底から響くようなうめき声を返すのが、これまでの毎朝の決まりきったパターンだった。
しかし今、まだ八時前だというのに、七尾さんはすっきりと目覚めた顔で、お気に入りのケトルから丁寧にお湯を注いでいた。キッチンには、深煎りの珈琲豆が挽かれたときの、あの香ばしくて少しほろ苦い、贅沢な香りが充満している。
「おはよーございます」
七尾さんは、振り返っていつもの低い、飄々としたトーンで応じた。
「おはようございます。本当に珍しいですね。こんなに早い時間から、しかもご自分でコーヒーを淹れているなんて。今日は槍でも降るんじゃないですか」
「失敬だなあ。俺だってたまには、こういう爽やかな朝に美味しいコーヒーを淹れたくなることくらいあるよ。ほれ、アユムさんの分」
七尾さんは、使い込んだお気に入りのマグカップに、淹れたての漆黒のコーヒーを満たして私に差し出した。受け取ると、陶器の温もりが私の冷えた指先に心地よく伝わってきた。
七尾さんは自らのカップを両手で持ち、リビングにあるあの白い革張りのソファへと歩いていった。そして、いつものように、まるでそこが彼にとっての絶対の指定席であるかのように、迷うことなく左端の境界へと静かに腰を下ろした。
私は、彼の正面にある木製のダイニングチェアを少し引き、そこにゆっくりと腰掛けた。
私たちの様子を、カンナがソファの背もたれの上から、大きな琥珀色の目をパチクリとさせながら見下ろしていた。カンナは、私たちの間に流れるどこかいつもと違う空気を敏感に察知しているようで、普段のように甘えることもせず、ただ静かに香箱を組んで佇んでいた。
しばらくの間、リビングには何の言葉も交わされなかった。
ただ、淹れたてのコーヒーをすする小さな音と、開け放たれた窓の向こうから聞こえてくる、牧草地を飛び交う野生の鳥たちの澄んださえずりだけが、等間隔で静かに響いていた。
朝の強い光が、リビングの無垢材の床に窓枠の形をした大きな長方形の影を作り、その中を小さな埃の粒子が、まるでダンスを踊るように静かに揺らめきながら浮遊している。その穏やかで美しい光景を見つめていると、昨夜の雨がもたらした冷たい緊張感が、少しずつ解きほぐされていくようだった。
「……昨日の話の、続きなんだけどさ」
七尾さんが、両手で包み込んでいたマグカップをテーブルの上に静かに置きながら、視線を落としたまま話し始めた。
「してもいいですか」と私は口を開きかけて、すぐにその言葉を喉の奥に引っ込めた。
私から無理に問い詰める必要はない。七尾さんという男が、自らの心の奥底にある大切な過去を、自分の意志で、自分の言葉として外に出したいと願っている。私はただ、それを静かに受け止めるための器になればいいのだ。それが、弟子であり、この中標津での彼の数少ない理解者である私の、唯一の役割なのだから。
「……はい。聞かせてください」
私は、コーヒーカップを両手でしっかりと握り直し、七尾さんの顔をまっすぐに見つめた。
「伊吹、っていう名前だったんだ」
七尾さんは、窓の外のどこまでも続く緑の牧草地に視線を向けたまま、ぽつりと言った。朝の光が斜めの角度から彼の横顔を照らし、その無精髭の浮いた頬や、少し寂しげな目元に深い陰影を作っていた。
「伊吹敦。九鬼楽器で一緒だった。同い年で、最高のライバルで、そして……俺にとって、唯一無二の親友だった」
私は、黙って彼の言葉の行方を見守った。
「そいつはさ、本当に設計の才能に恵まれた男だったんだ。ギターという楽器の構造や、木という素材の可能性について、誰よりも深く、誰よりも真摯に考えていた。どうすれば、この木が持っている本来の力を限界まで引き出して鳴らすことができるか。どういう角度でパーツを組み合わせれば、音の振動が逃げることなくボディ全体に行き渡るか。あいつの頭の中にはさ、まるで目に見えない『音の地図』みたいなものが、最初から完璧に描き出されているような感じだったんだよ」
「地図、ですか」
「そう。言葉にするのはすごく難しいんだけどね。普通の職人は、図面を引いて、木を削り、実際に組み上げて弦を張ってみるまでは、どんな音が出るか本当の意味では分からない。でも、伊吹は違った。あいつが引いた図面を見つめていると、そこからどういうトーンの、どういう余韻を持った音が響くのかが、不思議とあらかじめ読めてしまうんだ。そういう特別な能力を持った奴だった。俺には、どうしても見えなかった領域の景色が、あいつの目には、最初から眩しいくらいにハッキリと映っていたんだろうな」
七尾さんは、ジーンズのポケットからアメリカンスピリットの黄色いパッケージを引っ張り出し、中から一本の煙草を指先で抜き取った。しかし、昨夜と同様に、ライターで火をつけることはしなかった。その乾いた煙草を、まるで大切な道具の一部であるかのように、指先で器用にくるくると、何度も何度も回転させるその仕草。それは、彼が深い思考の海に沈んでいるときの、お決まりのサインだった。
「九鬼楽器が潰れることが決まったときさ、伊吹はまだ、ある一つの壮大な設計の途中にいたんだ。それは、アコースティックギターの概念を根本から覆すような、まったく新しい内部構造だった。ブレーシングと呼ばれる、表板の裏に貼る力木の配置を一から全面的に見直して、音の減衰速度を極限まで遅くする。それが完成すれば、これまでに聴いたこともないような、豊かでどこまでも伸びていく、奇跡のような残響を持ったギターが生まれるはずだ。あいつはいつも、作業場の片隅で目を輝かせながら、俺にそう熱弁していたよ」
「それが……完成しなかったんですね」
「だね」
七尾さんの声が、かすかに掠れた。
「完成しなかった。あと一歩、本当にあと少しのところで、すべてが止まってしまったんだ」
彼は、ようやく手元のライターを擦り、アメリカンスピリットに火をつけた。
チッと静かな音が響き、赤い小さな火が煙草の先を焦がしていく。彼はそれを深く一口吸い込むと、紫色の煙を吐き出さずにしばらく肺の中に留め、それから窓の外の景色に向かって、ゆっくりと、細く長く吐き出した。煙は、朝の強い光線の中で美しい幾何学的な渦を描きながら、静かに大気へと溶けていった。
「九鬼楽器が解散した後も、伊吹はしばらくの間、未練を断ち切れないように長野に留まっていた。もちろん、俺も同じだった。二人で、誰もいなくなった古い作業場の近くの居酒屋なんかで、これからどうするか、という話を毎晩のようにしていたよ。自分たちで借金をしてでも、この長野に小さな個人工房を立ち上げるべきか。それとも、どこか別の、理解のある本州の大きなメーカーに二人揃って就職して、そこで開発を続けるべきか……。未来の計画は、まだいくらでも描けるはずだった。でもさ」
「でも……」
「伊吹が、突然死んだんだよ」
リビングの空気が、まるで一瞬にして氷点下まで凍りついたかのように、冷たく張り詰めた。
昨夜の雨が去った後の、爽やかで温かいはずの道東の朝の光の中で、七尾さんの口から吐き出されたその短い一言だけが、まったく異なる、重苦しい温度を持ってそこに存在していた。
「二十九歳だった。本当に、これからっていう時だった。ひき逃げだった」
ひき逃げ。二十九歳。
その残酷で不条理な言葉たちの響きに、私は思わず息をすることさえ忘れ、ただ目の前に座る男の、かすかに震える肩を見つめることしかできなかった。
「ある雨の夜にさ、あいつは自転車に乗って出かけたまま、二度と戻ってこなかった。道路の脇に倒れているのが見つかったのは、翌朝早くのことだった。警察から連絡があって、俺もすぐに駆けつけたけど……。長野の、本当に深い山の中にある、小さなお寺でひっそりと葬式を挙げた。俺も、あいつの遺骨をこの手で拾ったよ」
七尾さんは、もう一口、アメリカンスピリットを深く吸い込んだ。
彼の指先は、煙草の煙に隠れてよく見えなかった。灰が長く伸び、それが床に落ちる前に、彼は慌てる様子もなく、静かに灰皿へと押し付けて火を消した。その一連の動作があまりにも静粛で、かえって彼の胸の奥にある、十年間消えることのない底知れない寂しさを物語っているように思えてならなかった。
「葬式が終わって、長野にいる理由が完全に消えてしまった後、俺はしばらく抜け殻みたいになってね。それで、しばらくしてから、この中標津に流れてきたんだ。なぜこの場所を選んだのか? ……まあ、特別な理由なんて何もないよ。本当に、どこでもよかったんだ。ただ、あいつと一緒に過ごした長野から、少しでも遠くへ、誰の目も届かないような静かな場所へ行きたかった。それだけ」
私は、どのような言葉をかけるべきか、まったく分からなかった。
コピーライターとして、これまで何万、何十万という言葉を紡ぎ、他人の心を動かすための文章を書いてきたはずなのに、今、私の目の前で静かに傷口を開いて見せてくれたこの男に対して、差し出すことのできる適切な言葉を、私の引き出しの中からは何一つ見つけることができなかった。
けれど、無理に何かを言おうとする焦りは、不思議となかった。七尾さんが今、私に向かってこの過去を語っているのは、私に同情してほしいわけでも、何か慰めの言葉をかけてほしいわけでもないことが分かっていたからだ。彼はただ、十年間、この北の大地で一人で抱え込んできたその記憶の重さを、誰か信頼できる人間のいる空間で、具体的な「声」にして響かせてみたかっただけなのだ。そのことを、彼の静かな横顔が教えてくれていた。
「俺がいつも弾いてる、このジャズベース」
七尾さんは、リビングの壁を通り越して、その奥にある一階の作業室の方へと目を向けた。
そこには、あの白いボディに赤いリボンの柄が塗装された、お世辞にもこの渋い木工房には似つかわしくないエレキベースが、静かに壁に掛けられていた。七尾さんが毎日、大切なルーティンをこなすように、アンプを通して爪弾いているあの楽器だ。
「やっぱり……伊吹さんのものだったんですね」
「そう。遺品だよ。上杉さんという、伊吹の婚約者だった人から預かったんだ」
「伊吹さんの、婚約者……」
「あいつが死んでから、しばらく経ったある日、彼女から突然連絡があってね。これ、七尾さんに持っていてほしい、と。彼女がわざわざ、自分の手でここまで届けてくれたんだよ」
「なぜ、伊吹さんはそれを七尾さんに託そうとしたんでしょうか。なぜ、ベースだったんです?」
「俺は当時から、ギターよりベースが得意だったからかな?いつも作業場でベースを適当に弾いてたのを、あいつはよく聴いていたから。それに、本人が俺に渡したいと言ったわけじゃないからね」
七尾さんは、肩をすくめて、自嘲気味に微笑んだ。
「あいつ、生前はベースなんて一曲も弾けなかったんだ。音楽の知識だって、お互い違っていたし……。なのに、なんでこんなハデなベースなんて持っていたのか、それすら今でも謎のままなんだよ。あいつはそういう、時折突拍子もないことをする奴だったからね。ただ気に入ったデザインのものを、何となく手元に置いておきたかっただけかもしれない」
七尾さんは、そう言って一度言葉を止めると、灰皿に短くなった煙草を静かに押し付けた。
「でも、七尾さんはそのベースを、毎日欠かさず弾いていますよね」
私が尋ねると、七尾さんは初めて、その真っ直ぐな瞳を私の方へと向けた。
「楽器っていうのはね、弾かれなくなると、驚くほどすぐに死んでしまうんだ。どんなに素晴らしい木を使って、どんなに緻密に作られたものであっても、音を鳴らして空気の振動を与え続けないと、木が呼吸を止めて、鳴らなくなっちゃうのよ。下手糞な演奏でもいいから、毎日弦を鳴らして、ボディを震わせてやることが、その楽器の命を繋ぎ止める唯一の方法なんだよ。弾かないと、木も呼吸しなくなるからね」
「……本当に、それだけの理由ですか」
私が、少しだけ彼の心の奥を覗き込むようにして尋ねると、七尾さんはしばらくの間、答えをはぐらかすように視線を泳がせた後、ふっと力を抜いて言った。
「……うん。それだけ」
その言葉は、決して嘘ではないのだと分かった。けれど同時に、それが彼の抱える感情のすべてではないことも、私には理解できた。
七尾さんの言う「それだけ」という言葉の裏側には、いつも、もう数歩先の、言葉にできない深い想いや祈りのようなものが隠されている。私はこの半年の間で、彼のそういう不器用な優しさや、傷つきやすさを、誰よりも近くで観察してきたのだから。
ソファの背もたれから、茶トラのカンナが足音もなくすっと降りてきた。
カンナは、七尾さんのすぐ隣、ソファの座面の右側へと腰を下ろした。そして、七尾さんが手を伸ばすのを待つように、じっと彼の顔を見つめた。七尾さんは何も言わず、ただ大きな手でカンナの小さな頭を、愛おしそうにゆっくりと撫で始めた。カンナは気持ち良さそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「……七尾さん。なんで、昨日から急に、私にこんな話をしてくれたんですか」
私は、ずっと疑問に思っていたことを、静かに口にした。
聞いてから、もしかしたら少し踏み込みすぎてしまっただろうか、と後悔の念が頭をよぎったが、七尾さんは怒る様子もなく、ただ穏やかに応じた。
「先週さ、釧路の木下さんがここに来たでしょ?」
「はい。調整でいらした、あの木下さんですね」
「そう。あの時さ、あいつが話の流れで、ふと『九鬼楽器』っていう名前を出したでしょ?」
あの時のことを、私も鮮明に思い出していた。木下さんが何気なくその名前を口にした瞬間、七尾さんの瞳がわずかに、しかし確かに揺れ動き、一瞬だけ作業の手が止まったことを、私は見逃さなかったのだ。
「あの後からさ、自分の中で、色々と整理したくなったんだ。記憶っていうのは、頭の中だけでぐるぐると考えていると、どんどん形が歪んで、余計に重たくなっていくものだからね。一度こうして、他人の前で、具体的な『声』にして外に出すことで、ようやく自分の心がどこにあるのかが、少しずつ整理できることがあるんだよ」
「そういうものですか」
「そう。……まあ、アユムさんが、聞き上手だからっていうのもあるかもしれないけどね」
七尾さんは、照れくさそうに頭を掻きながら、さらりとそう言った。
彼がそのような純粋な賛辞を、私に向かって直接口にするのは本当に珍しいことだった。褒められているのか、それともただの照れ隠しなのかは分からなかったけれど、それでも私は、胸の奥がキュンと温かくなるような、確かな嬉しさを感じていた。
私は、窓の外を眺めた。
どこまでも広がる牧草地の向こう、果てしない地平線の近くに、白い絵の具を溶かしたようなちぎれ雲が、ぽつんと一つだけ浮かんでいた。それは、風が完全に止まっているせいか、何分経ってもその場所から一歩も動くことなく、朝の強い光を浴びて白く輝き続けていた。
「……伊吹さんが、最後に作ろうとしていたそのギターは、どうなったんですか」
私が、最後の疑問を口にすると、七尾さんはしばらくの間、沈黙した。
彼は、手元のコーヒーカップを再び両手で包み込み、その温もりを確かめるように、じっと指先を見つめていた。
「設計図はさ」
七尾さんが、極めて静かに、しかし確かな意志を宿した声で言った。
「……まだ、残ってるよ」
それだけを言い残すと、彼は再び口を閉ざし、コーヒーを静かにすすった。それ以上、その設計図が今どこにあり、どのような状態なのかを、彼が語ることはなかった。
設計図は、まだこの世界に残されている。
七尾さんの口から発せられたその一言の持つ、途方もない重さを、今の私にはまだ、正確に受け止めることはできなかった。
伊吹敦という天才が命をかけて描き、保持したまま未完成のままこの世に遺していった設計図。それがまだ残っているという事実が、この中標津の静かな工房において、一体何を意味するのか。七尾さんにとって、それがどのような存在であるのか。私には、まだ分からないことの方が圧倒的に多かった。
けれど、昨夜から今朝にかけて、七尾さんの長野時代の思い出話を聞いたことで、この『七尾工房』という風変わりな空間の、本当の「輪郭」が、ほんの少しだけ霧の向こうから見えてきたような気がしたのだ。
七尾さんが、なぜこの中標津という、本州から遥か遠く離れた最果ての地に一人で引きこもり、開店休業のような看板を掲げて生きているのか。
なぜ毎日、あの派手なベースを、まるで大切な約束を果たすように弾き続けているのか。
なぜ、一見すると何の意味もないような、細かな寄木細工のボールペンや家具の修理を、これほどまでに愛おしそうに行っているのか。
それらのすべての行動の源流が、たった一つの、深く、青い場所へと繋がっている。
そして、その場所には、『伊吹敦』という、十年前になくなってしまった一人の天才の名前が、厳然と刻まれているのだ。
「……ありがとうございます、七尾さん。話してくれて」
私が、心を込めてそう告げると、七尾さんは照れくさそうに「うん」とだけ短く応じた。
膝の上のカンナが、大きく一つあくびをして、それからさらに体を小さく折りたたむようにして、七尾さんの温かいジーンズの上で再び深く眠りについた。窓の外からは、相変わらず、初夏の訪れを喜ぶ野生の鳥たちの賑やかな声が、どこまでも響き渡っていた。
リビングの古いソファの、その座面の真ん中に残された、薄くて、少し色褪せたような跡。
それが、一体誰の体重によって、どれほどの時間をかけて作られたものなのか。その決定的な答えを、私はまだ、彼に直接尋ねることはしなかった。
けれど今日からは、私がその薄い跡を見つめるたびに、まだ見ぬその『伊吹敦』という親友の、穏やかで情熱的な面影が、このリビングの温かい空気の中に、優しく浮かび上がってくるのだろう。その予感だけが、私の胸の中で、静かに、そして確かに息づいていた。




