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七尾工房、開店休業中  作者: 七尾 拓哉


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14/20

第14話 上杉香織という人

七月に入ると、この中標津の街にも、少しずつ観光客の姿が目立つようになってくる。


 といっても、東京の浅草や京都の嵐山のような、人をかき分けないと進めないような大混雑とはまったく無縁だ。ただ、いつもは地元の軽トラや酪農関係の大型ダンプばかりが走っているまっすぐな一本道に、見慣れない「札幌」や「旭川」、あるいは本州各地のナンバーをつけた車が増える、という程度のことだった。


 時折、道東の地平線へと続く大迫力の牧草地の前でハザードランプを点滅させて車を停め、窓からスマートフォンや立派なカメラを突き出して、嬉しそうに写真を撮っている家族連れやカップルの姿を見かける。地元の人間にとっては毎日見飽きるほど眺めている当たり前の緑の草原が、彼らにとっては奇跡のような非日常の絶景なのだ。その少し浮き足立った旅人たちの様子を眺めているだけで、ああ、今年も道東に短い夏がやってきたのだな、ということを実感させられる。


 上杉香織さんが、七尾工房を訪ねてきたのは、そんな七月の、強い日差しが照りつける昼下がりのことだった。


 その日の私は、午前中から一階の作業室にこもり、ひたすらかんなをかける練習に没頭していた。


 作業台の上にしっかりと固定された、杉の端材。それを、一定の力と一定の角度を保ったまま、手前に向かってまっすぐに引ききる。言葉で言えばそれだけのことなのだが、これが驚くほどに難しい。ほんの少しでも肩に余計な力が入ったり、刃の角度がコンマ数ミリずれたりするだけで、刃は木肌に食い込んで止まってしまうか、あるいは逆に表面を滑って何も削れなくなってしまうのだ。


 薄く、均一な厚みを持った、まるで半透明の薄紙のような美しい鉋屑かんなくずを、途中でちぎることなく一枚の長い帯として引き出せるようになるまで、七尾さんは私に何も教えてはくれなかった。


 「とりあえず、この杉の板がペラペラになるまで、ひたすら削ってみて?時々うまくいくことがあるはずだから」


 春に弟子入りしたばかりの私に、七尾さんは最初にそれだけを言い残すと、あとは自分の作業台に向かってせっせとベースの修理やギターのネック調整を始め、私の手元をほとんど見ようともしなかった。手直しも、アドバイスも、叱責すらもない。


 最初は、その放任主義すぎる教え方に、突き放されたような強い不安を覚えたものだった。もっと論理的に、技術のコツを言葉で教えてくれればいいのに、と元コピーライターの私は心の中で不満を募らせていた。けれど、何十枚、何百枚と木を削り、手のひらにいくつもの新しい豆を作りながら作業を続けていくうちに、ようやく理解できるようになった。


 七尾さんは、冷たく突き放しているわけではないのだ。手取り足取り教えるよりも、私の手のひらの感覚が、木という素材の抵抗や刃の鋭さを「自分自身の身体感覚」として掴み取るのを、じっと黙って待ってくれているのだ。その職人ならではの、言葉を使わない無言の信頼に気づいてからは、鉋がけの作業が少しずつ、しかし確実に面白くなっていった。


 シュッ、と、乾いた、心地よい音を立てて、杉の甘い香りをまとった鉋屑が滑り出てくる。


 その時、静かな工房に、玄関のチャイムの音がピンポーン、と響き渡った。


 私は、鉋を持つ手を止め、一度息を吐き出して立ち上がろうとした。しかし、隣の作業台にいた七尾さんが、私よりもずっと素早い動きで「あ、俺が出るからいいよ」と言い、エプロンに手を突っ込んだまま玄関へと向かっていった。


 引き戸が開く音がして、玄関先で誰かと七尾さんが言葉を交わす気配が伝わってきた。いつもより少し、七尾さんの声が弾んでいるような、それでいてどこか緊張しているような、不思議な響きだった。


 しばらくして、作業室の引き戸が静かに開き、七尾さんが顔を覗かせた。


 「アユムさん、ちょっといいかな。リビング来て」


 私は、手に付着した木屑をパンパンと払い落とし、七尾さんの後を追うようにしてリビングへと向かった。


 リビングの扉を開けると、そこには見知らぬ一人の女性が、木製のダイニングテーブルの傍らにぽつんと佇んでいた。


 年齢は、三十代の後半くらいだろうか。


 仕立ての良さそうな黒いリネンのシャツに、すっきりとした明るいベージュのイージーパンツを合わせている。肩まである黒髪を後ろでラフに、しかし上品にまとめていた。


 一目見て、彼女の周囲だけ、この中標津ののんびりとした空気とは異なる、洗練された都会の風が流れているような感覚を覚えた。


 彼女の足元には、長旅を物語るような使い込まれたキャンバス生地の大きなトートバッグが、静かに置かれていた。それなりに荷物は多そうで、そのトートバッグの膨らみからも、何か大切なものをたくさん詰めてここまでやってきたのだということが窺えた。


 「あ、お仕事中すみません」


 彼女は、私が入ってきたことに気づくと、とても丁寧な、しかしどこか親しみやすい所作で頭を下げた。


 「いえ、とんでもありません。弟子の橋本歩と申します。どうぞおかけください」


 「上杉香織です」


 彼女は、細い目を和らげていたずらっぽく微笑んだ。


 「七尾くんのこと、いつもお世話になっています。昔からこの調子でしょ? 本当に、いろいろ大変じゃないですか?」


 「七尾くん」


 彼女の口から滑り出てきたその親密な呼び方が、私の耳にとても新鮮に、そして驚きを持って残った。この工房にやってきて以来、七尾さんを「くん」付けで呼ぶ人は珍しい。その呼び方一つで、二人がかつてどれほど近い距離にいたのかが、言葉にせずとも伝わってくるようだった。


 ・・・上杉香織?その名前に、私はハッとした。


 先日、七尾さんが話してくれた、あの長野時代の記憶。二十九歳という若さで、ひき逃げ事故によってこの世を去ってしまった、七尾さんの唯一無二の親友であり天才設計者、伊吹敦さん。香織さんは、その伊吹さんの婚約者だった人だ。


 「おいおい、香織さん。初対面の弟子に変な吹き込みしないでよ。俺はこれでも、威厳ある師匠のつもりなんだから」


 台所から、七尾さんが抗議するような声を上げた。しかしその表情はまったく怒っておらず、むしろ照れくさそうな、懐かしい再会を喜ぶ少年のそれだった。


 「威厳ねえ。どの口が言ってるの?」


 香織さんは声を立てて上品に笑った。二人のやり取りには、十年の空白を一瞬で飛び越えてしまうような、長野時代から続く気心の知れた温かい空気感が満ちていた。


 七尾さんは黙々と台所で冷たいアイスコーヒーの準備をしていた。カチャカチャとグラスに氷を入れる音が、どこか落ち着かない様子でリビングに響いている。


 「東京から、いらしたんですか?」


 私は、香織さんの向かい側の椅子を勧めながら尋ねた。


 「ええ。東京から、中標津空港行きの直行便に乗ってきたんです。空港でレンタカーを借りて、まっすぐこちらに。思ったより近くてびっくりしました。前回は釧路から車を走らせたので、本当に遠い印象だったんですけど」


 「中標津は、初めてではないんですね」


 「ええ、二度目なんです」


 香織さんは、黒いリネンの袖を少しだけ捲り上げながら、懐かしそうにリビングを見回した。


 「七尾くんが長野の会社を辞めて、中標津に移り住んだ、まさにその最初の年の秋に、一度だけ様子を見にきたことがあるの。あの時は、まだ家具も全然なくて、薪ストーブはあるのに薪はなくて、寒さに震えながらソファで寝ていたんですよ?それ以来の訪問だから……もう、十年近く経つことになりますね」


 台所から、七尾さんがアイスコーヒーの入った三つのグラスをお盆に乗せて戻ってきた。


 カラン、と氷が涼しげな音を立てる。七尾さんはそれを、言葉少なに香織さんの前と、私の前、そして自分の席の前に置き、自らは香織さんの正面へと腰を下ろした。私は、自然と七尾さんの隣の席へと腰掛けた。


 七尾さんはグラスを片手で持ち、無言で冷たいアイスコーヒーを喉へと流し込んだ。彼の視線は、香織さんの顔をまっすぐ見ることを避けるように、テーブルの美しいナラの木目の一点へと固定されていた。


 「……ねえ、七尾くん」


 香織さんは、冷たいグラスの表面に付き始めた水滴を、細い指先でそっとなぞりながら、静かに本題を切り出した。


 「今日はね、いろいろと、七尾くんに見てもらいたいものがあって、ここまで持ってきたの」


 そう言うと、香織さんは足元の大きなトートバッグから、何冊かの薄いファイルを取り出して、テーブルの上にそっと置いた。それは、長年の歳月を感じさせる、少し古びたプラスチックのファイルだった。


 「どうぞ」と、七尾さんはボソリと言って、手元のアイスコーヒーを一口飲んだ。それが、彼なりの「見せてほしい」という了承の代わりだということが、香織さんにはよく分かっているようだった。


 「敦さんの遺品、ずっと東京の実家の、二階の古い物置に預けたままになっていたでしょう。実はね、その実家が今年、老朽化のために全面建て替えをすることになったの。それで、家の中の荷物をすべて処分しなきゃいけなくなって……。敦さんが亡くなってから、もう十年以上の歳月が流れたし、私もそろそろ、自分の中で色々なことに区切りをつけなきゃいけないって、そう思ったの。だから、たくさんの古い書類や遺品は、思い切って整理して処分することにしたんだけど。でも、これだけは」


 香織さんは、テーブルの上のファイルを愛おしそうに見つめた。


 「これだけは、どうしても私の手で捨てることも、誰か他の人に引き渡すこともできなかった。これを託せる相手は、七尾くん。あなた以外には、どうしても思いつかなかったのよ」


 七尾さんは、やはり何も言わなかった。ただ、グラスを持つ手の指先が、白くなるほど強く握りしめられているのが見えた。


 「……中、確認してもらえる?」


 香織さんは、優しく促すように言った。


 七尾さんは、テーブルの上に置かれた数冊の薄いファイルをおもむろに引き寄せ、めくった。


 中に入っていたのは、製図ペンによる極めて細い、しかしブレのない強固な線で描かれた、アコースティックギターの三次元的な内部構造図だった。特に、ボディの裏側に施される力木ブレーシングの配置パターンが、幾何学的でありながらどこか生き物の神経組織のように美しく、有機的な曲線を描いて並んでいる。


 余白という余白には、細かな数字や記号、そして「この削り出しはコンマ二ミリ厚くしてくれ」「この角度なら、音の伝達は倍になるはず?」といった、殴り書きのような力強い文字が、びっしりと書き込まれていた。


 七尾さんは、その図面を、じっと見つめていた。


 時間にして、わずか十秒か、そこらのことだったと思う。


 けれど、その十秒間は、まるで周囲の時間の流れが完全に停止してしまったかのように、途方もなく長く、重たく感じられた。七尾さんの瞳の奥で、十年前の長野の作業場の光景や、親友と共に過ごした熱い時間が、走馬灯のように駆け巡っているのではないか。そんな想像をしてしまうほど、彼の横顔は張り詰め、そして酷く哀しげだった。


 やがて、七尾さんは静かにファイルを閉じた。


 「……まだ、無理だなぁ」


 七尾さんの口から漏れたのは、それだけだった。


 驚くほどに平坦で、しかし、彼の魂の深い場所から絞り出されたような、重たい言葉だった。その声には、自分自身の弱さを認めるような、やるせない響きが含まれていた。


 香織さんは、その言葉を聞いても、ショックを受けた様子も、七尾さんを非難するような色も見せなかった。ただ、悲しいくらいに穏やかな、すべてを包み込むような優しい声で「そうですか」とだけ言った。


 「預かってもらえると、嬉しいな」


 香織さんは、ファイルをテーブルの端へと少しだけ寄せた。


 「……俺も、手元に置いておけると嬉しいな」


 七尾さんは、小さく、しかしはっきりとした声で応じた。


 「ありがとう」


 香織さんは、心から安堵したように微笑んだ。


 三人でしばらく、冷たいアイスコーヒーを無言で飲んだ。外で何かの農機具が通り過ぎる大きな音が響き、それが遠ざかると、また深い静寂がリビングに戻ってきた。


 その時、リビングの扉の隙間から、茶トラのカンナが足音もなくすっと姿を現した。


 カンナは、いつもなら私の足元や七尾さんのソファに直行するはずなのに、今日は見慣れない都会の女性に興味を持ったのか、香織さんの足元へとゆっくり近づいていった。接着剤の匂いでもするのか、香織さんのベージュのパンツの裾や、置かれた大きなトートバッグの匂いをフンフンと念入りに嗅ぎ始めた。


 「あら」


 香織さんは、目元を丸くして嬉しそうに声をあげた。


 「猫ちゃんいるの?七尾くん、猫アレルギーだったよね?大丈夫なの?」


 「相変わらず、たぶん猫アレルギーなんだろうけど、この猫は大丈夫なんだよね。飼ってる気はないんだけど、居ついちゃって」


 初めて知った。猫アレルギーなのに、猫を飼って大丈夫なのだろうか?


 「カンナっていう名前なんです」


 私が、隣から助け船を出すように教えた。


 「カンナちゃん。ふふ、かわいいお名前ね」


 香織さんは、手を伸ばしてカンナの顎の下を優しく撫でてやった。カンナは気持ち良さそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らした後、満足したように今度は一階の作業室の方へと、尻尾をピンと立てて優雅に去っていった。


 カンナ、というその愛らしい名前の由来について、私はこれまで七尾さんから直接説明されたことは一度もなかった。木を削る道具の「かんな」から来ているのだろうと、自分の中で勝手に納得していたのだが、本当のところはどうなのだろう。香織さんの「かわいいお名前」という言葉に、七尾さんが特に何も言わず沈黙を貫いたのを見て、やはりその名前にも、何か言葉にできない特別な想いが込められているのかもしれないと、私は密かに思った。


 「七尾くん、なんか少し痩せた?」


 香織さんは、撫でていた手を引っ込め、改めて正面の七尾さんの顔をじっと観察するように見つめた。


 「どうだろう? 十年前は何キロだったかなぁ?」


 七尾さんは、わざとトボけたように首を傾げてみせた。


 「嘘だ。昔はもっと、なんというか、全体的に締まりのない顔つきだったじゃない。お酒ばっかり飲んで」


 「ひどい言われようだなあ。これでも中標津に来て、毎日規則正しく健康的な生活を送ってるの。美味しいもの食べて、引き締まったって言ってほしいんだけど」


 「美味しいものは食べてるのね。優秀なお弟子さんのお陰かしら?」


 香織さんは、クスクスと肩を揺らしながら、私の方へと視線を移した。


 「橋本さんがここに来てくれてから、七尾くんの生活、少しは整いましたか?」


 七尾さんは、不意に私の方へと、ちらりと視線を向けた。その目は、「おい、余計なことを言うなよ」とでも言いたげな、子供のような焦りを含んでいた。


 私は、彼の視線をあえて無視するようにして、香織さんに向かって微笑んだ。


 「ええ、私が毎日簡単な朝食を作るようにしています。それに、お金の管理や書類仕事も私がやるようになってからは、工房の経営もなんとか軌道に乗り始めています」


 「よかったね」


 香織さんは、本当に嬉しそうに、安堵の息を吐き出した。


 香織さんは、どこか疲れているような表情をしているのだろうか。いや、それは肉体的な疲労というよりも、十数年という気が遠くなるほど長い時間をかけて、自らの中の「大切な過去」に折り合いをつけ、整理し、手放すことを決めてきた人間だけが持つ、独特の「決意の後の静けさ」のようなものだった。


 「……敦さんのこと、橋本さんは、七尾くんから何か聞いていますか?」


 香織さんが、私に向かって優しく問いかけてきた。


 「はい、少しだけ」


 私は、七尾さんの横顔を窺いながら、修辞的な言葉を選んだ。


 「先日、長野時代の思い出や、伊吹敦さんという素晴らしいお友達の存在について、少しだけお聞きしました」


 「そう、少しだけ、ね」


 香織さんは、かすかに笑った。


 「七尾くんが、自分の過去や敦さんのことについて、他人に直接話すことができた。その事実だけで、私は本当に、今日ここまで来た甲斐があったと思うわ。あなたがいてくれて、よかったと思います。本当に……」


 香織さんは、七尾さんの手元に置かれたアイスコーヒーのグラスを見つめた。


 「七尾くんのペースで大丈夫だからね。そのファイル、無理に触らなくても、見なくても、極端な話、あなたがもう必要ないと思って全部捨ててしまっても、私は一言も文句は言わない。それをどうするかを決める権利は、すべて、敦さんから託された七尾くんにあるんだから。私の方は、これでようやく、敦さんの遺品に一つの区切りをつけることができたから」


 「……捨てはしないよ」


 七尾さんは、そう言った。


 極めて小さな、しかし、絶対にブレることのない、強固な意志を宿した響きを持った声だった。


 香織さんは、その言葉を聞くと、驚いたように一瞬だけ目を見開いた。


 しかし、すぐにその表情は、この日一番の、本当に温かくて優しい微笑みへと変わっていった。


 「うん。そう思ってる」


 夕方近く、香織さんは帰り支度を終えた。


 託されたファイルは、七尾さんが大事そうに両手で抱え、ゆっくりとした足取りで二階へと運んでいった。私は、彼がそのファイルをどの位置に、どのような気持ちで置いたのかについては、あえて尋ねることはしなかった。おそらく、物置の奥の、誰にも邪魔されない静かな場所に、そっと仕舞い込んだのだろう。


 玄関の外まで、私たちは二人で香織さんを見送った。


 香織さんは、レンタカーの運転席に乗り込み、窓を開けて私たちに向かって手を振った。


 「橋本さん、七尾くんをよろしくお願いしますね。また、いつか遊びに来ます」


 「ええ、お気をつけて。」


 白いレンタカーは、中標津の静かな夕暮れの道路を、まっすぐに向こうへと去っていった。私たちは、その赤いテールランプが牧草地の彼方に吸い込まれて消えるまで、冷たい風に吹かれながら見送っていた。


 工房に戻り、リビングへと入ると、そこにはいつもの静けさが戻っていた。


 私はリビングに一人残って、先ほどまで香織さんが座っていた木製の椅子を見つめた。


 テーブルの上には、冷たいアイスコーヒーの入っていたグラスがそのまま残されていた。グラスの表面から流れ落ちた結露の水滴が、テーブルのナラの無垢材の上に、まあるい綺麗な水の跡を作っていた。


 伊吹敦という、二十九歳という若さで命を絶たれ、未完成の革新的なアコースティックギターの設計図を遺していった天才。


 その設計図が今、十年の歳月を経て、東京からこの中標津の工房へと、確かに運ばれてきたのだ。


 七尾さんは、その図面を見て「まだ無理」と言った。


 まだ、無理。


 私は、元コピーライターとして、その言葉の持つ意味を、胸の中で何度も静かに反芻していた。


 「まだ無理」ということは、逆を言えば、「いつかは」その図面を開き、自らの手で完成させる決意をする時がやってくる、ということに他ならない。


 今はまだ、その傷口が完全に癒えておらず、受け入れる準備ができていないだけなのだ。


 私はその大切な気づきを、七尾さんにも、誰にも言葉にして伝えることはしなかった。ただ、テーブルの上に残された丸い水の跡を、乾いたふきんでそっと拭き取りながら、いつかその「いつか」がやってくるその日まで、この工房で、このちゃらんぽらんな師匠の隣で、静かに木を削り続けようと、心の中で強く、静かに決意していた。

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