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七尾工房、開店休業中  作者: 七尾 拓哉


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15/20

第15話 初めての作品

そのボールペンを作ることになったのは、何か明確な動機があったからというわけではなかった。




 七月の中旬を過ぎると、中標津の陽射しはいよいよ力強さを増す。本州のようなまとわりつく湿気はないものの、からりと乾いた大気が太陽の熱をそのまま通すため、肌を焼くような強烈な光が降り注ぐ。それでも、ひとたび風が吹けば、根釧台地を渡ってきた冷涼な空気が汗をまたたく間にさらっていくのだった。  工房の周囲に広がる広大な牧草地からは、刈り取られたばかりの青草が夏の強い光に干される、甘く濃厚な匂いが、風に乗って作業室まで絶え間なく流れ込んでくる。窓を大きく開け放つと、遠くでトラクターが低く唸る音が、まるで地鳴りのように響いていた。




 そんなある日の午後、私は作業室の片隅にある端材置き場の整理をしていた。  そこには、七尾さんが家具の修理やアコースティックギター、ウクレレなどの製作を行った際に出た、様々な樹種の切れ端が乱雑に積み上げられている。重厚なナラ、どこか哀愁を帯びた色合いのウォールナット、狂いの少ないセン。その中に、長さが十数cm、厚さが二cm四方ほどの、中途半端な角材がいくつか転がっているのが目に留まった。  手に取ると、驚くほど滑らかで、それでいて確かな重みがある。淡いピンク色を帯びた、緻密で美しい木目。チェリー(サクラ)の端材だった。  小さすぎて、椅子や棚のパーツとしては到底使い道がない。けれど、そのまま薪ストーブの燃料として燃やして、冬の灰にしてしまうにはあまりにも惜しいほど、その木肌は生命力に満ちた輝きを放っていた。




 「あの、七尾さん。このチェリーの端材、何かに使ってもいいですか」




 作業台で古いアコースティックギターのブリッジを慎重に剥がしていた七尾さんは、こちらに顔を向けることもせず、ノミを動かす手を止めないまま、ぶっきらぼうに応じた。




 「んー? ああ、そこにあるやつね。好きにしていいよ。」




 「ありがとうございます。じゃあ、ちょっと試してみたいことがあって」




 七尾さんが時折作っているのは、何種類もの異なるエキゾチックウッドを精密に組み合わせた、芸術的な「寄木細工」のボールペンだ。それは本当に見事で、木と木が織りなす幾何学模様が、熟練の技術によって一本の細い軸に凝縮されている。工芸品としての極みがそこにはあった。  けれど、私が作ってみたいと思ったのは、それとは対照的な、一本の無垢材からただ丸ごと削り出すだけの、極めてシンプルなボールペンだった。




 七尾さんも無垢材シリーズとして何種類か製作しているが、「パッと見て『七尾工房製だ』とわかるもの以外はあまり作りたくない」というポリシーがあるらしく、表立ってはあまり製作していない。


 チェリーという一本の木が持っている、ありのままの美しい木目と、時間とともに変化していく色合いを、ダイレクトに軸に表現したかった。  チェリー材は、使い込むほどに劇的な変化を見せる「育つ木」として知られている。削りたての時期は淡いピンク色を帯びた優しい表情をしているが、使い手の皮膚の脂を吸い、太陽の光を浴びることで、徐々にその赤みを増していく。そして数年が経つ頃には、まるで上質なヴィンテージ家具のような、深く、艶やかな飴色へと変化していくのだ。その「時間と共に育っていく楽器」のような性質が、今の私にはとても魅力的に思えた。




 ちょうどその日は木曜日で、週に一度のあーちゃんの出勤日だった。  ヘッドフォンを首にかけ、目元まで伸びた前髪の隙間から静かに作業台を見つめていたあーちゃんが、私の手元にあるチェリーの角材に気づいたようだった。彼女はいつの間にか、愛用のA5スケッチブックと鉛筆を抱えて、私の斜め後ろに立っていた。  言葉は交わさない。けれど、彼女がスケッチブックを開き、そこにチェリーの四角い断面と、これから削り出されるであろうボールペンのラフな曲線を細い線画で描き始めるのを見て、私は少しだけ誇らしいような、同時に身の引き締まるような気持ちになった。あーちゃんの鋭い観察眼は、私がこれから挑もうとする「形」を、すでに紙の上で見抜こうとしている。




 私は、木工旋盤の前に立った。  端材を適切な長さにカットし、中心に真鍮のパイプを通すための穴をドリルプレスのレバーを慎重に下げながら開けていく。焦って熱を持たせないよう、時折刃を引き抜きながらの作業だ。穴が貫通すると、エポキシ樹脂を真鍮管の表面に均一に塗り、木孔へと押し込んで接着する。それが完全に硬化するのを待つ間、私は何度も、自分の手のひらを開いたり閉じたりして感覚を確かめていた。  樹脂が固まった後、余分な木をカットし、両端をトリミングする。それを旋盤のチャックに固定し、スピンドルのロックを確認してから、スイッチを入れた。




 モーターが静かに回転を始め、チェリーの四角いブランクが目の前で高速で回転し、一本のぼやけた円柱の影を作る。  私は、研ぎ澄まされたラフィングガウジ(荒削り用の丸チゼル)を手に取り、慎重にツールレストへと押し当てた。刃先をゆっくりと、回転する木肌へと近づけていく。  キィィィン、という、鋭くも心地よい金属と木が擦れ合う音が響き、削り出された薄い木屑が、まるで雪のように私の手元やエプロンの上に勢いよく飛び散った。チェリー特有の、サクラの葉を少し焦がしたような、ほんのりと甘くて香ばしい匂いが一気に立ち上り、作業室の空気を満たしていく。




 けれど、最初の挑戦は、無残な失敗に終わった。  軸の太さを均一にすることばかりに気を取られ、削りすぎて真鍮のパイプが露出してしまったのだ。回転を止めると、そこには痛々しく金属が剥き出しになった木屑の塊が残されていた。  二本目の挑戦では、全体のバランスを意識するあまり、今度は手元が狂ってキャップとボディの接合部分に、指先で触るとはっきりと分かるほどの無骨な段差ができてしまった。




 「焦らなくていいよ」




 隣の作業台から、七尾さんの静かな声が聞こえてきた。彼は相変わらずブリッジの接着作業に集中しており、こちらを振り返りもしなかったが、音だけで私の失敗と、焦っている心理状態を完璧に見抜いていた。




 「旋盤はね、木と刃物が対話する時間だから。自分の手の力を木に押し付けるんじゃなくて、木に刃物を優しく沿わせてあげるだけでいい。急いでパワープレイでいこうとするとダメなんよ。刃が木に噛み合う場所を、指先で感じてみて」




 私は一度深く呼吸をし、肩の力を抜いた。  あーちゃんは少し離れた場所から、息を詰めるようにして私の作業を見守っている。彼女のスケッチブックには、失敗した二本のボールペンのスケッチが、冷徹なほど正確に記録されていた。  私は、三本目のチェリー材を旋盤にセットした。  今度は、刃物を持つ両手に余計な力を一切入れず、ただ木が回転する遠心力に刃先をそっと委ねるようなイメージで、ゆっくりとスライドさせていく。  シュルシュルと、美しくカールした薄い木屑がリボンのように途切れず吐き出されていく。木肌は見る見るうちに滑らかな曲線を描く円柱へと姿を変え、最後は目の細かいサンディングペーパーを番手を変えながら慎重に当て、表面を極限まで平滑に整えた。仕上げに、天然のカルナバワックスを少量すり込み、高速回転する摩擦熱で木肌に定着させる。




 旋盤のスイッチを切り、回転が完全に止まったとき、そこには息を呑むほど美しい一本のボールペンが佇んでいた。  軸の径は完璧に均一で、キャップをはめたときにも継ぎ目がどこにあるのか分からないほど精緻に噛み合っている。そして何より、チェリーの淡いピンク色の木目が、軸のちょうど中心をまっすぐに、美しい波を描きながら一本の線となって通っていた。  キャップを指先で引き抜くと、シュポッ、という、気圧が抜けるような心地よい手応えと音が返ってくる。




 私は、その出来上がったばかりのボールペンを両手で大切に持ち、七尾さんのもとへと歩み寄った。




 「七尾さん。できました。これ、どうでしょうか」




 七尾さんは、作業台から手を離し、私の差し出したボールペンを受け取った。  彼はそれを光に透かして木目の通り具合を確かめ、何度もキャップを外したりはめたりを繰り返し、最後に自分の手のひらの中でその重量バランスを確かめるように転がした。




 「……いいんじゃない?」




 七尾さんは、ふっと目元を和らげてそう言った。  この工房で過ごしてきた私には、七尾さんの口から出る「いいんじゃない?」という言葉が、お世辞や社交辞令を一切言わない彼の語彙の中で、最大級の褒め言葉に分類されるものであることを、すでによく理解していた。あーちゃんが隣で、小さく、本当に小さくパチパチと拍手をしてくれた。彼女のスケッチブックの隅には、完成したボールペンの美しいシルエットと、星のような小さなマークが書き加えられていた。




 「あの、このボールペンの写真、何枚か撮ってもいいですか」




 「ん? 何のためにですか」  




 「七尾工房の公式Instagramに投稿しようかと思って。最近、私の書く記事を見てくださるフォロワーの方も少しずつ増えてきましたし、たまには弟子の進捗を報告するのも、アットホームで良いかなと」




 「ああ、どうぞ。好きに撮ってください。俺はそういうの、まったく分からないから」




 七尾さんは、アメリカンスピリットに火をつけながら、興味なさそうに手をひらひらと振った。




 私は作業室の窓際、午後からの柔らかな自然光が差し込む場所に移動した。  作業台の上に白い画用紙を敷き、その上に出来上がったばかりのボールペンを置く。さらに、そのすぐ隣に、削り出される前のチェリーの荒々しい端材を並べた。これによって、無骨な木の塊が、人間の手によって実用的な美しい筆記具へと生まれ変わるプロセスのドラマ性を、一枚の絵の中に表現したかった。  スマートフォンのカメラを構え、光の差し込む角度を微調整し、影の伸び方を確かめながら、角度を変えて十数枚の写真を撮影した。その中から、チェリー特有の温かい木肌の凹凸と、サクラの持つ繊細なピンク色のグラデーションがもっとも美しく写っている一枚を選び出し、不要なノイズを消すために明度をほんの少しだけ上げた。




 次に、キャプションを考えた。  七尾工房のInstagramアカウントの運営を、七尾さんから「アユムさん、これ任せるわ」と丸投げされてから、すでに何ヶ月かが経過していた。  最初のうちは、七尾さんのあの飄々とした、どこか脱力感のある無口な口調を真似て書いていた。けれど、続けていくうちに、自分の言葉ではない借り物の文章を書くことに、元コピーライターとしてのプロ意識が小さく反発を覚えるようになった。  そこで私は、文体を変えた。  誰か特定の個人の一人称で語るのではなく、この中標津の豊かな自然の中にひっそりと佇む『七尾工房』という「場所そのもの」の視点から、静かに日々の出来事を見つめ、語りかけるような、客観的でありながら温かみのあるトーン。それは、言葉の専門家として私が試行錯誤の末に行き着いた、この工房の価値を最大化するためのデザインだった。  けれど、今日の投稿だけは、そのルールから少しだけ外れて、自分の足跡をそこに残してみたいという静かな欲求に駆られた。  私は、丁寧に推敲した工房の紹介文の最後に、改行を挟んで、ぽつんと一行だけ、自らの署名を添えた。




 《チェリーの端材から、ボールペンを一本。弟子・橋本歩 作。》




 隣で作業をしている七尾さんに「この最後の一行、入れても大丈夫ですかね」とスマートフォンを見せると、彼は画面をちらりと一瞥しただけで、「いいですよ。本当のことなんだから」と、煙草をくわえたまま気にする風もなく応じた。  私は、投稿ボタンを静かにタップした。画面の中で進捗バーが走り、投稿が完了したことを告げる。スマートフォンを作業台に置き、私は再び自分の持ち場へと戻り、残った木屑の片付けを始めた。




 異変に気づいたのは、翌朝、いつものように朝食のトーストを焼きながら、何気なくスマートフォンを手に取った瞬間のことだった。  液晶画面が、見たこともないほどの数の通知で埋め尽くされていた。アプリを開くと、ハートマークの「いいね」の通知が絶え間なく下から上へとスクロールされ、その数はすでに七十件を超えていた。




 「え……何、これ」




 私は、自分の目を疑った。  詳しく分析データを確かめてみると、今回の投稿の「保存数」は、普段の投稿の平均値の五倍以上に達していた。そして何より、コメント欄には「このボールペンはどこで購入できますか」「木の温もりが本当に素敵です。お値段を知りたいです」といった熱心な書き込みが、すでに十二件も寄せられていた。さらに、ダイレクトメッセージ(DM)のトレイを開くと、そこには「贈り物用に購入したいのですが、オーダーは可能でしょうか」といった、具体的な購入希望のメッセージが六件も届いていたのだ。  私はしばらくの間、トースターがチンと鳴る音も耳に入らないほど、画面に映し出された見知らぬ人々の熱量に、ただただ圧倒されて立ち尽くしていた。




 「……七尾さん」




 私は、コーヒーを持ってリビングのテーブルに腰掛けた七尾さんの隣へ、震える手でスマートフォンを差し出した。




 「血相変えて、どしたの?」  




 「昨日の、私が作ったボールペンの投稿なんですけど……。ものすごい反響が来ていて、問い合わせのメッセージが止まらないんです」




 七尾さんは、私の言葉に少しだけ眉を動かし、コーヒーをすする手を止めて画面を覗き込んだ。そこに並ぶ数字と、熱心なコメントの数々をじっと見つめているうちに、彼の細い目がさらに少しだけ細められた。




 「……売ればいいじゃん」




 七尾さんは、カップをテーブルに置きながら、極めて平然と言った。




 「え? 売る……んですか? 私が作った、あのボールペンを?」




 「そうだよ。作ったのは、アユムさんなんだから。アユムさんが自分で価格を決めて、欲しいと言ってくれる人に届ければいい。それだけのシンプルな話でしょう」




 私は、スマートフォンの画面をもう一度見つめた。「どこで買えますか」という、見知らぬ誰かが打ち込んでくれた文字。  その言葉を見つめているうちに、私の胸の奥に、得体の知れない冷たい「怖さ」が、じわじわと広がっていくのを感じた。




 東京の広告代理店でコピーライターをしていた頃、私は毎日、何かを「売る」ための言葉を考えていた。大企業の自動車、大手の飲料メーカーの新商品、流行りのアパレルブランド。それらの価値を最大限に高め、魅力的なコピーを紡ぎ、どうすれば世間の人々に届くのか、その戦略を練るのが私の仕事だった。  けれど、あの頃の私が売っていたのは、すべて「他人が作ったもの」だったのだ。  私がどれほど徹夜をしてコピーを考えても、商品そのものを作ったのは、私の知らない遠い工場の誰かであり、企業の開発チームだった。だからこそ、私はどこか客観的な、安全な場所から言葉を操ることができていた。失敗しても、言葉の責任は負うが、存在そのものの責任までは背負わずに済んでいた。




 しかし、今はまったく違う。  目の前にあるボールペンは、私が自分の手で木を切り出し、私が旋盤の前に立ち、刃物を当てて削り出し、私の指先が木肌を磨き上げて作った、私自身の分身のような存在なのだ。  その、自分が生み出したものに対して、自らの手で具体的な「値段」という数字をつけること。そしてそれを、見知らぬ誰かの前に差し出して、「買うか、買わないか」という冷酷な審判に晒すこと。  自分が信じた価値が、他人にとっては一文の価値もないものとして拒絶されるかもしれない。あるいは、自分で決めた金額が、本当にその価値に見合っているのかどうか、誰も保証してはくれない。  その途方もない自己責任の重さが、私にはたまらなく恐ろしかった。




 「……怖いですね」




 私は、自分の声を絞り出すようにして、ぽつりと言った。




 「こわい?」




 七尾さんは、首を少し傾げた。




 「はい。自分で作ったものに、自分の意志で値段をつけることが。そしてそれを、他人に判断されるということが、こんなにも恐ろしいことだとは思いませんでした。自分が決めた値段が正しいのかどうか、今の私にはまったく基準が分からなくて、足元がすくむような気持ちなんです」




 七尾さんは、しばらくの間、何も言わずにコーヒーカップを見つめていた。  リビングには、外の牧草地の上を吹き抜ける風の音が、窓ガラスを揺らすかすかな音だけが響いていた。




 「大袈裟だなぁ~けど、……こわいのが、たぶん、正しいのかもね」




 七尾さんは、静かにそう言った。




 「え?」




 私は顔を上げ、彼の目を見た。




 「自分の作ったものを売ることに、これっぽっちも怖さを感じない人間はね、たいてい、ものづくりに対しても、お客さんに対しても、態度が適当なんだよね。自分の技術を過信しているか、あるいは相手のことを舐めているか、どちらかだと思う。自分が作ったものに対して、本当にこれが正しいのだろうかって、足元がすくむほど怖いと感じているなら、それはアユムさんが、そのボールペンに対して、そして買ってくれるかもしれない見知らぬ誰かに対して、それだけ誠実に、真剣に向き合っているっていう証拠なんじゃない?だから、怖いんだろうね」




 私は、七尾さんのその言葉を聞いて、胸の奥を締め付けていた冷たい結び目が、ふっと解けていくような不思議な感覚を覚えた。  怖いことが、正しい。  それは、一見すると奇妙で、矛盾した表現のようだった。けれど、言葉のプロとして生きてきた私にとって、これほどまでに説得力を持って腑に落ち、私の心を救ってくれた言葉は、他に思いつかなかった。




 「……いくらにすれば、いいでしょうか」




 私は、少しだけ前を向く気持ちになって尋ねた。




 「それを俺に聞かないで。作ったのはアユムさんなんだから、アユムさんが自分で決めることなんだよ」




 七尾さんは、意地悪そうにニヤリと笑った。




 「そこをなんとか、ヒントだけでも教えてください。いつも七尾さんが、自分の作るギターや家具の値段を決めるときの、基準のようなものがあれば」




 「基準ねえ……」




 七尾さんは、アメリカンスピリットの煙を天井に向けて吐き出しながら、少しだけ考え込んだ。




 「ものづくりの世界でよく言うのは『材料費×3』ってゆーいわゆる『どんぶり勘定』はあるけど、おすすめしないかな?材料費と、人件費、梱包費用。あとはまあ……最後の最後に乗せる『気持ち』、かな?」




 「気持ち、ですか?」




 「そう。気持ち」




 七尾さんは、当然のように頷いた。  事務処理の計算にはあれほど致命的に弱いくせに、職人としての値付けの瞬間になると、彼はいつもそこに、理屈では説明できない「気持ち」という曖昧なエッセンスを勘定に入れる。けれど、その「気持ち」こそが、この工房で作られる手仕事の温もりそのものであり、届いた人の心を打つ本質的な部分なのだということが、私には今ならハッキリと理解できた。




「あ、『売れる木工職人の教科書』っていう本をkindle出版してるから、一度読んでみてよ」 




「七尾さん、電子書籍なんて出版してるんですか!?」




「意外でしょ?師匠が執筆した本は読んでおいた方がいいよ」と笑って言った。




 私は心のどこかで、また七尾さんが適当なこと言っているのではないか?と疑心暗鬼になりながら、kindle内で「売れる木工職人」で検索すると「七尾書房」という著者名で、本当に「売れる木工作家の教科書 入門編」がヒットして、驚いた。




実際読んでみると、今まさに私が直面している問題について、細かくも生々しく書かれており、「なぜ著者であって、しかも師匠が目の前にいるのに、電子書籍を読んでいるのか?」という疑問がチラついたが、大変参考になった。




 私はその日の夕方まで、師匠が著者の電子書籍を見ながら、自分のデスクの前に座り、白紙のメモ帳に何度も数字を書いては消し、考え続けた。  チェリーの端材の仕入れ値、真鍮の内部パーツの原価、私が旋盤の前で格闘した時間。そして、私がそのチェリーの木目に対して注ぎ込んだ、あの「時間と共に育ってほしい」という祈りにも似た、職人としての初めの一歩の「気持ち」。  それらをすべて天秤にかけ、私は、一本「六千円」という価格を設定した。  決して安くはない。けれど、私が妥協せずに作ったあのボールペンの価値に対して、自分自身が胸を張って提示できる、もっとも誠実な数字がそれだった。




 私は、仕事の合間を縫って、なんとか納得のいくクオリティで仕上げることができた、残りのチェリーのボールペンを含めた合計「五本」の製品を用意した。  「橋本歩 作」という名義で、大手のハンドメイドマーケットプレイスに簡易ページを開設し、写真をアップロードして説明文を丁寧に書き込んだ。その説明文には、かつての広告代理店時代の私のような、着飾った、煽るような言葉は一つも使わなかった。ただただ、中標津の冷たい風と、チェリーという木が持つ温もりと、これから使い手の手の中で飴色に育っていく時間のことだけを、静かな事実として並べた。




 そして、夜の九時を過ぎた頃、七尾工房のInstagramのストーリー機能を使って、「チェリーの無垢材から削り出したボールペンを、五本限定で販売します」という短い告知をアップした。  投稿ボタンを押した瞬間、やはり指先がかすかに冷たくなるのを感じた。私はスマートフォンをリビングのテーブルの上に裏返して置くと、逃げるようにして二階の寝室へと上がり、布団を頭から被って目を閉じた。




 翌朝。  私は、おそるおそる一階へと降り、リビングのテーブルの上のスマートフォンを手に取った。  画面のロックを解除し、管理画面を開く。  そこには、私の想像を遥かに超えた、信じられない現実が待っていた。




 ――五本とも、すべて完売していた。




 システムからの自動送信メールのフォルダを開くと、「注文が確定しました」というタイトルのメールが、五通、整然と並んでいた。  私は、淹れたてのコーヒーを口に運ぶのも忘れ、その五通の注文確認メールを、一文字ずつ、何度も何度も繰り返し読んだ。  購入してくれた方々の住所は、本当にバラバラだった。  東京都世田谷区、大阪府吹田市、福岡県福岡市、そして北海道内からは、帯広市にお住まいの方。  当然のことながら、全員が私にとってまったく見知らぬ人たちだった。私の過去の経歴も、私がどんな顔をして中標津で暮らしているのかも、誰も知らない。  そんな見ず知らずの遠い街に住む人々が、私が中標津の静かな作業室で、木屑まみれになりながら一生懸命に削り出した、あの小さなチェリーのボールペンに、六千円という決して小さくないお金を支払ってくれた。




 それが、一体どれほどすごいことなのか。その意味の大きさを、今の私はまだ、正確に整然とした言葉にして表現することはできなかった。  けれど、かつて東京の大きなオフィスで、自分が何週間も不眠不休で考え抜いたキャッチコピーが採用され、全国紙の一面を飾ったときや、テレビのCMで流れたとき。あの時に感じた誇らしさや高揚感よりも、今、私の手の中にあるスマートフォンの画面に映し出された、五通の注文確定メールの文字を見つめている瞬間のほうが、何倍も、何十倍も大きく、そして温かい何かが、私の胸のあたりを強く、優しく揺さぶっていた。




 「……七尾さん。全部、売れました。五本とも」




 私が、少し声を震わせながら報告すると、七尾さんはいつものようにソファの左端で煙草をくわえながら、ふっと表情を和らげた。




 「そっか。おめでとう、アユムさん。一生忘れないと思うよ」




 七尾さんは、灰皿に灰を落としながら、喜んでくれているようだった。




 「じゃあ、すぐに次の作品を作らないといけませんね」  




 「え? もう、次ですか」  




 「当たり前でしょう。職人はね、売れたら、作る。それをただひたすら、繰り返していく生き物だから。次は、何本にするんですか?」




 「何本って……。また五本くらいが、私の手の限界だと思うんですけど」




 「また五本でもいいし、もっと挑戦して十本にしてみてもいい。それもすべて、アユムさんが自分で決めることだよ」




 「……七尾さん、またそうやって、私に全部丸投げする。同じことばかり言って」




 私が少し抗議するように言うと、七尾さんは嬉しそうに目を細めた。




 「同じことが、正しいことなんですよ。自分のものづくりを自分でコントロールする。それが、ここで生きるってことですから」




 その時、カンナが、作業台の上に軽やかな身のこなしで飛び乗ってきた。  カンナは、テーブルの上に置かれた私のスマートフォンを不思議そうに見つめ、それからにゃあ、と小さく鳴いて、私の顔をじっと見つめた。まるで、私たちの会話をすべて理解していて、「よくやったね」とでも言ってくれているかのような表情だった。  たぶん、ただお腹が減っているだけなのだろうけれど。それでも、この『七尾工房』という静かな空間にいると、猫も、作業台の上の古い道具たちも、そして乾燥室で眠る木材たちも、すべてが意思を持って、私たちのことを見守ってくれているような、不思議な安心感に包まれるのだった。




 私は、しばらく考えた末、次は「七本」作ることに決めた。  五本は、インターネットを通じて、また見知らぬ誰かのもとへと届けるために、心を込めて削る。  そして残りの二本のうち、一本は、自分で毎日使うための、相棒としてのボールペン。  もう一本は……何のために手元に残しておくのか、今の私にはまだ、明確な理由は分からなかった。けれど、中標津での生活を続けていくうちに、いつか「この一本を、どうしても手渡したい」と思うような、そんな大切な瞬間がやってくるような、不思議な予感がしていた。




 私は再び、一階の作業室に降り、木工旋盤の前に立った。  新しく切り出したチェリー材のブランクを、チャックに固定し、しっかりとクランプを締める。  旋盤のスイッチに指をかける瞬間、私の胸の奥に、再びあの冷たい、心地よい「怖さ」が、静かに、しかし確かに湧き上がってくるのを感じた。  でも、今の私は、もうその怖さから逃げようとは思わなかった。  この怖さこそが、私を職人として生かし、私のつくる言葉と木工に、本物の命を吹き込んでくれるための、もっとも正しい羅針盤なのだと、今は信じることができるからだ。




 私はスイッチを入れ、静かに回転を始めたチェリーの木肌へと、鋭い刃物をゆっくりと近づけていった。

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