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七尾工房、開店休業中  作者: 七尾 拓哉


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16/20

第16話 立花工芸

八月の、中標津の工房は暑い。


 道東の夏は短い。そして、東京のコンクリートジャングルに比べれば、気温そのものは遥かに穏やかで過ごしやすいのだと、頭では十分に理解していた。だが、七尾工房の建物は、築数十年を経た古い丸太を組み上げたログハウスだ。冬の極寒を耐え抜くための厚い壁は、一度真夏の熱気をその内部に溜め込んでしまうと、今度はなかなか熱を逃がしてくれない。さらに、隣の機械室で帯鋸やサンダー、木工旋盤を数時間も稼働させていれば、機械の熱と摩擦熱によって、作業室の室温は逃げ場を失い、じわじわと、しかし確実に上昇していく。


 「慣れるよ、そのうち」


 首から手拭いをぶら下げ、相変わらず長袖の作業シャツの袖を乱暴に捲り上げた七尾さんは、汗ひとつかいていないような涼しい顔でそう言った。


 「私はまだ、当分慣れそうにありません」


 冷たい麦茶を満たしたグラスを額に当てながら、私は小さくため息をついた。額から流れた汗が、作業用エプロンの胸元に暗い染みを作っていく。窓の外からは、どこまでも続く牧草地の上を吹き抜ける風の音が聞こえるが、室内に流れ込んでくるのは、刈り取られたばかりの青草が強い陽射しに干された、甘く濃厚で、どこか息苦しいほど熱を帯びた匂いだけだった。


 旭川の「立花工芸」を率いる立花さんが来たのは、そんな八月の、よく晴れた木曜日の午前中のことだった。


 「明日、午前中に立花さんが来るから」


 前日の夜、七尾さんからそう告げられていた。その言葉を聞いて、私はいつもより少し早く起きて一階の作業室を掃除し、お茶の準備を整えていた。  だが、当の七尾さんはといえば、案の定というか何というか、いつもの時間になるまで起きてこなかった。十時を過ぎ、太陽が天高く上って工房に本格的な熱気がこもり始めた頃、ようやく二階から気だるそうに下りてきたのだ。  ぼさぼさの髪に、洗いざらしのTシャツ。私が淹れた二杯目のコーヒーを受け取ると、「あちいねえ」と力なく呟きながら、いつもの定位置であるソファの左端に沈み込んだ。


 ちょうど木曜日だったので、週に一度のアルバイトであるあーちゃんも、いつも通りに朝から出勤していた。  首に大きなヘッドフォンをぶら下げ、目元まで伸びた前髪の隙間から静かに周囲を窺っている彼女は、七尾さんのいつも通りの脱力加減を気にする風もなく、大人しく隅の作業台で、昨日から続けていた木のトレイのサンディングに黙々と没頭していた。手元に置かれたA5のスケッチブックには、すでに整然と並べられた手道具たちのスケッチが、驚くほど緻密な鉛筆のタッチで描かれていた。


 午前十一時半を少し回った頃、砂利道を走る車の音が聞こえ、工房の前に一台のセダンが止まった。  車から降りてきたのは、白髪の混じった短い髪をきれいに整え、焦げ茶色の涼しげなリネンジャケットを羽織った男性だった。べっ甲縁の眼鏡の奥にある瞳は、優しげでありながらも、どこか射抜くような鋭さを秘めている。五十代半ばほどに見えるその佇まいは、一言で表すなら「極めて聡明で、洗練された人」だった。


 「立花です。七尾くん、相変わらずのんびりやってるね」


 「お久しぶりです、立花さん。わざわざ遠くまで」


 七尾さんは少し照れくさそうに頭を掻きながら、立花さんを中に迎え入れた。その呼び方や、言葉の端々から感じられる温度感は、上下関係ではなく、完全に対等な職人同士のそれだった。


 「初めまして、橋本歩と申します。七尾さんのところで弟子をさせていただいています」


 私が挨拶をすると、立花さんは眼鏡の奥の目を少しだけ細め、私を深く観察するような温かい眼差しを向けた。


 「初めまして、橋本さん。立花工芸の立花です。七尾くんから、優秀な若い子が来てくれたと聞いていましたよ。東京の、広告の仕事をされていたとか」


 「ええ、まあ、以前はそんなようなことを」


 立花さんが代表を務める「立花工芸」は、日本有数の家具の街として知られる旭川に拠点を置く、十人ほどの職人を抱える中規模の木工房だった。


 私たちは、二階のリビングへと上がった。  リビングの空気は、下階の作業室に比べればいくらか風が通り、涼しく感じられた。  いつものように、座る位置のルールは静かに守られていた。  七尾さんは白い合皮ソファの左端に腰を下ろした。真ん中の、かつて親友の伊吹敦が座っていた薄い窪みの跡には、誰も腰掛けない。立花さんはソファから少し離れた一人掛けの木製アームチェアに腰掛け、私はダイニングから椅子を引いてきて、その少し斜め後ろに腰を下ろした。 カンナが、私たちの気配を察してトコトコとリビングに入ってくると、当然のようにソファの真ん中の窪みの上に丸くなり、目を閉じた。


 立花さんは、旭川の老舗和菓子店で買ってきたという、ずっしりと重い極上の羊羹をテーブルに置いた。七尾さんはそのパッケージを見た瞬間、目に見えて表情が明るくなった。  私はすぐに冷たい緑茶を三人分淹れて、テーブルに運んだ。


 「ところで、七尾くん」立花さんは羊羹を一口食べ、緑茶で喉を潤してから、眼鏡の奥の目を悪戯っぽく光らせた。「今年の秋に旭川で開催される、うち主催の展示会だけど。やっぱり、出ないかい?」


 「出ませんよー」と、七尾さんは笑いながら即答した。「前にも言ったでしょう。あの一回きりで十分。恥ずかしいよ」


 「つれないなあ。あの時は初出展で最優秀賞をかっさらっていったからね。うちの職人たちも、あのメイプルとウォールナットを組み合わせたライティングデスクの仕上がりには腰を抜かしていたよ。旭川の職人たちが、ぜひ七尾くんに技術指導をしてほしい、一度でいいから中標津から出てきてくれって、今でもうるさいんだ」


 「指導なんて、俺には無理です。人に教えるほど立派な技術なんてないよ。全然立花工芸の職人さんたちの方が技術力ありますよ」


 七尾さんはアメリカンスピリットに火をつけながら、本当に面倒くさそうに手をひらひらと振った。


 私は、二人の会話を聞きながら、胸の奥で小さな衝撃を受けていた。  七尾さんが長野の「九鬼楽器」でギター職人として磨き上げた技術は、もちろんアユム自身も間近で見て知っていた。けれど、ギター業界だけでなく、家具や木工クラフトの本場である旭川のプロの職人たちからも、それほどまでに一目置かれ、畏敬の念を集める凄腕職人だったとは、今の今まで想像もしていなかったのだ。普段の、朝に弱くてTシャツと短パン姿でウロウロしている「ちゃらんぽらんな師匠」の姿からは、あまりにも結びつかない事実だった。


 立花さんは、私の驚いたような表情を察したのだろう。ふっと笑って、今度は私の方に向き直った。


 「実はね、七尾くん。今日は技術指導のオファーとは別の相談もあって来たんだ」


 「相談、ですか。立花さんが?」


 「ああ。うちの工房、今、ちょっと人手が足りなくてね。いや、正確に言うなら、ただ手を動かす職人が足りないんじゃない。うちも十人規模の会社になって、おかげさまで全国からの特注家具や、ネットショップからの小物の注文が増えてきている。そうなると、ただ黙々と木を削る人間だけじゃ、現場が回らなくなってくるんだよ。図面の管理、材料の段取り、お客様からの細かいメール対応、そしてSNSを使った発信。そういう『全体のバランスを整理して、職人と外の世界を繋ぐ役割』ができる人間が、どうしても必要なんだ。これまで私が一人で抱え込んできたんだが、さすがに限界が来ていてね。最近、期待していた若手が一人、実家の都合で地元に戻ることになってしまって、いよいよ困っているんだよ」


 立花さんは、困り果てたように眉を下げた。


 すると、七尾さんは咥えていた煙草の煙を天井に向けて吐き出し、ふっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


 「人手不足ですか。それなら立花さん、うちにちょうどいい弟子がいますよ。一年くらいの期限付きでなら、聞いてみるかい?」


 「え?」


 私は、思わず声を上げてしまった。


 「うちにはもったいないくらい、頭が良くて、整理整頓が得意で、言葉の扱いはプロ中のプロです。コーヒー淹れるのも上手になった。何しろ元は東京の一流の広告代理店にいた人だから。うちのInstagramもね、アユムさんが書くようになってから、フォロワーが増えて、先月なんて自分でチェリーを削って作ったボールペンが、ネットで出したら一晩で完売しちゃったんですよ。一本六千円で」


 七尾さんは、まるで自分の自慢話でもするかのように、嬉々として私を売り込み始めた。


 立花さんは驚いたように目を見開き、それから深く頷いた。


 「……やはりそうだったか。実はね、私も七尾工房のInstagramは以前からチェックしていたんだ。ここ何ヶ月か、明らかに発信の質が変わった。写真の構図も美しいが、何より言葉が静かで、誠実で、読む人の心を動かす力がある。七尾くんとは違う文章だった。あれは、橋本さんが書かれていたんですね」


 「はい……。七尾さんに丸投げされてしまったので、私なりに考えて運営してはいましたが」


 「素晴らしい」立花さんは身を乗り出した。「まさにそういう、技術と発信の重要性を理解している人材を、私は探していたんだ。もし可能なら、橋本さん。うちの工房に、来ていただけませんか」


 唐突な提案に、私の頭は一瞬、真っ白になった。


 「私、ですか……? でも、私はまだ木工の世界に入って一年にも満たない未熟者です。旭川の本格的な木工房で働けるような技術は、まだ何も持ち合わせていません」


 「技術は、うちのベテランたちがいくらでも教えられます。それに、うちの職人たちに囲まれて仕事をすれば、嫌でも技術は身につくよ。七尾くんに一目置いている職人ばかりだからね、橋本さんが来れば、みんな大喜びで指導するはずだ」立花さんは力強く言った。「私が求めているのは、あなたのその『整理する力』と『言葉の力』、そして、ものづくりに対する誠実な視点です。もちろん、ずっと旭川に縛り付けるつもりはありません。七尾くんの言う通り、期間を決めた修行を兼ねた『レンタル移籍』のような形でどうだろう」


 「条件は、こちらとしても最大限の敬意を払いたいと考えています」


 立花さんは、リネンジャケットの内ポケットから、丁寧に折りたたまれた一枚の白い紙を取り出し、テーブルの上に静かに滑らせた。


 私は、その紙をそっと手に取り、広げた。  そこには、整った文字で、具体的な契約条件が記されていた。


 ・月給:二十八万円(各種保険完備)  ・勤務地:旭川市東光(立花工芸 本社工房)  ・住居:工房近くの単身者用マンションを会社負担で用意(光熱費一部支給)


 言葉を失った。  月二十八万。しかも、住居つき。  東京の広告代理店時代に比べれば額面は少ないが、見習いという立場を考えれば、これは破格という言葉すら生ぬるい、奇跡のような好待遇だった。


 「すぐに決めろとは言いません」立花さんは微笑んだ。「旭川は、素晴らしい街です。一度、見学を兼ねて遊びにきませんか」


 「……ありがとうございます。本当に、身に余るお話です。少し、考えさせていただけますでしょうか」


 「もちろん。返事は急ぎませんから」


 その後、話題は別の雑談へと戻っていった。私たちは時折、立花さんの軽妙な語り口に笑い声を上げながら、和やかに残りの羊羹を口に運んだ。けれど、私の胸の奥では、テーブルの上に置かれたあの白い紙の重みが、まるで鉛のように、冷たく居座り続けていた。


 午後三時を過ぎた頃、立花さんは「それじゃあ、旭川に戻るよ」と席を立った。  玄関で見送り、彼の乗ったセダンが消えていくのを見届けてから、私と七尾さんは二人で静かにリビングへと戻った。  あーちゃんはすでに、一階の作業室で黙々とトレイのサンディングを再開しており、階下からシュッ、シュッ、という、規則正しい砂ペーパーの音が小さく響いていた。


 七尾さんは、いつものソファの左端に腰を下ろし、カンナがその膝の上に軽やかに飛び乗った。七尾さんは細い指先で、カンナの顎の下を優しく撫でている。


 私は、ダイニングチェアに深く腰掛け、テーブルの上の白い紙を見つめた。


 「……月、二十八万ですか」


 私がぽつりと言うと、七尾さんはふっと鼻で笑った。


 「すごいですよねえ、立花さん。太っ腹だな。ねえ、アユムさん。もしアユムさんが行かないなら、俺が行こーかな?」


 「え?」


 「いや、だって月二十八万でしょう? しかも住む場所までタダでついてくる。中標津よりは旭川の方が、美味しい飲み屋もたくさんある。俺が立花工芸の社員になって、全体の管理とか、SNSの発信とかやろーかな」


 「七尾さんがそんなことしたら、三日で立花工芸の信用が地に落ちます。」


 私が呆れて言うと、七尾さんは「失敬だなあ」と嬉しそうに目を細めて笑った。  けれど、そのちゃらんぽらんな笑い声の後に、リビングには、しんとした、重い沈黙が流れた。  窓の外からは、遠くでトラクターが低く唸る音が響いている。夏の西陽が、リビングの古いフローリングの上に、長い影を落とし始めていた。


 「七尾さんは、どう思いますか」


 私は、その沈黙に耐えかねて、尋ねた。


 「どう思う、とは?」


 「私が行くべきか、残るべきか、ということです。七尾さんから見て、私にはどちらの道が、職人として、あるいは人間として正しいと思われますか」


 七尾さんは、カンナを撫でていた手を止めた。  彼はゆっくりと顔を上げ、いつになく真剣な、深く、吸い込まれそうな瞳で私をじっと見つめた。


 「……俺の話を、自分の判断に、混ぜないで聞いてほしいんだけど・・・」


 その声は、驚くほど静かで、そして冷徹だった。


 「え……」


 「俺がここにいてほしいと思っているとか、工房の運営がアユムさんがいなくなると困るとか、そういう余計なことを、アユムさんの判断の材料に入れないでほしいかな?」


 七尾さんは、煙草の箱からアメリカンスピリットを一本引き抜き、お気に入りの真鍮のライターで火をつけた。紫煙が、西陽の光の筋の中で、青白く、ゆっくりと輪を描きながら立ち上っていく。


 「アユムさんは七尾工房以外の木工房を知らないでしょ?木工房ってね、いろんなスタイルがあるんだよ。いろんなところを見て、いろんなことを学んでくるってのは大事なことだと思うよ?」


 七尾さんは、煙草を灰皿に押し当てながら、静かに、しかし断固とした口調で続けた。


 「すべては、アユムさんがどうしたいか。何を選択し、その選択の責任をどう背負うか。それだけで決めてほしいかな。とりあえず、見学に行ってみるってのもいいと思うよ」


 私は、その言葉を、すぐには自分の腑に落とすことができなかった。  七尾さんがそう言うのは、私を突き放しているのではない。むしろ、私のことを一人の対等な人間として、そして未来の「職人」として、最大限に尊重してくれているからこそ、私から「甘え」を奪い去ろうとしているのだと、頭ではわかっていた。  けれど、いざその究極の自由を目の前に突きつけられると、足元がすくむような、激しい目眩を覚えるのだった。


 自分が、何をしたいか。  この中標津の、厳しい冬と短い夏の狭間で、私は一体、何のために生きようとしているのか。  その一番難しく、重い問いに対する答えは、東京を逃げ出すようにしてここへやってくる前から、ずっと見つからないまま、私の胸の奥で燻り続けていた。


 「……一度、行ってみてもいいですか。旭川」


 私は、震える声をなんとか抑えながら、そう言った。


 「お土産よろしく」


 七尾さんは、いつもの飄々とした調子に戻り、ふっと目元を和らげた。


 「立花さんの工房の近くにあるラーメン屋さん、美味しいから食べといで。ご馳走してもらうといいですよ」


 「七尾さんも一緒に行きませんか?」


 「旭川、夏は暑くて冬寒いんだよなぁ~遠いし」


 七尾さんはそう言うと、ソファの背もたれの上で丸くなっているカンナの背中を、ぽんぽんと優しく叩いた。カンナは、眠たげに片目を開け、にゃあ、と力なく鳴いた。


 私は、テーブルの上に置かれた立花さんの白い紙を、もう一度、丁寧に折りたたんで、作業着のポケットに仕舞い込んだ。

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