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七尾工房、開店休業中  作者: 七尾 拓哉


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17/20

第17話 二十八万の価値と、いつものソファ

中標津から旭川までは、同じ北海道内とはいえ、およそ二百五十キロメートルもの距離がある。東京からで言えば、静岡県を越えて愛知県のあたりまで移動するのに等しい。しかも、その大半は鉄道が通っていないか、あるいは本数が極端に少ない山あいの境界を越えていくルートだ。


 私は、朝一番の都市間バスに乗り込んだ。

 窓外には、見慣れた中標津の平坦な牧草地が広がり、やがて阿寒の深い深い森へと吸い込まれていく。バスの大きなディーゼルエンジンが、峠に差し掛かるたびに重い音を立てて唸りを上げた。

 手元には、いつも通りの一冊の文庫本と、作業着のポケットに仕舞い込んだ、立花さんからのあの白い紙。

 バスが石北峠を越える頃、空はいつの間にか、道東の澄んだ青から、盆地特有のねっとりとした熱気を孕んだ薄曇りの空へと変わっていた。


 およそ五時間の旅を経て、バスが旭川駅前のロータリーに滑り込んだのは、午後一時を過ぎた頃だった。

 バスの扉が開いた瞬間、もわっとした、まとわりつくような熱気が肌を包み込んだ。中標津の、あの乾いて冷たい風に慣れかけていた私の体にとって、旭川の夏は、かつて暮らしていた東京の不快な暑さを思い出させるのに十分な重さを持っていた。


 「長旅、お疲れ様でした。やっぱり、道東に比べると暑いでしょう」


 改札の近くで待っていてくれた立花さんは、この前と変わらない、焦げ茶色のリネンジャケットをスマートに着こなして微笑んでいた。


 「ええ、少し驚きました。中標津とは、空気の重さがまったく違いますね」


 「盆地ですからね。冬はマイナス二十度を下回るのに、夏は平気で三十五度を超える。木にとっても、人間にとっても、なかなかタフな土地ですよ。さあ、車へどうぞ」


 立花さんの運転するセダンは、旭川の整然とした市街地を抜け、東光と呼ばれる地区へと向かった。

 車窓から見える景色は、中標津のそれとはまるで異なっていた。大きな道路の脇には全国チェーンの量販店や飲食店が立ち並び、多くの車が行き交っている。ここには「生活のすべて」が揃っており、そして何より、圧倒的な「人の気配」があった。


 「ここが、うちの工房です」


 車が止まったのは、大きな鉄骨造りの建物の前だった。

 周囲には、杉の無垢材やナラ、タモといった大きな材木が整然と桟積みされ、乾燥させられている。その規模は、七尾工房のログハウス風とは比較にならないほど大きかった。


 一歩、建物の中に足を踏み入れた瞬間、私はその音と、圧倒的な木の匂いに圧倒された。


 ――キィィィィン、という、耳を劈くような高音。


 大型の軸傾斜盤や、超仕上げかんな盤が何台も同時に稼働している。機械室の床はコンクリートで固められ、天井を這う巨大なダクトが、木屑や粉塵をまたたく間に吸い込んでいく。空気は驚くほど澄んでおり、七尾工房のように「作業の後に薄く木屑が積もる」といった気配はどこにもなかった。


 「みんな、ちょっと手を止めてくれ」


 立花さんが声をかけると、作業をしていた職人たちが一斉にこちらを振り返った。

 二十代の若手から、五十代に見えるベテランまで、総勢十人。皆、お揃いのグレーの作業服を身にまとい、その表情にはプロとしての誇りと、規律正しい緊張感が漂っていた。


 「中標津の七尾くんのところで弟子をしている、橋本歩さんだ。今日から一泊二日で、うちの仕事を見学してもらうことになった」


 立花さんがそう紹介した瞬間、職人たちの間に、微かな、しかし確かなざわめきが走った。

 特に、作業台で複雑な仕口の加工をしていた、三十代半ばほどの腕の良さそうな職人が、目を丸くして私を見た。


 「え……あの、ギター職人の七尾さんのお弟子さんですか?」


 「はい、橋本と申します。まだ入って数ヶ月の未熟者ですが、よろしくお願いいたします」


 私が一礼すると、その職人は急に親しげな、それでいてどこか羨むような眼差しを向けてきた。


 「あの人の技術を間近で見ているなんて、羨ましいな。俺たちなんて、七尾さんが旭川のコンテストに出したあのデスク、今でも伝説として語り継いでいるんですよ。どうやってあの狂いのない接合部を作ったのか、一度でいいから本人に聞いてみたくて」


 「七尾さんは……その、普段はとてもそんな方じゃないんですが」


 私が正直に答えると、職人たちは一瞬驚いたように顔を見合わせ、それからどっと笑った。


 「やっぱり、天才ってのはそういうもんなのかねえ」


 その温かい歓迎に、私の緊張は少しだけ解けた。同時に、七尾拓哉という男が、この「家具の街・旭川」でどれほど特別な存在として扱われているのかを、改めて肌で感じることになった。彼はただの「中標津の無口な木工屋」ではない。この厳しいプロの世界において、誰もがその背中を追いかける、本物の「怪物」なのだ。


 午後からは、立花さんが工房の「裏側」を案内してくれた。

 事務室に入ると、そこにはパソコンが数台並び、女性のスタッフが忙しそうに伝票の処理や、顧客からのメール対応を行っていた。


 「うちが今、一番頭を悩ませているのが、この事務室と現場の『隙間』なんだよ、橋本さん」


 立花さんは、スチールラックに乱雑に並べられた、膨大な数の仕様書や図面のファイルを指し示した。


 「特注家具の注文が入ると、お客様との細かいやり取りが発生する。それをどうやって正確に現場の職人に伝えるか。職人は木を削るプロだが、文章や図面を整理して、段取りを組むのは苦手な人間が多い。メールの返信が一日遅れるだけで、今の時代、信用に関わる。それに、せっかく良いものを作っても、それを外の世界に発信していかないと、埋もれてしまうんだ」


 立花さんは、パソコンの画面に映し出された、立花工芸のホームページやSNSのアカウントを見せた。


 「私一人でやっていたんだが、もう限界だ。橋本さん、君が来てくれたら、この『翻訳作業』をすべて任せたい。職人たちの言葉にならないこだわりをすくい上げて、文章にし、お客様に届ける。そして、現場の進行を美しく整理する。それができるのは、君しかいないと思っているんだ」


 立花さんの言葉には、嘘偽りのない、切実な期待が込められていた。

 提示された「月給二十八万円、住居付き」という条件。

 それは、単なる見習いに対する施しなどではなく、私の「前職での経験」と「言葉の力」に対する、正当な、プロとしての評価なのだと理解できた。


 夕方、作業が終わり、職人たちが手際よく作業場を清掃し、機械の電源を落としていく様子を私は眺めていた。

 すべてがシステム化され、美しく、無駄がない。

 ここで働けば、私は間違いなく、組織の一員としての安定と、プロの技術に囲まれた贅沢な環境を手に入れることができるだろう。


 「さあ、お腹も空いたでしょう。七尾くんが言っていたラーメン屋、行ってみましょうか」


 立花さんが、鍵をポケットに仕舞いながら笑いかけた。


 連れて行かれたのは、工房から車で十分ほどの場所にある、年季の入ったこぢんまりとしたラーメン店だった。

 店内には、豚骨と醤油の、濃厚で香ばしい匂いが立ち込めている。冷房の効きが悪い店内で、私たちは汗をかきながら、運ばれてきた「旭川ラーメン」をすすった。


 表面を厚いラードの膜が覆う、熱々の醤油スープ。縮れた低加水麺が、その旨味をこれでもかと吸い上げている。


 「……美味しいです。すごく、体に染みます」


 「そうでしょう。ここは七尾くんが旭川に来るたびに、必ず寄る店なんだ。彼、味覚と聴覚だけは無駄に鋭くてね。ここのスープの出汁のバランスが最高だって、うるさいんだよ」


 立花さんは懐かしそうに目を細め、麺をすすった。


 「立花さん」私は、割り箸を置いて、尋ねた。「七尾さんは、どうして中標津で、あの小さな工房を一人で続けているんでしょうか。これほど腕があって、旭川でもこれだけ名前が知られているのに」


 立花さんは、スープを一口飲み、それからゆっくりとグラスの水を口に含んだ。


 「彼はね、傷を負っているんだよ」


 「傷、ですか」


 「うん。長野の『九鬼楽器』が解散した時のこともそうだが……何より、彼には、十年間ずっと引きずっている仕事仲間がいる」


 それを聞いた瞬間、私の背中に、小さな緊張が走った。

 リビングのあの白いソファ。真ん中の、誰も座らない、薄い窪み。


 「設計図を見せてもらったことがあるが、本当に天才だった」


立花さんは、ぽつりぽつりと語り始めた。


「私はギターのことはわからないんだ。けど、同じものづくりの人間からみて、あの図面を書いた人は、完成度が高過ぎる。手書きで書きこまれたあの図面は相当な人物だと思う。七尾くんがどれだけ腕の良い職人であっても、『設計者』がいなければ、彼の技術は半分も活かされないし、形にできる技術がないなら、何の意味もないのが、設計者なんだ。二人は、完璧な一対だったんだよ。その設計者が、十年前、若くして突然亡くなった。七尾くんはね、それ以来、自分のためだけに木を削ることを、どこかで拒否しているんだと思う」


 店の外から、時折、大きなトラックが通り過ぎる地響きが伝わってくる。


 「中標津という、誰も自分を知らない、乾いた風の吹く場所で、彼は自分を『開店休業』にしているんだ。そうやって、傷が癒えるのを待っているのか、それとも……。私にも、それは分からないけれどね」


 立花さんは、優しく私を見た。


 「だからね、橋本さん。君が彼のそばにいてくれることを、私は職人仲間として、少しだけ安心していたんだ。彼が、自分のためではなく、次の世代のために技術を伝えるという『生きた仕事』を始めたんじゃないかってね。でも、それは私の勝手な期待だ。君の人生は、君のものだ。うちに来てくれれば、私は君を全力で育てるし、それだけの価値がある人材だと思っている」


 「……ありがとうございます」


 私は、深く頭を下げた。

 喉の奥が、熱いスープとは別の熱さで、きゅっと締め付けられるようだった。


 その夜、立花工芸が用意してくれた、工房近くの単身者用マンションに私は一人で泊まった。

 新しく、清潔で、エアコンが静かに稼働している快適な部屋。

 お風呂に入り、用意された清潔な布団に横たわると、一日の移動の疲れがどっと押し寄せてきた。

 けれど、私の目は、冴え渡ったままだった。


 静かすぎる部屋。

 エアコンの、かすかな機械音だけが響いている。

 私は、ポケットから、あの白い条件の書かれた紙を取り出し、常夜灯の薄暗い光の中で広げた。


 『月給:二十八万円』。


 この部屋に住み、あの清潔な工房で、プロの職人たちに囲まれて働く日々。それは、東京で挫折した私にとって、これ以上ない「再生」のシナリオのように思えた。

 けれど、目を閉じると、私の脳裏に浮かぶのは、別の景色だった。


 築数十年を経た、古いログハウス。

 夏の熱気を溜め込んで、むっとするほど熱い作業室。

 隣の部屋から聞こえる、あーちゃんが黙々とトレイを削る、シュッ、シュッ、という規則正しいサンドペーパーの音。

 首から手拭いをぶら下げ、長袖の作業シャツを乱暴に捲り上げて、「あちいねえ」と力なく笑う、ちゃらんぽらんな師匠の姿。

 そして、リビングの白い合皮ソファの、あの不可侵な真ん中の窪みの上で、丸くなって眠る茶トラのカンナ。


 あの場所には、最新の集塵機も、組織としての安定もない。

 あるのは、ただ、吹き抜ける道東の乾いた風と、消えない傷を抱えた男の、静かで、誠実な手仕事の気配だけだった。


 翌朝、私は少し早く目が覚めた。

 習慣になっている「朝の十分間の読書」をするために、マンションの近くにある小さな公園へ向かった。

 ベンチに腰掛け、文庫本を開く。

 けれど、文字が滑るようにして、頭に入ってこない。

 見上げた旭川の空は、やはりどこか重く、湿り気を帯びていた。あの、どこまでも透き通った、中標津の、どこか寂しくて、だからこそ愛おしい空とは、決定的に違っていた。


 午前中、私はもう一度立花工芸の工房を訪れ、昨日のお礼を伝えた。

 立花さんは、私の表情を見た瞬間、すべてを察したように、ふっと穏やかに微笑んだ。


 「決まったようだね、橋本さん」


 「はい」私は、ポケットから折りたたんだ白い紙を取り出し、両手で立花さんに返した。「本当に、身に余る、素晴らしいお話でした。私の過去まで含めて、これほど評価していただける場所は、他にはないと思います。……ですが、私は、あの中標津の工房が好きです」


 立花さんは、その紙を静かに受け取り、内ポケットに仕舞った。


 「どうしてだい?」


 「私はまだ、あの場所で、あのちゃらんぽらんな師匠から、盗まなければいけない技術がたくさんあります。そして……あの人が、もう一度、自分の作ったものを他人に晒すその日まで、そばで見ていたいんです。それが、私が私の責任で選んだ、私の道です」


 立花さんは、しばらくの間、私をじっと見つめていたが、やがて眼鏡の奥の目を優しく細めた。


 「……やっぱり、七尾くんは人たらしだな。あんな風に、いつも飄々としているくせに、一番大切なものを、他人の心に植え付けてしまう。本当に、敵わないな」


 立花さんは、私の肩をぽんと叩いた。


 「もし、彼に愛想が尽きたら、いつでもここに来て下さい。その紙の条件は、いつでも有効にしておくから」


 「ありがとうございます。立花さん」


 午後、私は再び、中標津行きの都市間バスに乗り込んだ。

 バスが峠を越え、徐々に道東のなだらかな平原へと入っていくにつれ、窓から入ってくる風が、みるみるうちに冷たく、乾いたものへと変わっていくのが分かった。

 私は、深く息を吸い込んだ。鼻の奥をくすぐる、刈り取られた草の甘い匂い。


 夜の八時を過ぎた頃、バスは中標津のバスターミナルに到着した。

 タクシーを拾い、暗い砂利道を走らせて、七尾工房の前で降りる。


 ログハウスの窓から、ぽつんと、温かいオレンジ色の電球の光が漏れていた。

 ドアを開けると、カランコロン、と、古いベルの音が響いた。


 「ただいま戻りました」


 リビング向かうと、七尾さんはいつものように、白い合皮ソファの左端に腰を下ろして本を読んでいた。

 

 「おかえり~」


 七尾さんは、ゆっくりと顔を上げ、ふっといつもの、ちゃらんぽらんな笑みを浮かべた。


 「ラーメン、食べてきた?」


 「はい。すごく美味しかったです。ラードがたっぷりで、最後まで熱々でした」


 「そうでしょう。あそこ、美味しいんだよなあ」


 私は、お土産に買ってきた旭川の名物菓子をテーブルの上に置いた。

 それから、いつものダイニングチェアに深く腰掛け、七尾さんをまっすぐに見つめた。


 「すごく、綺麗で、大きくて、素晴らしい工房でした。職人さんたちも、みんな七尾さんのことを『怪物』みたいに尊敬していましたよ」


 「やめてよ、恥ずかしい」七尾さんは、本当に嫌そうに手をひらひらと振った。


 「でも」私は、一息ついて、言った。「私は、ここがいいです。ここで、七尾さんのところで、もっと木を削りたい。月二十八万より、ここの、朝起きられない師匠の方が、私には必要です」


 リビングに、静かな、しかし温かい沈黙が流れた。

 七尾さんは、咥えていたアメリカンスピリットに火をつけ、紫煙を細く吐き出した。その煙の向こうで、彼の瞳が、ほんの一瞬だけ、子供のように嬉しそうに揺れるのを、私は見逃さなかった。


 「……そう。もったいないねえ、二十八万」


 「本当に、もったいないことをしました。ですから、明日からはもっと、ちゃんと技術を教えてください」


 「教えてると思うけどなー」


 七尾さんはそう言うと、ソファの背もたれの上で丸くなっているカンナの頭を、ぽんぽんと優しく叩いた。カンナは、眠たげに片目を開け、にゃあ、と力なく鳴いた。


 窓の外からは、乾いた夜風が、防風林の葉をさやさやと揺らす音が聞こえていた。

 中標津の、涼しくて、少し寂しい秋が、もうすぐそこまで来ていた。



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