第18話 最先端の言葉、十年前の文字
九月の声を聞くと、夜の空気が変わる。
昼間はまだ、よく晴れていれば半袖でいられる日もある。けれど日が落ちると、待っていましたとばかりに急激に冷気が降りてきて、薄手のジャケットやカーディガンがどうしても欲しくなる。そういう温度の変わり目に、道東の秋は静かに、しかし確実に始まる。牧草地の青が少しずつ、掠れたように色を落としていき、夕方の光の角度が一日ごとに低くなっていく。夏が終わっていくのが、乾いた空気の匂いでわかる。
長坂凛さんが中標津の工房を訪ねてきたのは、そんな九月の最初の週のことだった。
事前に連絡はあった。七尾さんから「長坂さんという人が来る」と聞いたのは前日の夜のことで、それ以上の詳しい説明はなかった。ただ、いつものちゃらんぽらんな様子とは違って、七尾さんがその名前を口にしたときの声が少しだけ低かったことだけが、私の記憶に残っていた。
長坂さんが、かつて長野の「九鬼楽器」で七尾さんの親友だった伊吹敦さんと一緒に仕事をしていた人だということは、彼女が来てから、本人の口によって明かされることになる。
午前十一時前、砂利道を静かに進むコンパクトカーの音が聞こえ、工房の前に止まった。
車から降りてきた長坂さんは、一見すると二十代前半にしか見えない、驚くほど綺麗な黒髪ロングヘアーの美人だった。グレーのTシャツに薄手のネイビーのジャケットを羽織り、細身のチノパンを穿いている。眼鏡はかけておらず、切れ長で聡明そうな瞳が印象的だった。実年齢は私とそれほど変わらない、三十代前半なのだろう。立ち姿がすっと伸びていて、物静かで凛とした佇まいを最初から崩さなかった。話し方がゆっくりしていて、言葉を口にする前に、頭の中で丁寧に選ぶような間がある。
「長坂です。突然押し掛けてしまって、すみません」
「よく来てくださいました。弟子の橋本です」
私が一礼して中に迎え入れると、彼女は丁寧に靴を揃え、作業室へと足を踏み入れた。
「七尾さんとは、お付き合いが長いんですか」
「いえ、私は去年の十一月にここへ来たばかりなんです。それまでは東京でまったく違う仕事をしていました」
「そうですか」長坂さんは少し意外そうに私を見つめ、それから「良い場所ですね」と小さく微笑んだ。
彼女は工房の中をひと通り見渡した。
使い込まれた作業台、壁のラックに美しく整列したさまざまなサイズの鉋、天井から下がった木工用の治具、そして、機械室の向こうに見える大きな帯鋸。そのすべての配置や手入れの状態を、プロの目で見定めているのが分かった。
そして、リビングへ上がる階段の脇に吊るされている、あの白いボディに赤いリボンが描かれたジャズベースに目が止まった。止まったのは一瞬だったが、彼女の切れ長な瞳が、かすかに細められたのを私は見逃さなかった。それは、懐かしさと、言葉にならない感傷が混ざり合ったような、複雑な視線だった。
「長坂さん、初めまして?かな?いらっしゃい。遠かったでしょう」
キッチンから、七尾さんがお茶の入った耐熱ガラスのグラスを盆に乗せて下りてきた。
髪は珍しく少しだけ整えられていたが、いつもの洗いざらしのシャツ姿だ。
「お久しぶりです、七尾さん。お会いするのは、これが初めてですね」
「そうだね。伊吹から、いつも噂だけは聞いていたんだけど」
七尾さんは少し照れくさそうに頭を掻いた。
長野時代、伊吹さんの口から何度も「優秀な後輩の長坂が」という話は聞いていたものの、当時、メーカーの別部署で設計開発に没頭していた彼女と、製作現場の叩き上げだった七尾さんが直接顔を合わせる機会は一度もなかったのだという。十年以上の歳月を経て、中標津という道東の果てで初めて二人の道が交わるというのは、不思議な巡り合わせのように思えた。
私たちは、ダイニングテーブルに座った。
冷たい麦茶が注がれたグラスに、室内の生温かい空気が触れて、表面にみるみるうちに細かな水滴がついていく。
「長坂さんは、今は松本でギターの設計を?」
七尾さんが、テーブルに肘をつきながら尋ねた。
「ええ。九鬼楽器がなくなってからは、松本の中堅ギターメーカーに移って、設計開発を続けています。もう十二、三年でしょうか。立場としては中堅ですが、気持ちの上では、今も伊吹さんの弟子のような気持ちでいます。私の方が八歳ほど下でしたから」
「八歳下か……。じゃあ、伊吹が亡くなった時は、まだ二十歳そこそこだったんだね」
「はい。大学を卒業して入社して、最初に配属された開発室で、伊吹さんのアシスタントをさせてもらったのが始まりでした。本当に、何もない私にギター設計のイロハを教えてくれたのが伊吹さんなんです」
長坂さんはグラスの表面についた水滴を指先でなぞりながら、静かに語った。
彼女の所属する松本のメーカーは、アコースティックギターの分野では独自の地位を築いている中堅ブランドらしい。そこで彼女は、最近の技術開発を主導しているのだという。
「最近の松本はどう? いろいろ面白いことやってるんでしょ。噂はこっちまで届いてるよ」
七尾さんが少し目を輝かせて尋ねると、長坂さんは「ええ」と微かに表情を緩めた。
「今は、伝統的な製法を守るだけじゃなくて、新しい技術の導入をかなり積極的に進めています。例えば、ファンフレット(マルチスケール)のピッチ精度をさらに上げるためのネック補強技術や、ヘッドレス仕様のアコースティックモデルの重心バランス。それから、木材そのものの改質ですね。スタビライズドウッド(樹脂含浸木材)をアコースティックのブリッジや指板にどう応用するか、とか。あとはサーモウッド(高温熱処理材)をアコースティックの表板に使うことで、新品の状態から何十年も弾き込まれたヴィンテージのような枯れた鳴りを人工的に作り出す研究もしています」
「サーモウッドか……。あれは確かに乾燥の狂いが少なくなっていいけど、職人の手鋸で挽く時に割れやすくなるから、カンナがけが難しいんだよね」
「そうなんです! 熱処理によって繊維の靭性が失われて脆くなるので、機械刃の送り速度を秒単位で調整しないと、木口が簡単にチッピング(欠け)してしまうんです。だからうちの工場でも、サーモウッドの加工プロセスはかなり繊細に管理しています」
「やっぱりそうか。それに、スタビライズドウッドは硬度は上がるけど、木の本来の『呼吸』が止まっちゃうような気がしてさ。エレキのボディトップに使う分には、あの独特の染色の杢目が映えて綺麗だけど、アコギの振動板としてはどうなの?」
「その通りです。だから私たちは、全体を樹脂で固めるんじゃなくて、多孔質な部分にだけ選択的に極薄のマイクロポリマーを浸透させる含浸処理を開発しています。これなら、木としての適度な内部摩擦を残したまま、湿度の変化に対する寸法安定性だけを劇的に高められるんです。日本の四季の激しい湿度変化に対抗するには、これが今、最も有効なアプローチだと思っています」
それまで私の知らなかった、専門的で、熱を帯びた対話が二人の間で交わされていた。
ファンフレット、スタビライズドウッド、サーモウッド――。
聞き慣れない単語が飛び交う中、私は黙って二人の表情を見ていた。七尾さんはいつもと違い、完全に「プロの職人」としての目つきになっていた。長坂さんの論理的で詳細な解説を、彼は指先でテーブルをトントンと軽く叩きながら、頭の中で完全にシミュレーションしているようだった。
長坂さんもまた、ただの会社員としての設計者ではない。自らの手で木を触り、その性質を徹底的に数値化して理解している、真摯なエンジニアなのだ。
「へえ、面白いね。松本はそこまで進んでるんだ。俺なんてここでは、いまだに手カンナとノミだけでガリガリやってるから、浦島太郎みたいな気分だよ」
「何をおっしゃいますか」長坂さんは少し悪戯っぽく微笑んだ。「実は、うちのメーカーの特別仕様モデルで、どうしても技術的に難しいヴィンテージリペアや、複雑なネック補修が必要なとき、とある東京の楽器ディーラーを経由して、中標津の『N』という職人に秘密裏にリペアが委託されているの、知っているんですよ」
「あ……」七尾さんは急にバツの悪そうな顔をして、お茶を濁すようにごくりと緑茶を飲んだ。
「やっぱり、七尾さんだったんですね。『中標津』ってなかなか珍しいですよね。社内では『絶対に不可能な割れを完璧に繋いで戻してくる、北海道の恐ろしい職人がいる』って、開発部の間では噂になっていました。まさか、かつて九鬼楽器にいらっしゃった七尾さんだとは、会社の誰も気づいていませんでしたが」
「いや、あれは、ディーラーの社長に無理矢理頼まれてさ。断るとうるさいし、暇潰しに引き受けてただけで……」
「暇潰しで、あの狂いのないネックリセットをされたら、私たちの立場がありません」
長坂さんは、嬉しそうに、それでいて確かな敬意を込めてそう言った。
普段は「本日も開店休業」を決め込んでいるこの古いログハウスに、実は日本最高峰のメーカーから、極秘裏に超高難度の修理依頼が舞い込んできていたという事実に、私はまたしても深い衝撃を受けていた。七尾さんは本当に、ただのちゃらんぽらんなおじさんではない。この中標津の静寂の裏で、彼はその神がかった技術を、誰にも誇ることなく、ただ静かに研ぎ澄ませ続けていたのだ。
しかし、会話が一段落すると、リビングにはまた、ぽつりと静寂が戻ってきた。
西日が、窓のカーテンの隙間から細い光の帯となって差し込み、テーブルの上を横切っている。
長坂さんは、少し居住まいを正した。
彼女の表情から、先ほどの技術談義の柔らかさが消え、元の一切の妥協を排した、真摯な「伊吹の後輩」としての顔に戻った。
「七尾さん。ご連絡が遅くなりましたが……伊吹さんが亡くなって、今年でもう、十年になるんですよね」
「……そうだね。もう、十年だ」
七尾さんの声のトーンが、一段階低くなった。
「私はずっと、七尾さんに連絡を取るタイミングがわからなくて。ただ、上杉香織さんから、七尾さんのことは時々聞いていたんですが」
「香織さんと、連絡を取っていたんですか」
「年に一度くらいです。松本と東京で離れていますが、伊吹さんのことを、あの事故の日のことを、傷を伏せずに話せる人が、お互いにあまりいなくて」
七尾さんは何も言わなかった。
お茶のグラスを両手で包むように持って、テーブルの一点を見つめていた。その指先が、微かに白くなっている。十年の歳月が流れても、あの雨の夜の事故の記憶は、関わった人々の心の中に、少しも風化することなく刺さり続けているのだ。
「実は、今日、七尾さんにどうしても見てもらいたいものがあって、ここまで来ました」
長坂さんは、足元に置いていたレザートートバッグのファスナーを開け、中から一冊の小さな手帳を取り出した。
紺色の合成皮革の表紙。長年使い込まれたせいで、角が丸く擦り切れ、持ち主の指の跡が薄く染み付いている。
「伊吹さんが、プライベートでいつも持ち歩いていた手帳です。事故の後、ご遺族から遺品の一部として私が譲り受け、ずっと手元に持っていたんですが……。やはり、これは私ではなく、七尾さんに渡すべきものだと思って、今日までずっと持ってきました」
七尾さんの手が、グラスの上でぴたりと止まった。
「……中を見たんですか、長坂さん」
「見ました」長坂さんはまっすぐに七尾さんを見つめて、言った。「七尾さんへ向けたページがあります。『ナナオへ』という書き出しで、彼の手書きの文字が残っていました。だからこそ、これは七尾さんが持っているべきなんです」
重い、しんとした沈黙が、リビングを支配した。
外を一台のトラックが、低いエンジン音を響かせて通り過ぎ、その振動がログハウスの壁を微かに揺らした。それが去ってしまうと、再び、ただ乾いた秋の風の音だけが聞こえるようになった。
「……あとで読むかな?置いておいていいですか、それ。テーブルの上に」
七尾さんの声は、信じられないほど静かだったが、いつもの彼とは決定的に違う、何かを必死に堪えているような、硬い質感を含んでいた。
「もちろんです」
長坂さんは、紺色の手帳をテーブルの真ん中に置いた。
七尾さんは、その手帳を見ようとしなかった。彼の視線は、手帳の数センチ手前の、木目の節のあたりで完全に固定されていた。まるで、その手帳を直視してしまえば、十年間必死に守ってきた心の防波堤が、一瞬で崩れ去ってしまうことを恐れているかのように。
「伊吹さんと、最後に会ったのはいつでしたか」
長坂さんは、静かに問いかけた。
「……亡くなった、その日だね」七尾さんは、掠れた声で答えた。「その日の夕方まで、九鬼楽器の作業場で一緒に作業をしてた。あいつは、新しいアコースティックの内部構造のアイデアが閃いたって、すごく興奮してて」
「そうでしたか。私は、事故の一ヶ月前に、仕事の打ち合わせで長野の工場に行ったのが最後でした。その時も、伊吹さんは一晩中、設計の話をしていました。『あのアコギのブレーシングの構造、あと少し、あとほんの一歩のところまで来てるんだ。ナナオがそれを形にしてくれたら、俺たちのギターは世界を変えられる』って、本当に嬉しそうに語っていた」
長坂さんの言葉が、七尾さんの胸の奥に、深く突き刺さっていくのが分かった。
七尾さんは突然、椅子を引いて立ち上がった。
「……ちょっと外に出てきます」
それだけを早口に言うと、彼はダイニングテーブルから目を背け、足早に外へ出た。
作業シャツのポケットから、黄色いアメリカンスピリットの箱を引っ張り出すのが、一瞬だけ見えた。
バタン、と静かに玄関のドアが閉まる音がした。
長坂さんは、彼が去っていった方向を静かに見送り、それからふぅ、と小さくため息をついて、お茶を一口飲んだ。
私は、テーブルの上に残された紺色の手帳と、長坂さんの横顔を交互に見つめながら、どんな言葉をかけるべきか、必死に探していた。
「……驚かせてしまいましたか、橋本さん」
長坂さんが、私に気づいて優しく微笑んだ。
「いえ。ただ……七尾さんは、自分の感情が大きく動いたとき、いつもこうして煙草を吸いに外へ出るんです。だから、大丈夫です」
「そうですか」長坂さんはかすかに頷いた。「本当に、あの頃と何も変わらないなと思って。伊吹さんから聞いていた通りの人です」
「伊吹さんから、七尾さんのことを?」
「ええ。直接会う機会はなかったけれど、伊吹さんの口から出ない日はありませんでした。『ナナオの削るネックは、コンマ一ミリの狂いもない』とか、『ナナオは朝が弱くて、いつも僕が起こしに行かなきゃいけない』とか。『ナナオが相棒だから、僕は世界一の設計者になれるんだ』って。いつも嬉しそうに、自慢ばかりしていましたよ」
私はその言葉を聞いて、胸の奥が熱くなるのを感じた。
七尾さんは、伊吹さんが自分のことをどれほど信頼し、どれほど誇りに思っていたかを、十分に知っているのだろうか。それを知るのが怖くて、彼はこの十年間、伊吹さんの思い出から目を背け続けてきたのかもしれない。
十分ほどして、一階のドアが開く音が聞こえ、階段を上がる足音が響いた。
七尾さんが戻ってきた。
彼からは、ツンとするような、強いアメリカンスピリットの煙の匂いがした。いつもより明らかに、多く、短時間で吸ってきたことが分かった。
「すみません、お待たせして」
「いいえ」
七尾さんはいつもの椅子に戻り、腰を下ろした。
テーブルの上の紺色の手帳は、まだそこにあった。七尾さんはそれをやはり見ないようにしながら、長坂さんに向き直った。
「設計図が、こっちに来たと聞きました」長坂さんが言った。「上杉さんから」
「……ええ。七月に、香織さんがここに来て、置いていきました。物置の奥に、まだしまってあります。俺は……まだ、それを開くことができていないけれど」
「無理に開く必要はありません」長坂さんは静かに、しかし力強く言った。「ただ、これだけは約束させてください。私は今、別のギターメーカーで働いていますが、伊吹さんの設計図を、自社の利益のために無断で盗用したり、使ったりすることは絶対にありません。それは、私の技術者としてのプライドにかけて、そして伊吹さんとの約束にかけて、絶対にしないと誓います。私はただ……個人的に、あのアコギの設計がどういう結末を迎えるのか、その『真実』を知りたいだけなんです」
七尾さんは、長坂さんのまっすぐな瞳をじっと見つめた。
彼女の目には、一点の曇りもなかった。ただ純粋に、かつて敬愛した先輩の遺した夢が、どうやって形になるのかを見届けたいという、技術者としての、そして一人の人間としての誠実さだけがそこにあった。
「もし、七尾さんがその設計図を開くときが来たら。もし、誰かの助けや、設計を読み解くための論理的な理解が必要になったら、いつでも連絡をください。私は、伊吹さんの設計の考え方を理解できる、数少ない人間の一人です。七尾さんが設計図を読むとき、誰かに確認したいことがあれば、中標津でも、長野でも、どこにでも手伝いに行きます。伊吹さんの設計を完成させたいと思う人がいるなら、私はその人の隣で、図面を引く。それだけです」
七尾さんは、しばらくの間、長坂さんの顔を黙って見つめていた。
その瞳の中には、さまざまな感情が去来しているようだった。後悔、自責、そして、かつて共に夢を追いかけた親友の影。
やがて、七尾さんはゆっくりと、深く、頭を下げた。
「……ありがとうございます、長坂さん。本当に」
それは、とても小さな声だったけれど、私が中標津に来てから聞いた七尾さんの言葉の中で、一番深く、彼の本心の奥底から響く、本物の声だった。
午後四時を過ぎる頃、長坂さんは「それじゃあ、そろそろ戻ります」と席を立った。
私たちは玄関の外まで彼女を見送りに出た。
中標津の、どこまでも続く真っ直ぐな砂利道。防風林の向こうに沈みかけた夕陽が、彼女のコンパクトカーのフロントガラスを赤く染めている。
「七尾さん、また連絡します。橋本さんも、七尾さんをよろしくお願いしますね」
「はい。お気をつけて」
長坂さんは車に乗り込み、静かに走り去っていった。
夕暮れの、長い影を引きずりながら、彼女の車が牧草地の向こうへと消えていくのを、私たちは並んで見送った。
長坂さんが見えなくなると、七尾さんは何も言わずに、玄関から作業室へと直接入っていった。
そして、すぐにまた、勝手口から外へ出る音が聞こえた。
また、煙草を吸いに行ったのだ。
今日だけで、彼は一体何本のアメリカンスピリットを灰にしたのだろう。彼の張り詰めた心が、その煙と共に、少しでも中標津の広い空に溶けていけばいいのに、と私は願わずにはいられなかった。
私は一人、リビングへ戻った。
誰もいないダイニングテーブルの上には、あの紺色の手帳が、ぽつんと残されていた。
角の丸くなった、使い込まれた手帳。
『ナナオへ』という書き出しのページが、その中にある。
七尾さんは、それを読まなかった。まだ、読むことができなかったのだ。その手帳を開くことは、あまりにも重く、恐ろしいことに違いなかった。
トントン、と、小さな足音がして、どこからともなくカンナが現れた。
カンナは軽やかな身のこなしでテーブルの上に飛び上がると、迷うことなくその紺色の手帳の前に歩み寄った。
そして、手帳の匂いをふんふんと嗅ぎ、その上に前足をちょこんと乗せると、くるりと器用に一回転して、手帳を包み込むようにしてその上で丸くなった。
手帳の上で、カンナが静かに寝ている。
まるで、かつてそこに座っていた誰かの温もりを、その小さな体で守ろうとしているかのように。
私は、その様子をしばらく黙って見つめていた。
それから、ゆっくりとポーチへ出た。
夜の帳が下りた中標津の空気は、驚くほど冷たかった。
思わず腕を組み、肩をすぼめる。
見上げた夜空は、どこまでも広く、圧倒的な数の星が瞬いていた。東京にいた頃には、決して見ることのできなかった、吸い込まれそうなほどの満天の星。
中標津の夜はいつも星が綺麗だが、今夜は特に、一つ一つの光が鋭く、多く見える気がした。
牧草地の向こう、漆黒の闇の中に、ぽつんと小さな、赤い火が揺れているのが見えた。
七尾さんの、煙草の火だ。
彼は、あの暗闇の中で、一人で星を見上げながら、何を思っているのだろう。
私は、静かに息を吐いた。白い息が、夜気の中でうっすらと象られた。
――私は、ここにいる。
旭川に行くことを断り、この場所を選んだ。
その選択の理由や、伊吹さんの遺した夢の行方。それらの答えをすべて言葉にするのは、きっと、もう少し先でいい。
今はただ、あの不器用で、ちゃらんぽらんで、けれど誰よりも傷ついた師匠のそばで、冷たい風に吹かれながら、静かにその時を待っていようと思った。




