第19話 薪ストーブの煙、届かなかった声
十月になると、中標津の空気は本格的な冬の匂いを帯び始める。 朝、布団から出るのが少しずつ億劫になり、吐き出す息がはっきりと白さを増していく頃、七尾工房では古い鋳鉄製の薪ストーブを使い始める。
「最初の火はさ、毎年ちょっとした儀式みたいなもんだからね」
七尾さんはそう言って、前日から準備しておいた白樺の細薪を、手斧の背を使ってさらに細かく割り、着火材の上に井桁に組んでいく。マッチの火を近づけると、乾いた白樺の樹皮がパチパチと音を立てて爆ぜ、オレンジ色の小さな炎がゆっくりと、しかし力強く育っていった。 煙突のジョイント部分から、うっすらと青い煙が中標津の冷たい秋空へと吸い込まれていく。工房の隅々にあの独特の、甘く、少し焦げたような温かい薪の匂いが戻ってくると、ああ、今年も厳しい冬がすぐそこまで来ているのだと、私は胸の奥を静かに引き締められるような思いがする。
その日、私は午前中から物置の整理の続きをしていた。
九月に一度やりかけて、長坂さんが松本から来たり、いろいろな出来事が重なって途中で止めていた作業だった。 物置は、普段締め切っているため、この季節になると外とほとんど変わらない冷気が足元から容赦なく這い上がってくる。私はウールのセーターの上に、少し汚れてもいい厚手のワークジャケットを羽織り、吐く息を白く染めながら、奥の棚の上に積まれた古い書類の束を一つずつ手にとって分類し、クリアファイルに入れていく作業を繰り返していた。
棚の奥には、何年も前の色褪せた仕入れ伝票や、すでに廃業してしまった本州の木材業者の古いカタログ、そして、七尾さんが裏紙やメモ帳にフリーハンドで書き殴った、不器用な作業メモがうずたかく積まれていた。 七尾さんの書く字は、まるで木目の節のように潰れていて最初はほとんど解読できなかったが、一年近くここで彼の背中を見て過ごすうちに、今では「ナラ 三寸」「接合部 コンマ二ミリ逃がす」といった細かな意味まで、淀みなく読み取れるようになってきている。それが、自分が少しずつこの工房の歴史の一部になりつつある証拠のようで、不意に小さな誇らしさが胸を満たした。
棚の最上段の整理を終え、床に置かれた重い段ボール箱を少し脇へ動かそうとした、その時だった。
バランスを崩したのか、隣に不規則に積まれていた古い段ボールの山が、ズササ、と低い音を立てて崩れ落ちた。 それは、七月に上杉さんが「実家の建て替えで見つかったから、七尾くんに持っていてもらいたい」と、東京からわざわざ持ってきて置いていった、伊吹敦さんの遺品の入った段ボールだった。
崩れた勢いでフラップが開き、中から一冊のファイルが滑り出て、埃っぽい床の上にペタンと音を立てて落ちた。
私は腰をかがめ、そのファイルを両手で拾い上げた。 表面に薄く積もった埃を、手のひらで優しく払う。そして、元の箱に戻そうとして――私の指先が、完全に硬直した。
半透明の硬い表紙の上、色褪せた黒い鉛筆の筆跡で、殴り書きのような、しかしどこか意志の強い文字が残されていた。
《Atsushi Ibuki アコギ設計案③》
私はそのファイルを胸に抱えたまま、物置の薄暗い光の中で、しばらく立ち尽くしていた。 実は、七月に上杉さんが置いていった直後、私はこのファイルの中身を一度だけ、ほんの少しだけ盗み見てしまっていた。それが、亡くなった伊吹敦さんの遺した、アコースティックギターの革新的な内部構造を描いた未完成の設計図であることも、右下に『Atsushi Ibuki』という美しいサインが記されていることも、私は知っていたのだ。 けれど、あの時はあまりの歴史の重みと、それを託された七尾さんの張り詰めた表情を見て、誰にも言わずに見なかったことにしようと決めていた。物置のいちばん奥深い場所にそっと戻し、自分の記憶からも無かったことにしようとしていた。
けれど今、十月の冷たい空気の中で、そのファイルは再び私の手の中に落ちてきた。 これは、単なる私の不注意による偶然なのだろうか。それとも、あの雨の夜に途絶えてしまった親友の夢が、私を呼んでいるのだろうか。
私はゴクリと唾を飲み込み、意を決してファイルを開いた。
中には、極細のシャープペンシルで描かれたと思われる、極めて緻密なギターの断面図や、ボディ内部の力木の配置パターンが何枚も重ねられていた。 余白には、びっしりと数字や計算式、そして「木を殺さないために」「表板の振動をここで一度受け流す」「裏板の厚み、コンマ二ミリの調整」といった、伊吹さんの走り書きのメモが日本語と英語で書き残されている。 その筆跡の生々しい熱量は、十年の歳月を経てもなお、紙の裏側から指先へと伝わってくるようだった。
どれくらいの時間、その図面を見つめていただろう。 私は静かにファイルを閉じ、物置のドアを開けて外へ出た。
一階の作業室では、七尾さんが黙々と鉋がけをしていた。 シュッ、シュッ、と、美しく薄い鉋屑が床に落ちていく。私が入っていっても、七尾さんは顔を上げなかった。
「七尾さん」
「どしたの?」
七尾さんは鉋を引く手を止めずに、いつもの調子で低く応えた。
「少し、話してもいいですか」
その言葉のトーンに、いつもと違う何かを感じたのだろう。七尾さんは鉋を台の上に静かに置き、ゆっくりと顔を上げた。 私の両手に抱えられた、あの紺色に近いファイルの表紙を見た瞬間、彼の瞳の奥が、一瞬だけ鋭く揺れたのを、私は見逃さなかった。
「どうぞ」
私たちは、リビングへ向かった。 ストーブの熱が、リビングの隅々にまで行き渡っていて、身体の強張りが少しずつ解けていく。七尾さんは、いつものように白い合皮ソファの左端に腰を下ろした。 私も、いつの間にかこの工房に来てから、そのソファの右端にしか座らなくなっていたのだが、その日はなんとなく、七尾さんと少し距離を置き、対等に向き合うために、ダイニングチェアを引いてきてそこに腰掛けた。 カンナがどこからともなくトコトコと現れ、ソファの背もたれの上にひらりと飛び乗り、私たちの様子を窺うように定位置に収まった。
「物置で、段ボールを整理していたら、箱が崩れてしまって」
「はい」
「伊吹さんの、設計図が、落ちてきました」
七尾さんは何も言わなかった。ただ、じっと私の言葉を待っていた。
「実は、九月にも一度見ました。長坂さんが来られるより前に。あのとき誰にも言えなくて……今日、またこうして落ちてきて、見てしまって。それを黙ったまま、何もない顔をしてここで作業を続けることは、私にはできませんでした」
リビングには、息が詰まるほどの静寂が流れた。 ストーブの中で、白樺の薪がパチ、パチ、と小さく爆ぜる音だけが、不規則に響いている。 怒られるだろうか、あるいは、また冷たく突き放されるのだろうか。私は膝の上のファイルを固く握りしめ、七尾さんの言葉を待った。
「見ましたか」 七尾さんの声は、私を責めるようなものでは決してなかった。むしろ、どこかひどく穏やかな、静かな響きだった。
「見ました。アコースティックギターの設計図だということはわかりました。内容は、私にはまだ読めていないです」
七尾さんはソファの左端で、膝の上に両手を置いたまま、しばらくの間、微動だにしなかった。 やがて、彼はふっと細い息を吐き出すと、少しだけ目元を和らげて言った。
「あれはすごいよ? 職人を目指すなら、しっかり見ておいた方がいい」
「え……」
「伊吹の設計はさ、理屈っぽくて細かくて、当時の職人たちからは煙たがられることもあったけど、完璧なんだ。木がどうやって振動して、どうやって空気を震わせるか、あいつは頭の中で全部見えてた。ギター職人に限った話じゃなくて、もの作る職人目指すなら、ちゃんとしたものを見ておいた方がいい。だから、アユムさんがそれを面白いと思うなら、いくらでも見るといいよ」
それだけ言って、七尾さんはまた黙り込んでしまった。
七尾さんは、ソファの座面の真ん中を、一度だけ見た。 そこには、かつて十年前、親友の伊吹敦さんがいつも座っていた、薄い窪みの跡がある。長い時間、同じ場所に座り続け、共にギターの未来を語り合った人の、消えない跡。 七尾さんはその真ん中の席を愛おしそうに見つめた後、ゆっくりと視線を落とした。
「伊吹が事故にあう直前の話、してもいいですか」
七尾さんが、ポツリと言った。 彼が自ら、十年前の「あの夜」の出来事について切り出してきたのは、私がここに来てから、これが本当に初めてのことだった。
「聞かせてください」
「伊吹が死んだ、夜のことなんだけど」 七尾さんは、シャツのポケットから黄色いアメリカンスピリットを一本取り出し、指の間に挟んだ。けれど、お気に入りの真鍮のライターに火をつけることはしなかった。ただ、煙草を指先でゆっくりと、愛おしそうに回している。
「あいつが死んだ夜、俺に電話があったんだよ。夜の八時過ぎに。伊吹から」
「……」
「出れなかったんだ。そのとき、俺はいつものように、仕事が終わって近くの温泉に行っててさ。スマホは脱衣所のロッカーの中にあった。今もそうだけど、俺、温泉やらサウナ入ってるときは1時間くらい入ってるからさ」
部屋の空気が、かすかに揺らいだ。 私は、彼の言葉を一言も聞き漏らさないように、静かに耳を傾けた。
「ロッカーからスマホを出して、着信に気づいたのが九時頃かな。俺もあいつも滅多なことがないと電話なんてしないんだよ。何か急ぎの用事かなと思って、すぐに折り返しの電話をしたんだけど……もう、留守電になって繋がらなかった。」
七尾さんは、煙草をじっと見つめたまま、声を震わせることもなく、淡々と事実だけを語った。それが、かえって彼の十年の自責の深さを物語っているようで、私の胸を締め付けた。
「翌朝、警察から連絡が来た。伊吹が道路脇で見つかったって。ひき逃げだった。夜のうちに、自転車で近所のコンビニ行った帰り道なんじゃないかな?撥ねられたらしい。折り返した電話をくれた時間と、実際の事故の時間には少しズレがあったんだけどさ……もし、あの八時過ぎの最初の電話に、俺が出ていられたら。あいつが何かを話して、事故のあったあの時間に、あの場所を通ることはなかったんじゃないか? って、ずっと思ってる」
煙草を回す七尾さんの指先が、微かに震えていた。
「伊吹から、そんな夜に電話が来るのって、普段は本当に珍しかったんだよ。大抵は作業場で顔を合わせてるときに話すからさ。あの日、あいつが何の用事で電話してきたのか、今でもわからないんだ」
「何の電話だったのか……わからないんですか」
「うん。それが一番、堪えるんだよね。新しい設計のアイデアだったのか、ただの世間話だったのか、世間話はまず無いと思うんだよなぁ。出ていれば、と思う。ずっと思ってる。」
私は、何か言葉をかけようとしたが、どうしても適切な言葉が見つからなかった。 「あなたのせいじゃない」とか、「事故は避けられなかった」とか、そんな安易な言葉は、彼の十年の痛みの前では、あまりにも軽すぎて、口にすることすら躊躇われた。
「設計図のことも、そこから来てる。伊吹が完成できなかったのは、もちろん俺のせいじゃない。でも、あいつの隣にいた俺が、あいつの夢を形にしてやらなきゃいけないって思ってる。それが、俺にできる唯一のことなんじゃないかってね。それが正しいことなのかどうかは、俺にもわからない。ただ、そう思って、ここで一人で木を削り続けてきたんだよ」
「一人で、やろうとしてきたんですか」
「一人でやるしかなかった。誰かに頼む話じゃないからね。俺と、伊吹の間のことだから」
七尾さんは、火のついていない煙草を灰皿の上にそっと置いた。
「でも」と、私は言った。 「長坂さんが来ました。伊吹さんの設計の考え方を論理的に理解できる人が、『隣にいたい』と言ってくれた」
「そうだね」
「上杉さんも、あの設計図を大切に保管して、わざわざここまで持ってきてくれた」
「そうだね」
「私も、こうして見てしまいました」
七尾さんはゆっくりと顔を上げ、私をまっすぐに見つめた。 その瞳は、十年の深い闇から、ほんの少しだけ光の方へ向けられたような、微かな揺らぎを湛えていた。
「みんな、同じ場所に集まってきてるんです。伊吹さんの遺した夢の周りに、自然と引き寄せられるようにして」
七尾さんはしばらく、私の顔をじっと見ていた。 何かを確かめるような、静かで、深い目だった。 やがて、彼はふっと肩の力を抜いて、いつもの飄々とした笑みを少しだけ浮かべた。
「アユムさんは、木工を続けるつもり?」
「はい」
「ここで?」
「ここで。七尾さんのそばで、もっと技術を学びたいです」
七尾さんは視線を、ソファの真ん中へと落とした。かつて親友が座り、今もその温もりのような窪みが残る、あの場所を。
「伊吹が生きてたら、たぶん、アユムさんみたいな生真面目な弟子を面白がって、毎日からかってただろうな」
それは、七尾さんなりの、私に対する最大の受け入れの言葉だった。 私は胸の奥が熱くなり、ただ静かに頷いた。
ソファの背もたれの上にいたカンナが、ふにゃあ、とあくびをしながら、軽やかに座面に下りてきた。 そして、いつものように、ソファの真ん中のあの窪みの上で、くるりと丸くなり、気持ち良さそうに目を閉じた。
伊吹敦さんがいつも座っていた場所に、茶トラの猫が、丸くなって眠っている。 私たちはそれを黙って見つめていた。 ストーブの中の白樺の火が、静かに、優しく、ログハウスの部屋を温め続けていた。 外からは、冬を運ぶ乾いた冷たい風が、防風林を揺らす音が聞こえていた。




