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七尾工房、開店休業中  作者: 七尾 拓哉


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20/20

第20話 春待つ風と、二つの看板

その特別なギターがようやく完成を迎えたのは、翌年の三月の終わりのことだった。




 道東の三月は、暦の上では春であっても、本州のそれとはまったく異なる。




 積もり積もった雪はまだいたるところに高く残っており、日中の日差しでわずかに溶けた表面が、夜のしばれによって再びカチカチに凍りつく。道路の脇には、泥と混ざり合って灰色に汚れた雪の塊がうずたかく積まれ、吹き抜ける風は依然として肌を刺すように冷たい。それでも、牧草地を覆う白い布団のあちこちから、ぽつぽつと黒い地面が顔を覗かせるようになり、空の青さが冬の間の硬質なそれから、少しだけ潤んだ柔らかな色へと変化していく。そんな、ゆっくりとした、しかし確実な季節の歩みの中で、私たちは一つの奇跡に向かって走り続けていた。




 伊吹敦さんの遺した設計図を形にするため、長坂さんは都合三度、この中標津の地を訪れた。




 一度目は、十月の終わりの、まだストーブの火が珍しかった頃だ。物置から見つかった設計図のファイルをリビングのダイニングテーブルに広げ、七尾さんと長坂さんは何時間も議論を交わした。伊吹さんの独特な三次元的ブレーシング(表板の裏側に貼る補強用の木組み)の意図を読み解くため、長坂さんは持参したノートパソコンで解析データを提示し、七尾さんは長年の職人としての直感で「ここをこの角度で削ると、木の繊維が耐えられない」と応じた。二人が言葉を交わすたび、設計図の上に新たな赤ペンでの書き込みが増えていった。




 二度目の来訪は、厳しい寒さが極限に達した一月のことだった。製作に使用する木材、すなわち「材」の選定を行うためだ。七尾さんが九鬼楽器から独立する際に持ち帰り、この工房の乾燥室で十年間じっくりと寝かせていた、シトカスプルースの表板と、最高級のローズウッドの裏板。長坂さんはそれらを一枚ずつ手にとり、指の背で軽く叩いてその響きを確かめた。




 「素晴らしい材ですね。十年間、中標津の厳しい寒暖差をくぐり抜けてきたことで、木の繊維が完全に安定している」




 長坂さんは感嘆の息を漏らし、七尾さんは「ただ放置されてただけですよ」と照れくさそうに煙草に火をつけていた。




 そして三度目は、すべてのパーツが切り出され、いよいよ最終的な組み上げの確認を行う二月の終わりだった。ギターのボディを接合するクランプの締め具合、ネックとボディの仕込み角度の微調整。寸分の狂いも許されない緊張感に満ちた作業が続いた。




 私は、その一連の工程を、一番近くで見守り続けていた。




 私がこのプロジェクトのためにやったことは、木工の専門的な仕事ではなかった。私はまだ、鉋をまっすぐに引くことすら完璧にはできない半人前の弟子に過ぎないからだ。




 その代わり、私は自分の得意な分野で二人の力になろうと決めていた。




 長坂さんとの複雑なディスカッションの中で飛び交う専門用語や仕様変更のアイデアを、すべて一冊のノートに整理して記録し、デジタルデータに起こして共有した。七尾さんの他の仕事のスケジュール管理や材料の発注状況を管理し、細かな工程ごとの費用をエクセルで算出するようにした。




 そして、二人が作業室にこもり、乾燥による木材の狂いを防ぐために湿度管理された加湿器の音が響く中、息を詰めて作業しているときには、絶妙なタイミングで淹れたてのホットコーヒーをそっと差し入れた。




 「ありがとう、アユムさん。助かるよ」




 そんなたいしたことではない役割だったかもしれない。けれど、作業の合間に七尾さんからそう言われたとき、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。普段は適当なことばかり言っている男が、私の顔をまっすぐ見てそう口にしたとき、そこには嘘や社交辞令は一切含まれていないことが分かったからだ。元コピーライターとして、私は人の言葉の「本気度」を見極めることだけは長けているつもりだった。




 そして、その日は突然やってきた。三月の、本当に終わりの夜だった。




 長坂さんは数日前に組み上げの確認を終え、「あとは七尾さんの手で、最後の魂を吹き込んでください」と言い残して長野へと戻っていた。




 夜の九時を過ぎた頃、私はリビングで、本を読んでいた。作業室からは、先ほどまで、金属製の糸巻き(ペグ)をヘッドに取り付けるための、小さなネジを回すかすかな音が聞こえていた。




 しかし、不意にその音が止み、工房全体が静まり返った。




 機械の作動音も、道具が擦れる音も、一切聞こえない。ただ、薪ストーブの中で白樺の薪が小さくはぜる音だけが、等間隔で響いている。




 私は、本を閉じ、そっと立ち上がった。




 リビングから作業室へと続く戸を、音を立てないようにゆっくりと開けてしまった。




 作業室の中央、天井からの作業用ライトが丸い光を投げかけるその場所で、七尾さんは一人、作業用の椅子に腰掛けていた。




 彼の膝の上には、一本のアコースティックギターが乗せられていた。




 塗装が施されず、木肌のままの、しかし恐ろしいほどに美しい曲線を持ったギター。六本の金属弦が張られ、ペグのゴールドの輝きが、薄暗い部屋の中で静かに光を反射している。七尾さんは、弦を張り終えたばかりのその楽器を、ただ両手で抱えるようにして、じっと見つめていた。まるで、生まれたばかりの我が子を腕に抱く父親のように、あるいは、十年の歳月を経てようやく再会できた旧友の肩を抱くかのように。




 「……七尾さん」




 私は、声をかけるべきか迷ったが、静かにその名前を呼んだ。




 七尾さんは驚いた風もなく、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、いつものちゃらんぽらんな笑みを完全に消し去り、どこか厳かで、それでいて憑き物が落ちたような、信じられないほど穏やかなものだった。




 「あ、アユムさん」




 「完成……したんですか」




 「うん。たった今、チューニングし終えたところです」




 七尾さんは、ギターのボディをそっと撫でた。




 「音出してみますか」




 「はい、ぜひ」




 七尾さんはギターを抱えたまま、リビングのソファへと移動してきた。




 どこからともなく、カンナが足音もなく現れた。ソファの背もたれの上に器用に飛び乗ると、私の頭の後ろで静かに香箱を組み、その大きな琥珀色の目で七尾さんの手元をじっと見つめた。まるで、これから始まる特別な演奏を、誰よりも理解しているかのように。




 七尾さんが、大きな手の指先を、六本の弦をチューニングしている。




 「・・・ぼちぼちだな」




 そして、最初の一音――豊かな、深い響きを持つコードを、爪先で静かに弾いた。




 ――その瞬間、私は思わず背筋をピンと伸ばした。




 音が、部屋の空気を一瞬にして塗り替えたのだ。




 楽器の知識が乏しい私であっても、それが普通のギターとはまったく異なる異質な音色であることは、すぐに理解できた。何が違うのか、言葉の専門家であるはずの私にも、正確な表現が見つからない。




 音量が爆発的に大きいわけではないのだ。けれど、音が鳴ったその瞬間の後、響きが消えていかない。普通なら壁や天井に吸い込まれてすぐに消衰していくはずの残響が、いつまでも、いつまでも部屋の中に留まり、私たちの周囲をぐるぐると優しく巡っているような感覚。




 それはまるで、工房に立ち込める白樺の匂いや、木の温もりそのものが、音という目に見えない形になって部屋中を動き回っているかのようだった。




 七尾さんはそのまま、指を止めることなく次々とコードを移行していった。




 私は彼がギターを弾けることはもちろん知っていた。けれど、アコースティックギターをこれほどまでに繊細に、そしてエモーショナルに弾きこなす人だとは、今の今まで知らなかった。




 彼の指先は、迷うことなく複雑な指板の上を滑り、弦を弾くタッチは驚くほどに正確だった。音と音のあいだに、無駄な隙間が一切ない。何年も、何十年も、人生のすべての時間を楽器とともに過ごし、木と金属の対話を続けてきた人だけが持つ、圧倒的な説得力がそこにはあった。




 私は、彼が長野の九鬼楽器で過ごしたという十年の歳月に想いを馳せていた。




 どれほどの木を削り、どれほどの弦を張り、どれほどの音を聴いてきたのだろう。その途方もない時間の積み重ねが、今、この中標津の静かな夜の中で、美しい旋律となって結実している。




 七尾さんは、いくつかの短い即興のフレーズを弾いた後、最後の一曲として、ゆっくりとした、どこか哀愁を帯びたメロディを奏で始めた。




 それは、どこかで聞いたことがあるような、しかしどこにも存在しない、とても切ない曲だった。もしかしたら、伊吹さんが生前、よく好んで口ずさんでいた旋律なのかもしれない。私はその音楽を、言葉を失ったまま、ただただ黙って全身で受け止めていた。




 最後の一音が、薪ストーブの暖かな空気の中に溶けていくようにして消えた後も、私たちはしばらくの間、言葉を発することができなかった。七尾さんは、ギターのネックを左手で軽く握ったまま、うつむくようにしてじっとしていた。




 「……どうなのよ?アユムさん」




 沈黙を破り、七尾さんが掠れた声で私に問いかけた。




 「音が、本当に部屋の中に残り続ける感じがしました」




 私は、自分の胸の鼓動を確かめるように、静かに言葉を紡いだ。




 「普通のギターは、音が鳴った瞬間に離れていってしまうような気がするんです。でも、このギターは違いました。音が鳴った後も、ずっと私たちの隣にいて、優しく語りかけてくれているような……。素人の私でもはっきりと分かるくらい、特別な音がしていました」




 七尾さんは、私の言葉を聞くと、嬉しそうに、そして少し誇らしげに口元を緩めた。




 「そう聞こえましたか。よかった」




 彼は、ギターの白木のボディを、壊れやすいガラス細工を扱うように指先で撫でた。




 「伊吹の設計の核心が、まさにそこなんだろーね。一般的なブレーシングの常識を覆して、独自の幾何学的な配置にすることで、表板の振動の減衰を極限まで遅くする。木が本来持っている、響き続ける力を限界まで引き出す。あいつは、演奏者が音を奏でた後、その余韻の中で次のイメージを膨らませるための『間』を作りたかったんじゃないかな?今日の音を聴いて、あいつの目指した方向が間違っていなかったと、確信できた」




 「……完成、ですね」




 私がそう言うと、七尾さんは少しだけ間を置いてから、首を横に振った。




 「いや、一旦は、完成です」




 「一旦、というのは?」




 「これはあくまで、設計図をそのまま忠実に再現した『試作第一号』だからね。まだこれから長坂さんに塗装してもらわないとだし。ギター職人の間で格言?みたいに言われてることがあるんだけど・・・」




 七尾さんは、ギターを自分の体に引き寄せるようにして立てた。




 「どういう意味なんですか、それ」




 「海外の職人たちがよく言うジョークみたいなものかな。完成直後のギターって、実はガッカリするほど硬くて、本来の音がしないことが多いんだよ。それに絶望して手首を切りかねないから、近くに刃物を置くなってことらしいよ。木がまだ馴染んでいないからね。これから塗装をして、一ヶ月から三ヶ月くらい毎日しっかり弾き込んでやって、やっとそのギター本来の音が引き出されるんだ」  





七尾さんはそう言いながら、またぽろんとコードを爪弾いた。




 「だから、これからが本当の職人の仕事なんだよ。この基本構造を元にして、さらに音を掘り下げていかなければならない。もし、表板をスプルースから別の木に変えたら、この響きはどう変化するか。ブレーシングの幅をコンマ数ミリ削ったら、音の立ち上がりはどうなるか。塗装の厚みや、塗料の種類で、この減衰の速度はどれくらいコントロールできるか……。実験し、検証し、あいつが頭の中で鳴らしていた『理想の音』に限界まで近づけていく。その果てしない作業が、これから始まるんです」




 「それは……気の遠くなるような、これからの長い道のりですね」




 「だね。時間がかかる。数年、あるいは一生かかるかもしれない」




 七尾さんは、まっすぐな目で私を見つめた。  「アユムさんが、この工房にいる間に、すべての答えが出るかどうかは分からんよ」




 「知ってます」




 私は、少しだけ意地悪く微笑んで見せた。




 「でも、たとえ私がいる間に終わらなくても、その続きを、ここで一番近くで見届けたいんです。」




 七尾さんは何も言わなかった。




 ただ、ふっと目元を和らげ、それから嬉しそうに小さく鼻を鳴らした。その無言の仕草は、どんな言葉よりも確かな、私に対する信頼と「よろしく頼む」という了承の意志に満ちていた。




 ソファの背もたれから、カンナが軽やかに降りてきた。




 カンナは、七尾さんの足元にちょこんと座ると、まだかすかに余韻を残しているギターのサウンドホールに鼻先を近づけ、クンクンと匂いを嗅いだ。まるで、そこに本当に伊吹さんの魂が宿っているかどうかを、自らの嗅覚で確かめているかのようだった。その微笑ましい様子を見て、私たちの中には自然と、暖かな笑いが満ちていった。




 その夜、七尾さんは明日にでも上杉さんと長坂さんに、無事に音が出たことを連絡すると言った。私は「お疲れ様でした」と告げて、二階の自分の部屋へと階段を上がった。




 一歩一歩、階段を踏みしめるたびに、一階から漂ってくる白樺のストーブの匂いと、新しく削られた木材の香りが、いつもよりいっそう濃く、私の鼻腔を満たしていくのを感じた。




 この匂いが、これからの私の人生の「ベース」になるのだと、改めて確信しながら。






 翌朝、窓から差し込む淡い光で目が覚めた。




 枕元の時計を見ると、まだ朝の七時を少し回ったところだった。冬の終わりの朝は、空気が凛と冷え切っている。私は急いで厚手のフリースを羽織り、一階へと降りていった。




 そこで、私は奇妙な違和感を覚えた。




 静まり返っているはずのキッチンから、コトコトと静かな音が聞こえ、それと同時に、香ばしいコーヒーの匂いがリビングに漂っていたのだ。




 七尾さんは朝が極端に弱い。彼が九時前に布団から這い出てくることなど、これまでで片手で数えるほどしかなかった。それが、私よりも先に起きて活動している。




 台所を覗くと、誰もいなかった。けれど、カウンターの上には、淹れたてのブラックコーヒーが注がれたマグカップが二つ、湯気を立てて並んでいた。一つには、私のために淹れてくれたのだとすぐに分かった。




 私は、自分の分のカップを手に取り、リビングを横切って玄関の引き戸を開けた。




 外に出ると、頬を刺す冷たい朝気の中に、七尾さんの後ろ姿があった。




 彼は、黄色いパッケージのアメリカンスピリットを指に挟み、紫色の煙を朝の光の中にくゆらせながら、工房の入り口、道路に面した看板の前に立ち尽くしていた。




 「七尾さん、おはようございます。珍しいですね、こんなに早く起きるなんて」




 私が声をかけると、七尾さんは振り返り、煙草をくわえたまま、ふっと片手を上げた。




 「あ、アユムさん。おはよーございます。ちょっと、これ、見てよ」




 七尾さんが顎で示した先――工房の入り口の看板へと、私は視線を向けた。




 そこには、昨夜までは存在しなかった、新しい「光景」が生まれていた。




 十年の歳月を経て、雨風にさらされて渋い灰色に変色した「七尾工房」の木製看板。




 そのすぐ隣に、ほぼ同じ大きさの、新しい板がもう一枚、地面にしっかりと突き立てられて並んでいた。




 それは、切り出されたばかりの、美しい杉の板だった。




 表面には、のみと彫刻刀を使って、一文字ずつ丁寧に、しかしどこか手作りの温かさを残した筆跡で、文字が深く彫り込まれていた。




 《橋本工房》




 私は、カップを持ったまま、その文字をしばらくの間、ただ凝視していた。心臓の鼓動が、静かに早くなっていくのが分かった。




 「これ……いつ、作ったんですか」




 「昨日、ギターの組み上げの最終段階に入ったときさ。接着の待ち時間が結構あってね。暇だったから、裏の物置にあった杉の端材を引っ張り出して、合間に彫ってたんだよ」




 「全然、気づきませんでした」




 「サプライズってやつだよ」




 七尾さんは、悪戯が成功した子供のように、嬉しそうに目を細めて笑った。




 二つの看板が、まだ低い角度から差し込む朝の光の中で、並んで立っていた。




 片方は、十年の歴史を刻み、中標津の厳しい自然を耐え抜いてきた、深い灰色の「七尾工房」。




 そしてもう片方は、まだ何の塗装も施されず、削りたての白い木肌と杉の甘い香りを漂わせている、まっさらな「橋本工房」。




 どちらの文字も、ニスやオイルによるコーティングはされていなかった。




 あえて塗装をしていない理由は、この工房で毎日を過ごしてきた私には、尋ねるまでもなく理解できた。




 これから、ここで私たちが共に過ごす時間の中で、中標津の冷たい雨に打たれ、夏の強い紫外線にさらされ、冬の凍てつく雪を被りながら、ゆっくりと時間をかけて「この土地の色」に染まっていく。使われ、愛されながら、年月と共に風合いを変えていくための、あえての無塗装なのだ。




 「……いいんじゃない?」




 七尾さんは、短くなったアメリカンスピリットを携帯灰皿に押し込みながら、満足そうに言った。




 「ええ」




 私は、温かいコーヒーを一口含み、胸の奥に広がる熱を確かめながら、深く頷いた。




 「最高に、いいですね」




 牧草地の向こう、まだ半分雪に覆われた白樺の梢のあたりで、一羽の野生の鳥が、春の訪れを告げるように高く、澄んだ声で鳴いた。




 二つの並んだ看板の文字が、中標津の眩しい朝の光を浴びて、どこまでも白く、そして眩しく輝いていた。






『七尾工房、開店休業中』




三月の終わりの、まだ少し肌寒い夜。


 リビングの薪ストーブの中で、細く割った白樺の薪がパチ、パチと静かに爆ぜている。ストーブのガラス窓の向こうで揺れるオレンジ色の炎が、部屋の壁に長い影を落としていた。  私はダイニングテーブルの上でノートパソコンを開き、管理画面を見つめていた。その横では、七尾さんがいつものように白い合皮ソファの左端に深く腰掛け、膝の上で丸くなっているカンナの顎の下を優しく撫でながら、温かいコーヒーをすすっている。




「七尾さん。これでひとまず、二十話分の投稿がすべて完了しましたよ」




「おお、お疲れ様でした、アユムさん。いやあ、よくまあ書ききったねえ。十三万文字!?俺のこんなちゃらんぽらんな日常なんて書いて、途中で飽きたりしなかった?」




「半分くらいは、七尾さんの朝の弱さと気まぐれに振り回された、私の静かな愚痴みたいなものですけどね」




 私は苦笑しながら、画面に並ぶ各話のタイトルをゆっくりとスクロールした。  最初の日、中標津空港の寂しいロータリーに、あの白いニュービートルで迎えにこられた日から、もうすぐ一年が経とうとしている。思い返せば、あの時の私は東京での仕事にすり減り、ただ静かな場所へ逃げてきただけの、迷子のような存在だった。




「こうして振り返ると、本当に色々なことがありました。サワさんの古いセンの木の椅子のことや、釧路のライブハウスから持ち込まれた、アース線の切られた古いギターのこと」




「サワさんの椅子ねえ。あの不器用な旦那さんが直した歪な脚の跡、今思い出してもちょっと胸にくるよね。あと木下さんのギターも、ハンダを少し整えてやっただけで、今じゃ釧路でめちゃくちゃいい音鳴らしてるみたいだし」




 七尾さんはそう言って、灰皿の横に置いた黄色いアメリカンスピリットに手を伸ばした。カチリ、と真鍮のライターが鳴り、独特の匂いを孕んだ紫色の煙が、ストーブの光が揺れる薄暗い部屋の中にゆっくりと広がっていく。




「……それから、伊吹さんのこと」




 私がぽつりと言うと、七尾さんは煙を天井に向けて細く吐き出し、ふっと目を細めた。




「俺の長野時代の話なんて、よくあんなに綺麗にまとめたよね。自分で読んでて、ちょっと恥ずかしくなっちゃったよ。ご丁寧に書かれちゃってさ」




「事実ですからね。でも、だからこそ長坂さんや上杉さんが、あの大切な『点』をここに繋ぎにきてくれたんだと思います。昨夜、あの特別なアコギの音……私は、一生忘れません」




「だね。あいつの設計は、やっぱり間違ってなかった。これから何年もかけて、あの音を本物にしていくのが、俺の、これからの仕事だ」




 七尾さんは、窓の外の中標津の暗闇を見つめた。防風林の梢を揺らす風の音が、かすかにリビングまで届いている。




「で、アユムさん。これからどうするの? 小説のほうは。もう文豪じゃん。『アユム先生』って呼ばなきゃね」




「やめて下さい。これから、ですか?」




「ほら、せっかく『橋本工房』の看板も『七尾工房』の隣に並んだわけだし。読者の皆さんにも、この後のことを少しはお伝えしないと、寂しがるんじゃない?」




 私はキーボードを叩く手を止め、少し考えてから微笑んだ。




「そうですね。現状、PV100程度なので、読者さんがどれくらいいるのかはちょっと怪しいところなのですが……。次はどんなお話を書きましょうか。七尾さんは、何か良いアイデアはありますか?」




「そうだねえ……俺が昔、ビリヤードのインストラクター試験で、伝説的なショットを決めてギャラリーを沸かせた話とかどう? 結構盛って書いてくれていいからさ。天才ビリヤード職人・七尾拓哉、みたいな感じで」




「却下です。ノンフィクションの範囲を大幅に超えてしまいます。だいたい、今の七尾さんのちゃらんぽらんな姿から、そんなかっこいいシーンは読者の誰も求めてませんよ」




「失敬だなぁ。インストラクター試験ってけっこう大変なんだよ? じゃあさ、あーちゃんが普段、あの大きなヘッドフォンで一体何の音楽を聴いているのかを、俺たちが一週間かけて尾行して突き止める『日常の謎』ミステリーとかさ。タイトルは『ヘッドフォンの向こう側』で決まり」




「それはちょっと面白そうですけど……あーちゃんにバレたら、二度とこの工房に来てくれなくなりますよ」




「あ……それもそうだね。あーちゃん、怒るとマジで怖いからね。無言でノミとか飛んできそうだし……」




 七尾さんはあっけらかんと笑い、コーヒーカップをテーブルに置いた。




「やっぱり、私たちのこれからの日常を、少しずつですね」




 私は画面を見つめながら、静かに言葉を紡いだ。




「あのアコギの音が、毎日弾き込まれていくことで、どんな風に『馴染んで』いくのか。新しく立てたチェリーの看板が、中標津の厳しい雨風と雪に晒されて、どんな風に深い飴色に染まっていくのか。そして、私たちがここで、どんな風に木と向き合っていくのか。そういう地味で、でも何より誠実な時間を、また気が向いたときにボツボツと投稿できたらいいなと思っています」




「木を呼吸させる話~とかネタとしてはなんぼでもあるけど、本当に需要あるの? 世の中的にはさ、やっぱ『実はアユムさんがシリアルキラーで、中標津の工房を舞台にした大どんでん返しな密室連続殺人事件!』とかの方がウケが良いんじゃないの?」




「絶対に書きません。工房で密室殺人だなんて殺せる人、七尾さんしかいないじゃないですか。そんな血生臭い話、この工房の匂いに全く合いませんから」




「俺しか殺せないんじゃ、連続にならないね・・・」




 七尾さんはソファの真ん中で丸くなっているカンナの背中を、ぽんぽんと優しく叩いた。カンナは眠たげに「にゃあ」と一度だけ力なく鳴いて、また目を閉じた。




 「あ、じゃあさ、もうちょっとさ、中標津の観光地?北海道の名所みたいなとこをピンポイントで取り入れてもいいかもね?『成瀬は天下を取りにいく』みたいな感じならアユムさん、『中標津観光大使』みたいなポジション狙えるんじゃない?」




「観光大使~は置いておいて、中標津の美しい場所を登場させるとかはいいかもしれませんね。けど、七尾さん、行動範囲狭いじゃないですか」




 「もうちょい出歩いた方がいいのかい?」




 「もう少し考えて下さい。」




 「・・・『転生したら美女ギタリストのギターだった件』とか?」




 「・・・書くなら、七尾さん勝手に書いて下さい。」




 「小説書くって難しいんだね。アユムさん、やっぱすごいよ」




 「大変ですけど、書き始めると意外と書けますよ?」




 「……じゃあ、アユム先生。あとがきの最後に、読者の皆さんに挨拶書いておいてよ。俺、そろそろベース弾くかなー」




 「わかりました。コーヒーのおかわり、置いておきますね」




 「ありがと」




 七尾さんはベースを抱えて、階段を下りていった。しばらくして、一階から低くて温かいベースの音が、相変わらずの不器用な鼻歌とともに響いてきた。




 私はキーボードに指を置き、最後の文章を打ち込み始めた。




 ――読者の皆様へ。




 これまで『七尾工房、開店休業中』をお読みいただき、本当にありがとうございました。  中標津の厳しい寒さと、短い夏の匂い。そして、不器用な職人たちが紡ぐ静かな時間を、少しでも楽しんでいただけたなら、これ以上の喜びはありません。




 新しく並び立つ二つの看板とともに、私たちの物語は、これからもこの場所で静かに続いていきます。  またいつか、中標津の乾いた風が吹く頃に、皆様にお会いできるのを楽しみにしています。




 本日も七尾工房(&橋本工房)は、のんびりと開店休業中です。




 七尾拓哉(代筆:橋本歩)




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