第9話 “嫌”と言えちゃう私たち
「相手から条件を課される前に、こちらから妥協案を提示する」
ハルジオンが真剣な顔で言った。
「なるほど……」
私は間の抜けた返事しかできなかった。
そういう交渉ごとってよくわかんないや。
でも、ハルジオンがそう言うなら、それが一番良い方法なんだって思えてくる。
「だな。喧嘩は先手必勝!」
ソラリスが愉快そうに腕を上げた。
「これは喧嘩ではないが」
ハルジオンが冷ややかな視線を送る。
「僕は先手より後手の方が得意かな」
エンジュが微笑む。
「お前は後手後手に回ってんだろ」
「けっこう上手く回してるんだよ。君は知らないだろうけど」
「エンジュは本当に回りくどいのよ。待ってられないわ」
「ナナリエとソラリスはせっかち過ぎるんだよ」
「話が逸れているぞ」
ハルジオンが釘を刺した。
「その……私に常に同行してくれる人を決めるってことですか?」
私はおずおずと質問した。
完全自由じゃないんだという小さな落胆と、私の自由のために誰かを拘束する心苦しさが、腹の底に重く沈んだ。
「常にというわけではない。各地を移動するときに同行するのだ」
「審理前にこちらで人物を決めるのですか?」
「それがいいだろう」
「そうですか。では……」
ナナリエが上目遣いにハルジオンを見上げた。
「では、お兄様がアンリの監督責任者となるのですね?」
エンジュも、ソラリスも、そして私も。
納得するようにハルジオンを見つめた。
ハルジオンは大きく頷く。
「嫌だ」
え?
「え?」
みんな、たぶん耳を疑ったと思う。
ハルジオンはしまったという顔をして、言い直すように言った。
「絶対に嫌だ」
いやいや、言い直しても変わってないし。強調されてるだけだし。
「嫌ってなんですか!?」
「……いや」
「また嫌って言った!」
「いや、今のいやは嫌ではない。感嘆詞だ」
そういうことを聞いてるんじゃないんだよ!
「お兄様……」
ナナリエが震えながら立ち上がった。
その隣でハルジオンは気まずそうに目を逸らした。
「その……私には荷が重いというか、婚約解消したばかりの王族が法的手段を使って未成年の少女を監督下に置くのも外聞が悪いし……理由は様々あるが……つまり……嫌だ……」
すごい。こんな、しどろもどろの答弁もするんだ。
「お兄様!」
力強い腕でハルジオンの肩を掴んだ。
ナナリエが、私のために怒ってくれてる?
「……なんだ」
狼狽えるような目でようやくハルジオンはナナリエの顔を見た。
「嫌って言えるなんて、すごいです!」
えっ。
「認められないとか、合理的ではないとか、判断の言葉ではなくて、“嫌”なんて感情の言葉をお兄様の口から聞く日が来るなんて!」
ナナリエは何を興奮しているんだ。
「初めてかもしれない。いつも自分の嫌悪感すら後回しにするハルジオンがこんなに嫌がるなんて……」
エンジュが口を覆って涙ぐんでいる。
「け、嫌悪感……?」
私も泣きそうだ。そんなに嫌われてるの……。
「そんなに嫌なんだなー」
ソラリスが他人事のように笑っている。
私は傷ついている。
「成長しましたね、お兄様」
「成長したね、ハルジオン」
ナナリエとエンジュが立ち上がって喜んでいる。
成長って。
こんな完璧超人の大人に対して。
「ありがとう、アンリ!」
ナナリエが私の手をぎゅっと握った。
「な、なにが!?」
「お兄様に“嫌”を教えてくれて!」
「え……いや……」
“いや”。
今朝の夢を思い出した。
この身体の持ち主、十四歳の少女ヨルカ。
最初に「いや」と「いい」しか持っていなかった。
「いや」は生まれたばかりの人に備わる、とても原始的な感覚なんだと思う。
だから、大人になっても、なくしちゃいけないものなのかもしれない。
「とても大切な感覚よ!」
……それはそうかもしれないが。
やっぱりちょっと納得いかないぞ、私は!
「また話が逸れているぞ」
怒るハルジオンに、ナナリエとエンジュが顔を見合わせて喜んでいる。
気持ちを言語化できずに悶々とする私の耳に、ソラリスの静かな声が届いた。
「変なやつらだな」
笑っているようで、少しだけ輪の外から眺めているような響きだった。
気になって振り向くと、目が合ってしまった。
寂しそうな顔はしていなかった。
代わりに愉快そうな目で私を見返した。
「とにかく私は引き受けない。これだけは」
ハルジオンが立ち上がって、両手でそれぞれナナリエとエンジュの肩を叩いた。
「そんな……」
ナナリエが困ったように声を上げる。
その声に被せるように快活な声が重なった。
「じゃあ、俺がやってやる」
えっ。
なんで。
「どうしてあなたが?」
ナナリエがいち早く怪訝そうに聞いた。
「ちょうど今月で辞めるから」
「なにをですか?」
私が首を傾げると、ソラリスは顎でナナリエを指し示した。
「王国勤め。救難隊を外されてこの屁理屈女のお守りになったけど、辞めるわ」
「聞いてないわ。私だって、根拠も説明せずに勝手に行動する人の面倒は見たくない」
「全員を説得してたら、間に合うもんも間に合わねえだろ」
「……せっかく就いた王国の職を退くと言うのか」
「俺は国に思い入れなんてないから。残念だったな」
「残念、とは」
「お前がどんなに先読みしても、俺はお前の思い通りになんてならねえってことだよ」
「ソラリスは人に決められるのが我慢ならない子だからねえ」
エンジュが笑いを堪えるように小声で言った。
「子どもみたいに言うなよ」
「ええ?子どもの意固地みたいなもんでしょ」
「なるほどな。理解した」
ハルジオンが興味深そうに頷いた。
「何を納得してんだよ」
「次は正面から行くということだ」
「あー。勝手にしろ」
「……嫌です」
私はようやく搾り出した。
「なんだって?」
「嫌です嫌です!ソラリス隊長だけは絶対に嫌です!」
「なんでだよ!」
「逆さ吊りにして水かけるって言ってました。ハルジオン殿下の方がまだいいです」
「……私の方が、まだ、いい……だと?」
「お前が贅沢言える立場かよ」
「そうだ。ソラリスに根性を叩き直してもらうがいい」
「ひどいです。ナナリエじゃダメなんですか」
「記録を消した少女を王女が庇っているという状況が問題になっているから、難しいわね」
「じゃあ、エンジュは?エンジュがいいです!」
「僕は構わないけど」
「だめよ。春のお祭り以外、アンリが神殿から出られなくなっちゃうわ」
「そうだった。あれ、でも今日はどうやって……?」
「エンジュの生体反応を発信する装置を籠り部屋に置いてきたわ」
「えっ。何ひとつ理解できないんだけど」
「そうそう。あまり誤魔化しが効かないから、そろそろ僕は戻らないと」
「ナナリエ……君がそんな欺瞞を行うとは」
「大切なことはすべてお兄様が教えてくださいました!」
ソラリスは立ち上がって窓辺にすたすたと歩いて行った。
出窓の枠に腰を下ろして呆れたように笑った。
「お前ら、自由で良いよなー」
えっ。
「え?」
みんな、たぶん耳を疑ったと思う。
何言ってるんだこの人は。
「君が言うか」
「あなたが一番自由じゃない」
即座に言い返したハルジオンとナナリエの顔は、おかしそうに笑っていた。
ソラリスはほんの少し目を見開いた。
エンジュはふたりの隣を離れて、窓辺に向かって歩いて行った。
「ね?だからソラリスが早く来てくれたら良いのにって、ずっと待ってたんだよ」
「ね?じゃねーよ」
窓ガラスに頭をコツンとぶつけてソラリスが言い捨てた。
ぶっきらぼうな口調だったけど、いつもの隙のない雰囲気が少しだけ和らいで見えた。
ソラリスとエンジュは顔を見合わせもせず、しばらく私たちを遠目に見ていた。
だけど、窓辺から身軽に立ち上がって口を開いた。
「退職願出して、いったん珊瑚宮に戻る。そしたら暇だからこいつ連れて歩けば良いだろ」
ソラリスはハルジオンに声を投げるように呼びかけた。
「……現時点で彼女は琥珀宮に所属しており、審理では翡翠宮が口添えをし、その後に珊瑚宮が責任を持つ。条件は悪くないな」
「じゃあ、決まりな」
「お兄様、私たちもそろそろ行きます。最後に確認ですが——」
何かがどんどん決まっていく。
みんなが動いてくれている。
ソラリスは退職までして、久しぶりに顔を合わせたナナリエとハルジオンは再会を喜び合う間も無く作戦会議をしてくれている。
……いいのかな。
みんなの時間をこんなに使わせて。
「ちょっと座れ」
「え?」
びっくりした。
音もなくソラリスが近づいてきていて、横に立っていた。
軽く肩を押されると、身体は勝手に長椅子に座り込んでいた。
「足」
「え?」
唐突に足首を掴まれ靴を脱がされた。
咄嗟のことに声も出なかった。
「ソラリス、何してるんだ!」
代わりにエンジュが声だけは掛けてくれたけど、呆気に取られているのか止める気配はない。
ソラリスは気にもせず、腰元の鞄からメジャーのようなものを取り出した。
私の足の裏や足の甲を一周ぐるりと測り始めた……ように見える。
「あんま気にすんなよ」
顔を上げずにソラリスが呟いた。
気にすんなって。
「いや、気になりますよ。急になんですか」
「記録を吸うのはヨルカの身体の問題だ。お前のせいじゃない」
急になに?
エンジュも息を呑むように黙っていた。
……私のせいじゃないって、これは、気遣ってくれているのかな?
「怖かったら審理だって受けなくたっていいんだぞ」
その言葉に、ずっと胸に引っかかっていたものが動いた。
「……元々はヨルカの身体に関する問題でも、今回のことは私の失言が引き金になっています。だから私が審理を受けます。そこまでは私がやります」
ソラリスの手が止まった。
「ヨルカが収束するところは同じって言ってたんだろ」
「え?」
急に何の話?
全然繋がりがわからない。
「お前の失言がなくても、ヨルカは審理を受けることになっていた。だからこれは、みんなヨルカのために動いているんだ」
そっか。
ソラリスは私とヨルカが二重に見えるんだっけ。
今も、ヨルカがここに座っているのが見えてるんだ。
「だから迷惑かけてるって顔すんな」
優しい口調だった。
胸につかえていたものが取れるような、だけど同時に、そこにぽっかり穴が空いたみたいな不思議な気持ちになった。
この寄る辺ない気持ちはなんだろう。
「アンリ」
ソラリスの横にエンジュがしゃがんだ。
私を見上げながら、なんてことないように穏やかに微笑んだ。
「ソラリスが言うように、ヨルカも審理を受けることになったんだと思う。だけど今、目の前にいるのはアンリだよ。僕も、ナナリエも、ハルジオンも、アンリを見てる」
……そっか。
エンジュの言葉を受けて、胸の穴に温かい風が吹き込んだ。
そっか。
みんなに迷惑をかけるのは嫌だった。
なのに、それが自分に向けられたものじゃないって思ったら、胸の奥が少し寂しくなった。
なんてわがままな気持ちだ。
「ああ」
ソラリスが、初めて顔を上げた。
「そう聞こえたか」
「悪かった」
それだけ言って、また私の足に視線を落とした。
でも、続きがあったみたい。
ソラリスはエンジュをちらっと見て、不満そうに口を尖らせた。
「さっきの、俺の名前も入れとけよな」
エンジュは一瞬目を丸くして、その視線は私に移ってきた。
顔を見合わせて、私とエンジュは吹き出した。
「……で、ソラリスは何をしているのかな」
エンジュが呆れ顔で確認した。
「歩き回るんなら丈夫な靴がいるだろ」
そう言いながら私の足の甲を指でなぞった。
「ちょっと、やめてください!」
「なんだよ」
「……くすぐったいです」
「そうよ。あなた、説明が足りないのよ」
ハルジオンと話を終えたナナリエも私の足を覗き込んだ。
「親指と小指の付け根の骨の出っ張りを見ているのよ」
「いきなり入ってくんなよ」
「靴は大事よ」
ナナリエも、もう片方の足を掴んで撫で始めた。
……ちょっと待ってほしい。
「ヨルカはね」
その足を大切そうに見つめながらナナリエが呟いた。
「靴を履くことの意味を理解してくれなくて、何度履かせても脱いじゃったの」
「次、荷重見る。立って」
ソラリスの言葉が終わる前に、ナナリエは自然な動きで私の手を引いて立ち上がらせた。
「ヨルカの足が傷つかないのも大切」
ナナリエは私の目を見てはっきり言った。
「だけど、国中を歩きたいっていうアンリの願いも、私たちは必ず実現させるわ」
頼れる人がいる。
手を差し伸べてくれる人たちがいる。
「みんな、ありがとう」
ソラリスとエンジュも立ち上がっていた。
その奥でハルジオンも静かにみんなを見ていた。
「よろしくお願いします」
それぞれが小さく頷いた。
ソラリスは「退職願を出してくる」とだけ言い残し、さっさと部屋を出ていく。
「僕たちも、そろそろもどらないとね」
エンジュが苦笑すると、ナナリエが残念そうに肩をすくめた。
「審理のあとに、会いましょう」
ナナリエは迷いなく約束した。
部屋を出る直前、一度だけ振り返ってハルジオンを見る。
「今は立ち止まっていても、お兄様は立つべき場所に戻りますよね」
その返事を聞かずに、ナナリエは去っていった。




