第8話 エンジュの祈り、ハルジオンの采配
信じる。
それはどこから生まれるのだろうか。
人はどうやって人を信じるんだろうか。
実績を積んだら、信じてもらえる?
不確かなものを、すべて潰したら?
「信じるって、最後は理屈じゃないよ」
エンジュは身動き一つせずにそう言った。
「最後の一歩を踏み出させるのは、その人をそう掻き立てる何かだ」
この人の話はいつも始まりが唐突だ。
「もちろん、そこへ辿り着くための階段を、僕たちは一歩ずつ登っている」
私はなぜか、神殿に続く、長く果てしない木漏れ日の階段を思い出していた。
もう一歩進めばそこが目的地かもしれない。
そう期待しては裏切られ、息を切らしながら登った、あの階段を。
「今回の審理に、神殿からの見解を正式に提出することになったよ」
「神殿から……」
私は思わず背筋を伸ばした。
エンジュが息を吸うと、翡翠の瞳が一段と深い色になった。
「“黒き髪の少女を、その特異さのみを理由として、人の営みから遠ざけてはならない。他の者と等しく、見て、聞き、触れ、学ぶ機会を与えるべきである”」
ふっと、エンジュの瞳にいつもの微笑みが戻る。
「これがすべて」
……そうなんだ。
神殿からの見解って、もっとお告げみたいな、解釈は難しいけどもっと絶対的に強制力のある言葉なのかと、ほんの少しだけ想像していた。
この髪の力は安全だとか、いつか役に立つとか。
でも、とても基本的で、当たり前のことだった。
「アンリの善良さを証明する決定的な方法はない」
「でもそれは神殿も同じ」
「同じなの?」
だって、この国の信仰なんでしょ?
みんな、そこに疑いの余地がないから、それを前提に生きているはずなのに。
「僕たちも、自分たちが絶対に正しいとは証明できない」
ずいぶんはっきりと言う。
「わからないものと、そのまま付き合っていく姿勢を見せ続けてきた。その積み重ねがあるだけだよ」
これまでに聞いた話を思い返すと、この国は自然信仰で、神々と呼ばれる存在に人格はなさそうだった。
自然の脅威や不条理を神様と呼んで理解するというのとも違う。
「人は洪水を恐れて堤防は作る。だけど雨や川そのものとの関わりは断たない。怖いという気持ちはそのままでいい。その上でどう一緒に生きていくのか考え続ける。それが僕たち神殿だ」
神殿。
なにか信仰のようなものだと思ったから、そう翻訳してきたけど、少し違うのかもしれない。
神様の意思を代弁する人たちではない。
自然を恐れ、自然を敬い、その中でどう生きるかを、自分たち自身が実践し続ける人たちだ。
まだ、よくわからないけど。
「アンリ——正確にはその身体の機能も、よくわからないよね。だからみんな怖がっている。だけど、怖いからと言って無闇に閉じ込めたり、関係を断つことは……」
頭を傾けて目を細める。
「……そう、寂しい、かな」
いつだって、エンジュの言葉は少しだけ探るようだった。
誰かを説得する強さじゃない。
——わかってくれたら嬉しいな。
そんな、小さな願いを差し出すような話し方だった。
「アンリが特殊だからって、その理由だけで、他の人が見たり聞いたり、触れたりしているものから遠ざける権利は、誰にもないってことだよ」
そして当たり前のことを、いつもとても大切そうに噛み締めるように言う。
そんなエンジュを、ナナリエがもどかしそうな目で見つめた。
「本当はエンジュも神殿も知ってるんでしょ?どうしてこの身体にはこんな機能があるのか」
そう言うナナリエの両手は、膝の上でぎゅっと握りしめられている。
「それについては僕たちは答えない」
そう言うって決めていたみたいに即座に答えた。
「……ごめんなさい。今回はそれ以上聞かないっていう約束だったのに」
「いいよ。ナナリエが聞くこと自体を止める理由はないから」
エンジュは静かに頷いた。
「言えないことは多い。だから君たちが僕を信じるかは強制できないし、人々や司法が神殿をどこまで信じるのかもわからないよ」
そこまで言っても、エンジュは不安そうには見えなかった。
返事を待っているわけでもない。
信じてもらえるかどうかとは関係なく、先に自分の手を差し出している。
もし誰にも取ってもらえなくても、きっとそのことまで、自分で引き受けるつもりなんだ。
そういう姿勢を私たちに見せている。
「だけど、僕たちは信じてる。アンリの……」
エンジュは少し考えて、この言葉かなって顔で言った。
「その、素直さを」
素直さ。
わからない。
私の中のそんなものを、大切そうに言ってくれるなんて。
「知らないことを知らないって言える。それはとても大切なことだ」
私は、知らないことばかりだ。
でも。
だから、知りたいことは多い。
「知らないことがあるなら、私は調べますけどね」
ナナリエが口を尖らせてハルジオンを見上げた。
「ナナリエらしいね」
エンジュが楽しそうに笑う。
「まあ、君のような探究の徒もいなければ社会は発展しないだろう」
ハルジオンは少しだけ困ったように眉を下げて、だけどすぐにいつもの真面目な顔に戻った。
「だが、政治は違う。正解がわからずとも決めなければならない。その中で、なるべく多くの者が納得できる答えを選ぶしかない」
みんなが、それぞれのやり方で、“知らない”という怖さと向き合ってるんだ。
これまでの生き方や学びの中で身につけた、自分なりの方法で。
だったら私は。
私のやり方は。
「んじゃ、今回選ぶ答えだけどさ」
ソラリスが腕を広げて伸びをしながら言った。
「どこ狙う?」
え?
青い目がじっと私を見つめた。
「どこ……とは?」
ソラリスは呆れたようにため息をついた。
「お前はどうなったら勝ちなわけ?」
「今回の審理の落としどころだな」
ハルジオンが肘掛けを指で叩いた。
「それそれ」
「アンリはこれからどうしたいの?」
ナナリエも真っ直ぐに私を見つめた。
「それ……私が決めるの……?」
「当たり前だろ。お前のことなんだから」
よくわからないけど、こんなにみんなが考えて動いてくれているのに私が決めていいのかな。
なんだろう、この感覚。
「アンリの願いをそのまま言えばいいんだよ」
エンジュは、ナナリエやソラリスと違って私を覗き込まなかった。
「そんなの考えたことないし……」
急に言われても困るよ。
「でも……」
審理で勝ち取るものなのかはわからないけど、したいことはひとつある。
「もっとこの国のことを見てまわりたい」
好きになってきたこの国を、もっと好きになりたいと思う。
自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分から話しかけて。
それが私の、“知らない”ことへの向き合い方だ。
「ならばその権利を獲得しよう」
ハルジオンが間を置かずに言った。
あれ。この願いでいいのかな。
でも、みんなが笑っている。
それで良いって言うみたいに。
「目標は定まった。彼女が各地を巡りながら生活できること」
「そのために必要な条件は二つ。第一に、継続的な行動制限を課す合理的根拠がないこと」
「第二に、根拠のない噂によって彼女の生活が妨げられないこと」
「立証に用いる材料は三つ。身体機能の条件、環による制限、人格に対する証言」
ハルジオンがひとつずつ確認するように言った。
「それに加えて、神殿が審理に先駆けて“信じるという態度”を示している」
その隣でナナリエが頷く。
「現時点で私が準備したものは以上です」
「ナナリエが大ばば様に頼み事をするなんて初めてだもんねえ」
エンジュが感心したように腕組みをした。
大ばば様。
さっき当主討論で私のことを言ってくれていたのは、ナナリエからの働きかけがあったからなんだ。
「準備はしました。ただし、アンリが今後も決して能力を悪用しないと証明することはできません」
「そこは争点ではない。継続的な制限を課す合理的根拠があるかを問う」
ハルジオンの琥珀色の瞳が熱を帯びた。
「今回の件の経緯と噂については私が整理する。実際に起きた事実。その後三ヶ月、意図的な再現を試みていないという実績。そして、髪による原始的な意識共有には視覚的な変化が伴い、周囲が事前に察知できることだ」
議会を離れてから、こんなに生き生きしているハルジオンは久しぶりに見えたかもしれない。
自分のことを話し合ってもらっているのに、そんな、余計なことを考えてしまった。
「ナナリエの集めた材料と組み合わせて、目標を達成する。この方針で審理に臨もう」
「てか、審理って、こっちから起こすもんなの?」
ソラリスはいつの間にか床で柔軟体操をしていた。
「もちろん、相手から起こさせる」
「相手って、形のない噂なんだろ」
そういえば。誰か個人に非難されているわけじゃないのに、どうしたらいいんだろ。
「形のある組織に代わりに問題提起させる」
「させるって……また性格の悪いこと考えてるな」
「そう言うな。誰にとっても利益しかないことだ」
どういうことかはわからないけど、ハルジオンが言うならそうなのかもしれない。
「もっとも、完全な自由を求めるつもりはない」
ハルジオンの目が一段と鋭くなった。
「監督責任者の同行という条件をこちらから提案する」
「監督責任者の同行?」
なんか、不穏な響きがする。




