第38話 近すぎる……
おばあちゃんの畑を出て、しばらく歩いた。
夕日は建物の隙間からわずかに差し込むくらいにしか見えない。
暑くない。
それは夕方になったことだけが理由じゃなかった。
人が歩き、小型の乗り物が走る道路は全て、透明な壁や屋根に囲まれていた。
翡翠宮の神殿が建物に入ってもまだ森の中にいるように感じたのとは正反対で、ここは屋外であるはずの場所さえ屋内になっていた。透明な廊下だ。
「外には草も生えないってか」
ソラリスの言葉に、私もつられて透明な壁の外に視線を向けた。そこは荒涼な乾いた大地だけが広がっていた。
それに比べて、この壁の内側には緑が溢れていた。
そうだ、列車の窓にもこの透明な素材が使われていた。太陽からの強い光を制御しているとナナリエが言っていた。
「瑠璃宮以外にこういう場所はないの?」
「見たことないな。ここから南へ少し下れば雨も降るし、北へ行けば昨日までいたサファイア宮だ。乾燥しているけど、普通に屋外で生活できる」
ソラリスは相変わらずゲリラゴリラの匂いを漂わせながら歩いている。
「とりあえず、この宿でいっか。調理場使えそうだし」
ソラリスが無機質な扉を指差した。
「調べたの?」
「そこに情報出てるだろ」
情報と言われて、私は自然に胸に下げた環を握った。
途端に、無機質な扉に宿の紹介動画が表示される。空室情報や設備や料金、朝食の案内まで。個室の寝室に、宿泊者共用のキッチンや全自動人間洗濯機がついた、地球でいうホステルみたいなところらしい。
「おお。いい感じ」
「じゃ、入るか」
ホテルのフロントもなければ従業員も立っていない。扉を潜った時点でチェックインは済んでいるらしい。これ、解説してくれる人いないと、詰むやつ。私一人だったら、人が出てくるまで「誰かいませんかー」って呼び続けていたかも。
私たちはそれぞれ自室に荷物を置いて、共用のキッチンへ下りてきた。
「さっそく調理開始だな」
キッチンを利用していた人と話しているうちに、なぜか野菜と白身魚の切り身を物々交換することになって、ソラリスは切り身を手にして料理を始めた。
私は、ほら、ガッとやってジャッと焼いた料理しか作れないから、大人しくソラリスを観察することにした。
「見てるだけだとつまんねえだろ」
「見るのも面白いんだよ。見るとだいたい覚えちゃうしね」
ソラリスは食材を切っては味見をし、ぶつぶつ言いながら焼いてみたり調味料で漬けてみたり、他の食材と組み合わせたり、試行錯誤を始めた。
未知のものへの探究心ってやつか。ナナリエも検証好きだし、未知への探究心という点では、このふたりはやっぱり似てる。
私も知らない場所へ行ったり、知らないものを食べるのは好きだけど、どうも実験とか手順のわかっていない料理は苦手だ。
——試行錯誤といえば、大地くんも。
私はふと、ここへくる前の朝のことを思い出した。
まだ霧がかかって思い出せないところはあるけど、あの日の朝も徹夜明けの私に、オニオングラタンスープを作ってくれていたことだけは覚えている。
彼も百回試しては百回も失敗して、それでももう一度挑戦するような人だったな。目は笑ってないのに、楽しそうに口元を歪めながら。せっかく成功しても、違うパターンならどうなるか何度も検証を重ねる人だった。
でも、ソラリスは百回も試すことなさそう。
「食ってみろ!これは完璧!」
たぶん十回以内に正解に辿り着いて、次のことへ関心が移るタイプだ。偏見だけど。
ソラリスは魚のフライにゲリラゴリラの葉で作ったソースをのせて、私の口元にスプーンで運んできた。
その自然な流れに、思わず、口を開けてしまう。
「美味しい。香りが合ってる」
「だろ」
満足げに笑うソラリスの顔を見て、はたと冷静になった。
「でもさ、食べさせてくるのはやめて」
「なんで?」
「子どもじゃないから」
ソラリスは私を頭の先からつま先までじっと眺めた。
「そうか。お前、ヨルカじゃないもんな」
それだけ言ってまた料理に戻った。
わかってくれたならよかった。
「なあ、この鍋ちょっと混ぜててくれ」
「いいよ」
隣の人の料理が美味しそうで、ソラリスの鍋はよく見てなかったけど、卵黄らしきものと油と、何かの液体が火にかけられていた。
混ぜるだけなら簡単簡単。私は泡立て器に似た器具で鍋の中をかき混ぜた。
「そうじゃない」
ソラリスが瞬間移動のように背後に現れて、泡立て器を握る私の手を掴んだ。そのまま、高速でかき混ぜ始める。
ソラリスの顎が、完全に私の頭の上に乗っていた。
「こんくらい」
それだけ言うと、すぐに自分の作業に戻っていった。
……いや。そうか。子ども扱いするな、じゃ伝わらなかったようだな。
私はひとまず切羽詰まっているこの謎のソースを混ぜ続けた。
最初は反発しあってなかなか混ざらなかった液体同士が、しばらくすると境目がわからなくなって、ひとつのものみたいになった。マヨネーズみたいなものかな?
「そんくらいでいい。貸して」
ソラリスに鍋を取り上げられた私は、満を持して文句を言った。
「ソラリスは距離感がおかしい。近すぎるよ」
「は?」
驚いてるのか怒っているのか、ソラリスは大きく目を見開いた。
「俺のどこが?かなり線を引いている方だと思うけど」
どこが!
「急に背後に立ってるし、口に直接スプーン運んでくるし。近いでしょ」
「普通だろ。近いって言うのは、お前たちみたいなのだろ」
ソラリスは鍋の中身を器に移し始めて、こっちは全然見ていない。
「え、私と誰?」
「あいつだよ。お前がよく理解している、理屈屋の」
「ナナリエのこと?」
そういえば以前ソラリスに指摘されたな。私たちが近すぎるから、ナナリエは目の前にいるヨルカを認識できていないって。
「まあ、お前ら、物理的に距離ができたら少しはマシになったみたいだけどな」
たしかに。しばらく離れてから再会したナナリエは、ヨルカのことをちゃんと認識していた。
「そうは言っても、身体と身体の距離そのものは大した問題じゃねえな」
大した問題だよ!何言ってるんだ!
私は鼻息荒く、口を開こうとした。
でもその前に、ソラリスの顔が曇って、タイミングを逃した。
「精神的な距離が近い方が……危ないだろ」
困惑したように手を止めている。
「あいつ、近くにいると思考に入ってくるんだよ。距離感がおかしい」
「近くにいると、ナナリエのことを考えちゃうってこと?」
「そうじゃなくて、混ざる。自分の考えなのか、あいつの考えなのかわからなくなる。だから、気持ち悪くなる」
ソラリスは鍋を置いて、ソースを移し替えた器を手にとり、見つめた。
ソラリスとナナリエと一緒にいるとき、私は、大自然の脅威みたいなものを感じた。あまりにもちっぽけな自分には、抵抗する余地もないような怖いくらいの孤独を。
ソラリス自身も、あの力に圧倒されていたんだ。
「ちゃんと名前で呼んでみたら?」
「はあ?」
「ソラリスとナナリエはちゃんと別の人間だって、口に出して言うんだよ」
これとこれの間には明確な境目があるんだよって、示すために名前があるんだから。
ソラリスは俯いて小さい声で唸っている。
「あ、名前、もう忘れちゃった?ナナリエだよ」
「知ってるよ」
ソラリスはソースを睨みつけながら言った。
「ナナリエ」
途端に、ソラリスは器を置いて、調理台に手をついて苦悶し始めた。
あれ……もしかしてナナリエの名前って、変な呪文だったのかな……?
「大丈夫?」
「ああ。あいつと俺は別だってわかった。そしたら今度は、あいつが本当にいるんだって気づかされた」
何に苦しんでいるのか、全くわからない。ナナリエ、どう見ても存在しているけど、ソラリスには幻にでも見えてたんだろうか。
ひとしきり耐え抜いて、ソラリスは顔を上げた。
「いや、わかった。もういい。晩飯だ」
ソラリスと一緒に料理を運んで、キッチンの片隅にある席についた。
生のゲリラゴリラや茹でた野菜に、さっき作ったソースをつけて食べるらしい。白身魚のフライにゲリラゴリラの葉のソースをのせたやつも合わせて、彩り鮮やかだ。
「おばあちゃんとおじいちゃんに感謝だね」
「作った俺にも感謝しろ」
「もちろん。美味しくいただきまーす」
食べ始めながら、ふと考えた。ナナリエの名前をちゃんと覚えていたってことは、私の名前もさすがにもう覚えたんじゃないかって。
「ねえ、私の名前は?」
「ヨ……ロ……リ……エ?」
いろいろ混ざってるよ!!
「ヨルカの名前はちゃんと言えるのにね」
ま、仕方ないか。私の見た目がヨルカなんだから、混ざっちゃうよね。
「……そういや、お前、ヨルカと話ができるって言ってたな」
ソラリスが赤くて丸い実をソースに漬けながら言った。
「話ができるんじゃなくて、ときどきヨルカが話しかけてくるんだよ。一方的にね」
「あいつ、お前がいた星に行ってるんだろ。大丈夫なのか?」
「大丈夫って何が?」
「ここと、似た場所なのか」
いつも元気に跳ね上がっている眉が、少しだけ下がっている。ヨルカのこと、本当に心配して聞いてるんだ。
「少し勝手が違うかも。とりあえず髪の毛では意思疎通できないよ」
「……ひとりで大丈夫なのか」
その不安そうな顔に、記憶が蘇る。ヨルカから初めて連絡がきたときのことを。すごく遠くにいるはずなのに、ずいぶんゆるく話しかけてきたな。
「ひとりじゃないと思う」
「誰かと一緒なのか」
「あーと、うん。……私の友達?」
「ああ。例の、待ってる恋人か」
ソラリスはソースをつけた実を一口に入れた。噛んで飲み込むと、深く頷いた。
「大人がついてるなら安心だな」
「……大人、じゃないかも」
「どういうことだ」
「ヨルカが話しかけてきたとき、背後で彼の声だけ聞こえたんだけど、それが子どもの頃の声だったんだよね」
ヨルカが十四歳の私の身体に入ってるなら、隣にいた大地も十四歳ってことだよね。
でも、あのとき聞き取れなかった言葉はたぶん。
——迎えに行く、だったと思う。
私たちの間では意味がある言葉だ。
……私の自惚れでなければ。
そんなことを言うのは十四歳の大地じゃない。
二十七歳の、あの朝の大地だ。
「子どもの頃ってどういうことだ」
「……どういうことなのかな」
私もそう呟くしかなかった。
「大丈夫かなぁ」
ヨルカの話だと、大地はヨルカにすごく怒っているみたいだったけど、大変なことになってるんだろうか。
「そしたらさ、早く帰るんだな」
ソラリスはゲリラゴリラの薄切りを食べながら宙を見上げた。
「あんまり好きになると、最後、辛くなるしな」
そう軽く言ったソラリスとは、目が合わなかった。
この国のことかな。ここに住む人のことかな。
もう好きになってる。
今日会ったばかりの、この野菜をくれたおばあちゃんとだって、また会う約束をした。
たしかにいつか帰るなら、別れは寂しいだろうな。
今までだって、旅先で出会った人とそれきりになったこともたくさんある。
だけど、地面が繋がっていたらまた会える。
この星から帰ったら、もうナナリエにもみんなにも会えないんだろうな。
でも別れが辛くなるからといって、仲良くならないなんて選択肢は、私にはない。
いつだって。
空っぽになったおばあちゃんの籠に、何を入れて返そうかな。
静かになったキッチンの片隅で、私はそんなことを考えていた。




