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星粒のリテラエⅡ からっぽの魔女は想いを注がれる  作者: はなちゃん
第二章 守り方はひとつじゃない
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第35話 同じものを見ていたい

 ポケットの中の温もりと、ハルジオンのささやかな願い——幼い少女がこれから歩く道を拓き、その先に見えるものを共に見たいという想いが、小さな白い顕微鏡を通して私の中に注ぎ込まれた。


 壮大な恋心でもなく、無償の愛でもなく、大切な人が一番いい表情をする瞬間がたまらなく嬉しいという、分類しがたい感情がそこにあった。


「どうして……」


 指の力が抜けて、つまんでいた黒い髪が私の肩へ滑り落ちた。

 大切な思い出を、消えてしまうとわかっていて、どうして私に見せたのか。

 そう言いたかったのに、うまく声が出なかった。


「これだけは、残したかったからだ」


 私の心の声が聞こえたみたいに、ハルジオンが答えた。だけどその答えの意味が、よくわからない。だって、この顕微鏡に残されていた思い出はもう、ここにはないのだから。


「一昨日の夜、アンリは私に聞いただろう。“この力がなければ、ヨルカはもっと自由に暮らせたかもしれない。なぜ、記録を吸収する力があるのだろう”と」


 ハルジオンの声は優しかった。つらそうでも、やけっぱちでもなかった。


「私もヨルカに出会ってから、同じ疑問をずっと抱いていた。いくつもの仮説を立てたが、これが最も理にかなう」

「これって……?」

「消すのでも、吸収するのでもない。大切な記録を保存する。ひとりの人間が何を考えて、何を選んだのか、それを預かって残すことが、ヨルカの持つ力だ」


「残すため……。だとしても、顕微鏡に残しておけばよかったんじゃない?」

 大切な思い出と、その思い出の品は一緒にあるべきじゃないのか。


 ハルジオンは同意するように、一度だけ頷いた。そして真剣な眼差しで口を開いた。


「光を外に出さない、その黒い色。それは、たとえ国中の全ての記録が消えても残り続けるのではないか……と、私は仮説を立てたんだ」


 いつの間にか握りしめていた私の拳が、小刻みに震えた。

 ハルジオンが「国中の全ての記録が消える」ことを前提にしているのも怖い。だけど、それ以上に私が理解できなかったのは——


「そんな仮説のために、ハルジオンの大切な思い出を使ったの?」

 声が震えてしまった。私はこんな気持ちになっているのに、ハルジオンは穏やかに笑った。


「大切で、残したいものだったからだ。誰かに知っていてもらいたかった。もちろん、私の記憶の中にもちゃんと残っている。だが私の肉体が滅べば、そこに宿る記憶はもう誰にも見ることができない」


 急に何を言っているんだ。死後の話をしているの?まさか……。

 私は震える身体を動かして、なんとかハルジオンの顔を見上げた。


「言っておくが、これから俺が死ぬつもりだ、などと見当違いなことは考えるなよ」


 ハルジオンの口調が変わった。ちょっと呆れたような、人を小馬鹿にしたような、私のよく知るハルジオンの口調だった。


「違うの?」

「違う。死ぬつもりもないし、今見せた記憶を捨てるつもりもない。安心しろ」


 ええと。つまり、もっと長い期間の話をしているってことか。人が生まれて、誰かと関わり、何かを伝え、死んだ後も別の誰かがそれを受け継ぐ、というような長い長い話をしてるんだな。

 私の肩から少しだけ力が抜けた。


「ヨルカの役割を勝手に決めつけるべきではないが……」

 ハルジオンは目を伏せた。今ここにはない別の記憶を辿るみたいに、しばらく目を閉じていた。


「ヨルカはいつも、俺がナナリエに向ける感情を不思議に思っているようだった。心配そうな顔で俺を見つめるヨルカを、別の時間の俺は何度か見かけた」


 ハルジオンにも、私と身体を共有するヨルカの時間が、見えているんだ。


「俺にも言葉では説明できない感情がある」


 ハルジオンはゆっくりと目を開いた。


「これで、ヨルカの理解の助けになっただろうか」


 身体の中に、温かくて柔らかいものが静かに積もった。

 今、ヨルカが何かを理解したんだ。


 ——そうか。

 ヨルカの時間でも、こうしてハルジオンは顕微鏡の記憶をヨルカに差し出したんだ。ハルジオンから想いを受け取ることは、きっとヨルカの人生にも訪れる、大切な出来事だったのだろう。だから、私にもこうして見せてくれたんだ。


 ……そっか。


 また、この嫌な気持ちだ。


 審理のためにみんなが動いてくれることへの申し訳なさを感じたときに、ソラリスが気遣って、“これはヨルカのために動いてるだけだから気にするな”って言ってくれた。そのときにも感じた、寂しくてどうしようもない気持ち。


 みんなが大切に思っているのは、私じゃない、ヨルカなんだ。私はヨルカの代わりにここにいるだけ。そう、孤独を突きつけられる。


「アンリ」

 ハルジオンの手が私の肩に触れた。

「ヨルカのためだからといって、俺が絶対にしたくないことはしない」


 見上げたハルジオンの顔は、はにかむように笑っていた。


「アンリになら見せてもいいと思ったんだ。見たことも秘密にしろとは言わない。だから思い詰めないでほしい」


 ハルジオンの言い回しはやっぱり私にはよくわからない。だけど、腹の底に溜まっていた嫌な気持ちは不思議と消化されていた。


「まあ……ハルジオンが思い出を消し去りたいわけじゃないことだけはわかったよ」

「なんだそれは」

「ナナリエと婚約解消した日に言ってたじゃん。“消したい”って」

「……ああ」


 ハルジオンが頭を抱えて後ろを向いた。……言ってはいけないことだったのかもしれない。しばらく独り言を言っていたハルジオンが、気を取り直したように振り返った。


「いいか。それは絶対に誰にも言うなよ」

「えっ」

「えっ、じゃない。わかったな?」

 むしろ“消したい”って言ったことを消したそうな顔をしている。


「消すつもりはないが、一度片隅に置いておく。今はやるべきことに集中したい」

「何を片隅に置くの?」


 私が尋ねると、ハルジオンは黙って手を差し出した。記憶の中のこの手にはナナリエの手が重なったけど、たぶんそういう感じではない。私は手に持っていた顕微鏡を、その手のひらに置いた。

 ハルジオンは手のひらにのせた顕微鏡を親指でそっと撫でた。


「ナナリエが高等教育に進んでから、この顕微鏡を使う機会は減ったが、時々思い出しては二人で植物や鉱物を観察した。私は、ナナリエと共に同じものを見ることが何よりも好きだったんだと思う」


 胸ポケットに顕微鏡をしまって、少しだけ遠くを見つめた。

「共に、国のことを考える時間も好きだった」


 ナナリエ自身が好きだとは、まだ言わないんだな。私はハルジオンの顔を見上げながら、そんなことを考えていた。


「余計なお世話だと思うけど」

 気づけば口が勝手に開いていた。

「ハルジオンの気持ちはナナリエに知っていてもらった方がいいと思うよ。ナナリエなら正面から受け止めてくれる」


 ハルジオンの視線が下りてきた。琥珀色の瞳に迷いはなかった。


「今はまだ」


 それだけ言うと、視線を私の背後に向けた。


「あいつをあるべき場所に立たせてからでも遅くはない」


 あいつ……?

 ハルジオンの視線を追って振り返ると、向こうからパンをかじりながらソラリスが歩いてきた。


「おう。こんなところで何やってんだ?」


 ソラリスをあるべき場所に立たせてから?それからでも遅くない……?


 ソラリスを自分と同じ土俵に立たせてから勝負をして、ナナリエに選んでもらうっていうこと?ソラリスとナナリエはそういうんじゃないと思うんだけどなあ。なんとなく。

 それとも、ナナリエに気持ちを伝えるより先に、国のためにやらなきゃいけないことがあるのかな。自分のことより先に、国の行く末を考えてしまう人なんだろうな。


「なんだよ、二人して黙ってこっち見て。もう出かける準備はできたのか?」


 出かける準備って言ったって……。私はため息をついた。


「そもそも行き先も決まっていないじゃん」

「行き先ぃ?」


 首を傾げるソラリスの肩を、歩み寄ったハルジオンが軽く叩いた。


「ソラリスは今まで各地を回ったんだろう。自分に合うところはなかったのか?」

「なんで俺のことなんて聞くんだよ。でもそうだな……」


 ソラリスは思い返すように宙を見上げた。


「みんないいやつばっかりだったけど。ここが自分の場所だって思えるところはなかったかな」


 答えるソラリスの顔があまりに無邪気で、少し寂しく見えた。だから私も尋ねた。


「行ったことない場所は?」

「琥珀と瑠璃はまだ行ったことないな。翡翠も山の中でエンジュと修行しただけ」


「じゃあ、次は琥珀宮か瑠璃宮に行こっか!」

「なんで俺基準なんだよ。お前が各地を見て回るんだろ」

「ハルジオンも昨日、学校へ行くなら琥珀宮か瑠璃宮が良いって言っていたじゃん」


 ソラリスは納得したらしく、大人しく頷いた。


「俺はこれから琥珀宮へ帰る」

「王都じゃなくて?ていうか、一緒に行かないのか?」

 ソラリスが目を丸くした。ハルジオンはソラリスの胸を拳で軽く突いた。

「琥珀宮へ来るときは必ず俺のところへ遊びに来いよ」

「ああ。案内してくれよ」


 ハルジオンは私を見た。

「ソラリスを頼んだぞ」

 え?私が頼まれる立場?


「なんだよそれ!俺がこいつの世話をするんだろ!」

「ああ、ソラリスにもアンリを頼む」

「俺は頼まれる必要ないんだよ」

「そうだな」


 ハルジオンは、ナナリエの行く先だけじゃなく、ヨルカの成長に何が必要か、根無し草のソラリスをどこへ連れていけばいいかまで考えている。

 私にも、この国を自由に歩ける権利を勝ち取らせてくれた。

 この人は本当に、人の世話を焼くのが好きなんだなあ。


 柔らかい表情を見せたハルジオンは、そのまま私たちに背を向けて歩き出した。やるべきことに向かって進んでいく背中だ。

 もう行っちゃうんだ。あっさりしてるな。


 遠ざかる背中を見ていると、隣でソラリスが伸びをした。


「んじゃ、行くか。どっちにする?」

「それなら、近い方」

「賛成。じゃあ瑠璃宮に決まりだな」


 私は、この国でもらった初任給で買ったお気に入りの斜めがけ鞄をかけ直し、ソラリスと並んで王立宿舎の扉を開けた。

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