第34話 ポケットの中の顕微鏡
王都の空では、赤い太陽が西の地平線へ沈みかけていた。そのあとを追う白い太陽の周囲では、空がうっすらと緑色に染まり始め、日没が近いことを知らせていた。
北の空は灰色の雲に覆われ、今にも雪が降り出しそうだ。
広場では各地の料理を提供する出店が立ち並び、大勢の人で賑わっていた。
「もうすぐ日没だ。僕は神殿のお手伝いがあるから先に行くね」
「ああ、また会場で声をかける」
「新しい年が明けたら会おうねー」
この国では、二つの太陽がともに沈むと新しい一日が始まる。年が替わるのも、その瞬間だ。
「お兄様、あちらに氷の細工があります」
ナナリエは新年祭の出し物にすっかり夢中になっていた。
「ナナリエ、氷細工を見たら祝賀会の会場に移動するぞ」
「このあと曲芸の公演があるそうなんです」
「祝賀会での各宮の展示もきっと気に入るぞ。それに、私が手を引かれて君について行くのは、祝賀会のときだけだという約束だろう」
「……お兄様はずるいです」
「いやだと思ったら、すぐに出ればいいだけだ。私の手を引いてな」
宮殿内の中庭に出ると、手前の珊瑚宮の区画で守衛団が護身術の実演をしていた。その先には、十二の宮の展示区画が中庭を囲むように並び、中央には軽食や飲み物が置かれ、人々が歓談している。
ナナリエは左右を見渡した。珊瑚宮の両隣では、ガーネット宮による最新の医療技術の紹介や健康測定が行われ、カーネリアン宮では今冬に新発売された保温寝具が紹介されていた。
「見てください。あの寝具はブラックシリカが織り込まれているそうです」
「広報担当が解説している。聞いてみよう」
二人は気の向くままに展示区画を回った。ナナリエは興味のある話があれば黙って話を聞き、飽きてきたらハルジオンの手を引いて次の区画へ向かった。
歩くたびに知らない人たちに新年の挨拶をされて、ナナリエは小声で挨拶を返した。ハルジオンは、挨拶だけ済ませるナナリエに無理に会話させることもなく「今日は幼い妹の社会科見学に付き添っていますので」と冗談混じりに応対した。
「王女殿下、新年おめでとうございます」
ペリドット宮の区画まで来ると、薄緑色の髪をした穏やかそうな男性が微笑みかけた。
ナナリエは思わずハルジオンの後ろに隠れた。ハルジオンは男性に一礼すると、ナナリエの方を振り返った。
「ナナリエ。ペリドット宮は何を担っている?」
「……農業と国土環境の管理です」
「王女殿下はよく勉強なさっているのですね」
男性は相変わらず穏やかに微笑んでいる。ナナリエはハルジオンの背中から顔を覗かせた。
「この方は、生産管理局長のクレソン殿だ。自身も生産に携わった経験があり、農作物の生育に詳しい方だよ」
「農作物の生育……」
「こちら、ペリドット宮の果樹園で長年品種改良を重ねてきたブドウです。今年ようやく、皆様にお出しできるようになりました」
そう言いながらクレソンは粒が桃色に透き通るブドウの皿を差し出した。
「いただきます」
ナナリエは小さな声で言って、ブドウを一粒口に入れた。
「花の香りがしますね」
「よくお気づきくださいました!この爽やかな花の香りが特徴の品種でして、お酒やジュース以外にも乾燥させてお茶にする計画も進めております。お湯を注ぐと縮んだ果肉がふっくらと戻るので見た目にも……あっ!」
クレソンは頬を染めて照れ笑いをした。
「失礼いたしました。生産と販路のことになるとつい……」
「果実を育てるだけでなく、どうやって販売するかも大切なのですね」
ナナリエは表情を変えずに質問をした。
「その通りです。よろしければ実際に生産者の話をお聞きになりますか?」
「えっと……」
ナナリエはハルジオンの手を握りしめた。ハルジオンが目を合わせて頷くと、ナナリエはクレソンに向き直った。
「では、少しだけ」
クレソンは果樹園を経営している若い夫婦を呼び寄せた。二人は交配の作業や、生まれた苗の中から香りや育ちのよいものを選ぶこと、それから何年も試験栽培を重ねたことを語った。ナナリエは必要に応じて質問をし、真剣に話を聞いていた。
「知識録で読んだことを実践している人が実在するんですね」
話を聞き終えたナナリエは、感嘆のため息を漏らした。その言い方に、ハルジオンとクレソンが口元を綻ばせた。
ハルジオンは咳払いをして、会場内を見渡した。
「国は、様々な人の仕事によって成り立っているんだ」
ナナリエもハルジオンが見る先に目を向けた。
「なるほど。会場に入る人の身元を確認する者、人の流れを整理する者、料理を運ぶ者、展示を紹介する者。さらに、紹介されている仕事を日々実践している者。たくさんの人たちが働いているんですね」
ハルジオンは琥珀色の目を輝かせて大きく頷いた。
その顔を、ナナリエは虹色に輝く瞳でじっと見上げた。
「……お兄様は、この国のことが好きなのですね」
ナナリエは、思いがけない観測結果を口にするように告げた。それを聞いた途端、ハルジオンの耳が赤く染まった。ナナリエの言葉に気づかされたように、驚いて視線を泳がせた。
「……そうか。そうなのかもしれない」
二人の様子を見守りながら、クレソンが目を細めた。その穏やかな空気を吹き飛ばすように、大きな笑い声が飛んできた。
「王子殿下ではありませんか!」
よく通る元気な笑い声を響かせながら、恰幅のよい男性が声をかけてきた。再びナナリエはハルジオンの影に隠れた。
「王女殿下には、お初にお目にかかります。シトリン宮の財務副大臣、ギンキョウと申します」
愛嬌たっぷりの笑顔を振り撒きながら、男性はハルジオンの背中に隠れるナナリエを覗き込んだ。
「ギンキョウ、王女殿下がお困りだぞ。君は遊びに来ているのか」
すかさずクレソンがたしなめると、その肩にギンキョウが腕を回した。
「私は今日、客として来ておる。祭りの日まで仕事をしている生真面目なお前とは違うのだ」
ギンキョウは調子良くクレソンの肩を揺らしながら、ハルジオンとその後ろのナナリエに笑いかけた。
「働く者だけでは国は成り立ちません!遊ぶ者も、休む者も、食べ歩きをする者も必要なのです!」
「……この人は遊び人なのですか?」
ナナリエは驚いた顔でハルジオンを見上げた。
ハルジオンとクレソンとギンキョウは思わず顔を見合わせて、一拍置いて吹き出した。
「そうです。私は遊び人のギンキョウです」
「ナナリエ。この方は、私が行政実務を教わっている方だ。師のようなものだ」
「まあ。お兄様の師匠なんですね」
ナナリエは目を丸くして素直に感心した。
その純真な瞳に耐えきれなくなったのか、ギンキョウはクレソンと肩を組んで大袈裟にはしゃいだ。
「殿下も、あと二年もすれば行政側の人間ですからな!待っておりますよ」
「試験に通れば、ですが。今後もご指導ください、財務副大臣殿」
そこからギンキョウの愉快な話が怒涛のように押し寄せた。ナナリエも最初こそ真面目な顔をして聞いていたが、次第に眉間に皺が寄り始め、ついにたまらなくなってハルジオンの手を引いた。
ハルジオンはナナリエの顔を見ると、小さく頷いた。
「クレソン殿、ギンキョウ殿、貴重なお時間をいただきありがとうございました」
「おや。もう行ってしまわれるのですか、殿下」
「こら、ギンキョウ」
わざとらしく目を丸くするギンキョウと、彼の脇を突くクレソンに、ハルジオンは笑顔を向けた。
「今日は彼女の好奇心に徹底的に付き合うと決めているのです。では、失礼します」
ハルジオンの横で、ナナリエも丁寧に頭を下げた。二人の大先輩も恐縮したように礼を返した。
その後も会場内を回り、各地の特産品を味わったり、楽器の演奏を鑑賞して好奇心の赴くままに過ごした。空はすっかり暗くなり空気も冷えていたが、会場内は各所に設置された結晶灯の光と熱で明るく、穏やかな温もりに包まれていた。
「新年おめでとー」
呑気な声と共にエンジュがどこかから現れた。手には串に刺さった団子が握られている。
「そろそろ大宮司の新年のご祈祷が始まるよ」
「団子を食べながら祈祷に参加するつもりか」
「今年も一年、美味しいものが食べられるようにって、お祈りしなくちゃ」
会場中の視線が、北の回廊の二階へ注がれた。そこに厳格な雰囲気をまとった高齢男性が背筋を伸ばして立っていた。
「お祖父ちゃん、今年も雪が降る頃を見計らって、少し時間を調節してたんだ」
エンジュが笑いを噛み殺すと、ナナリエが首を傾げた。
「雪が降る時の方が祈祷の精度が上がるの?」
「そうじゃないよ。その方が、みんなの気分が盛り上がるでしょ?」
大宮司が短い祈りの言葉を捧げて、空に向かって両手を広げると、白い雪がひとひら舞い降りてきた。
「雪だ」
誰かがそう呟く声がした。
ナナリエは空を見上げた。十二の色が円を描くこの国に、真っ白な結晶がはらはらと降り注いでいた。
気づけば、会場中の人たちが空を見上げている。仕事の手を止めた者も、客も、立場の隔てなく、隣り合った人と笑い合っていた。
ナナリエは、嬉しそうに空を見上げる人々を、ゆっくりと見回した。それから、もう一度雪の降る空へ顔を上げた。
「今日はハルジオンの顕微鏡、出番ないね」
エンジュの穏やかな声が聞こえた。
「使うか?」
ハルジオンに聞かれても、ナナリエはすぐには答えなかった。
隣に立つ人の手を握ったまま、空を見上げていた。
ハルジオンの上着のポケットの中では、顕微鏡がぬくぬくと温まっていた。




