第32話 私にもお兄様ができました
王立宿舎での朝食のあと、部屋に戻ろうとした私をハルジオンが呼び止めた。
「アンリ、これを見てくれ」
そう言って、手のひらの上の白い器具を差し出した。
この前、ハルジオンが大切そうに握りしめていた携帯用の顕微鏡だ。審理のための滞在にまで持ってくるなんて、よほど思い入れがあるらしい。
「これを見ればいいの?」
私は顕微鏡を手に取って、レンズに目を近づけた。
違う。
この覗き方じゃ望遠鏡だ。顕微鏡なら、見るものを載物台に置いてピントを調節しなきゃ。
でも何を拡大したらいいんだ?
「そうじゃない」
ハルジオンがため息をついた。
「顕微鏡の記憶を読み取れと言ったんだ。君の、その髪で」
「あー。最初からそう言ってよ……」
「なんだと?」
「いえ、なんでもありません」
友達だって認めてくれたのに、ハルジオンはやっぱり圧が強いな。
「あ、でも。髪の毛で読み取ると、ここにある記憶はなくなっちゃうよ。大切なものなのに大丈夫?」
「問題ない。このために持ってきた」
ええ?何かの実験か?
「いちおう、由来を聞いてもいい?」
「読取後に話そう。……ちょっと恥ずかしいからな」
そう言ってハルジオンは悪そうな笑みを浮かべた。
な、なにその言い方?そう言われると見たくなる。
ソラリスもハルジオンの口車にまんまと乗せられてたけど、私も完全にこの人に意志を操られている気がする。恐ろしい王子だ。
「じゃあ、遠慮なく」
私は自分の髪をひとつまみ掴んで、毛先を顕微鏡に触れさせた。
ナナリエがいつもやっているみたいに、勝手に髪が浮き上がるやつも、かっこいいからやってみたいんだけど……。
そんな余計なことを考えた次の瞬間、私の意識は顕微鏡の記憶に吸い込まれていった。
乾いた風が吹く時間。
庭園は、高い建物の中ほどから空へ張り出すように、細長く延びていた。
頭上には青みがかったガラス板が連なり、降り注ぐ光を柔らかくしている。
背の低い草が絨毯のように広がり、色の濃い樹木が日陰を作っていた。
白い石で造られた人工の小川に沿って、少年は歩いていく。
涼しげな水の音と、草を踏み締める微かな足音だけが聞こえていた。
ポケットの中の白い顕微鏡を、少年は固く握りしめた。
少年の足が一度止まり、また草を踏み始める。
その音に気づいたのか、木陰で幼い少女が顔を上げた。
だけど相手を確認して興味をなくしたのか、少女は手元の端末に視線を落とした。
「何を見ているんだ?」
自分の顔を見もしない少女に、少年は声をかけた。
「日照時間と地表の気温の変化の図表です」
「……そうか」
少年は相槌だけ打って口を閉ざした。
「二度目ですね」
少女は顔を上げないまま言った。端末を操作する指は短い。顔つきは真剣なのに、頬は幼く、ぷくぷくと柔らかそうだった。乳白色の髪がさらりと落ちて、頬にかかった。
「今日は天気がいいな」
少年は滑らかに言った。
「先週より雲量は多いです」
訂正するように少女は顔を上げ、少年を見つめた。少年は、虹色の瞳に自分の姿が映ったのを見て、小さく息を呑んだ。
「雲量……?」
「空に占める雲の割合です」
「そうか……」
虹色の瞳は、立ち尽くす少年をじっと見ていた。
「叔父上に頼まれたのですか?」
「え?」
「よく、いらっしゃいます。私の話し相手になるよう、依頼された方々が」
そう言いながら、少女は首を傾げた。
少年は肩をすくめて、一度大きく息を吸った。
「君の叔父上には頼まれてはいない。……私の父から、君の話は聞いたが」
「あなたのお父上ですか?」
「そうだ。私は君の従兄だ、ナナリエ。十四歳で、君より五つ上だ」
「従兄?」
ナナリエは手に持っていた端末を木の根元に置いて、ゆっくりと立ち上がった。
その背は、少年の肩よりさらに少し低い。
ナナリエはしばらく考え込み、事実を整理するように淡々と話し始めた。
「私には父がいません。祖父母にも会ったことがありません。……兄弟もいません」
少年は開きかけた口を、一度閉じた。
「……では、私を兄みたいなものだと思って、気軽に話してくれ」
「……お兄様」
「あ……名前は一応、ハルジオンだ。前回も伝えたと思うが」
「……ハルジオンお兄様」
ナナリエは背伸びをして、ハルジオンの顔をまじまじと見上げた。
「そういえば——」
ハルジオンは思い出したように口を開いた。
「先週、君は、“どうして花は虫が花粉を運ぶことを知っているの?”と気にしていたな。私なりに調べてみたのだが——」
「花が昆虫に花粉を運ばせようと考えて今の形になったのではなく、昆虫に花粉を運ばれやすい性質を持つ個体が、世代を重ねて残ったということですね」
「あ、ああ……よく調べているな」
「はい。知識録を読みました」
ナナリエは褒められたことを喜ぶように、柔らかく目を細めた。
「……花粉の形は見たか?」
「図なら」
「実物は?」
「……見ていません」
ナナリエの虹色の瞳に、初めて期待の色が浮かんだ。
ハルジオンは、ようやく少しだけ胸を張った。
「なら、これを使おう」
ずっとポケットに隠してあった白い顕微鏡を取り出した。
ナナリエはハルジオンの手のひらに乗った顕微鏡をしばらく見つめてから、不思議そうに顔を上げた。
「いつも持ち歩いているのですか?」
「いや、それは……そうだ。観察するのにいいと思って」
「まあ。ハルジオンお兄様は観察するのがお好きなんですね」
ナナリエは、今度は顕微鏡ではなく、ハルジオンを興味深そうに見上げた。
「ああ。知識録を読むのも好きだが、実物に触れるのが一番好きだ」
気づくとハルジオンは自然に笑っていた。
「お兄様、こちらです」
ナナリエは花壇に駆け寄り、大きな白い花に手を添えた。
「この花にはよく昆虫が集まっているんです。この花から見ましょう」
二人は顕微鏡を雄しべの先に近づけ、交代でレンズを覗いた。
「粒の表面に、とげがたくさんありますね」
「そうだな。昆虫の身体に引っかかりやすい形なのだろう」
それから二人は、顕微鏡を花弁の表面や葉脈へと移していった。
涼しげな水音に、いつの間にか二人の話し声が重なっていた。
木々の影が長く伸び始めた頃、ハルジオンは、青みがかったガラス越しに空を見上げた。
「そろそろ失礼する。今日は……有意義だった」
ナナリエは手に持った顕微鏡を見つめていた。
「気に入ったなら、それを——」
「次回は、何を見ますか?」
そう言ってナナリエは顕微鏡をハルジオンへ差し出した。
記憶は、乾いた風の吹く空中庭園から、しっとりした風が葉を揺らす森へ移った。
川辺の大きな岩に、二人の少年が腰を下ろしていた。裸足を水に浸し、流れに足を遊ばせている。
そのひとり、ハルジオンは顕微鏡を取り出して手のひらで弄んでいた。
「あれ?ハルジオン、自然観察に興味が出たの?」
岩の上に寝転びながら、深緑色の髪の少年が尋ねた。
「……ナナリエという子だが」
ハルジオンが呟くと、少年はあくびをしながら目を閉じた。
「ああ、ハルジオン、最近話し相手になってるんだって?ナナリエに聞いたよ」
「……何か言っていたか」
「『私にもお兄様ができました』って、威張っていたよ」
「……威張っていた?」
「あの子、強烈だよねえ。すぐ僕の肩を足場にしようとするし、髪の毛ひっぱってくるし。逃げるの大変だよ」
少年は眉間に皺を寄せたが、口元は笑っていた。
「エンジュも、あの子にとって兄のような存在ではないのか」
「えー?僕?たぶん便利な乗り物か何かだと思ってるんじゃない?」
「そうか」
ハルジオンは顕微鏡を握りしめた。
「あの子の話は難しいな。先日も植物と昆虫の共生関係について質問されたのに、逆に私が講義されてしまった」
「そお?花は虫が味方になってくれるって信じてるんだよーって答えたら、『あっそう』って言ってすぐに立ち去ったけど」
「……なんだそれ」
ハルジオンは吹き出した。
「あ、今、ナナリエの無表情を思い出したでしょ?」
エンジュはくすくす笑って起き上がった。翡翠色の目を細めて、ハルジオンを見つめた。
「ハルジオンは困っている子を放っておけないからねえ」
「困っては……いないようだった。ただ……」
風が吹いて川の水面が細かく波立った。
「また会いにいく約束はした」




