第31話 戻ったか?
誰も口を開かないまま、淡いオーロラだけが揺れていた。
「なあ。この二人、なんかあんの?」
張り詰めた空気を壊すように、あっけらかんとした声をソラリスが発した。視線はナナリエに向けられている。
「見解が異なるからといって、ずっと分かり合えないということはないわ」
ナナリエも、いつもの、現象を分析するような淡々とした目をしていた。
「ああ、そういう感じか」
ソラリスとナナリエが揃って見つめると、エンジュとヒヤシンス様が曇った顔で俯いた。
ハルジオンはヒヤシンス様を自分の方に向き直らせ、そっと背中を撫でた。
俯くエンジュの頬を、ロタラが両手で優しく包んで、自分の顔へ引き寄せた。
「エンジュ……」
「ロタラ……」
二人の顔がぎりぎりまで近づいたとき。
ゴッ!
ものすごく潔くて鈍い音があたりに響いた。
一度振りかぶったロタラの額が、エンジュの額にめり込んでいた。
「いっ……たぁ」
エンジュが涙目で額をさすった。
「戻ったか?」
ロタラが白い歯を見せて爽やかに笑った。
「うん。ありがとう、やっぱりロタラの頭突きが一番効くね」
「なに。君を守ることが私の役目だ。礼には及ばない」
ロタラは槍を担ぎ直して姿勢を正した。
「……どういうことだよ」
呆然とするソラリスに、ロタラは胸を張って答えた。
「落ち込んでいる時にこれをやると、エンジュが元気になるんだ!」
「す、すげー……。珊瑚宮の連中、こんなんばっかだから馴染めないんだよな」
ソラリスが冷めた目で、口元だけわずかに引き攣らせた。
「昔からずっとこうよ。この二人は」
ナナリエも冷ややかな目で様子を眺めていた。
エンジュは額をさすりながら、ソラリスとナナリエに目を向けた。
額に添えられた手がぴたりととまり、その手がエンジュの顔を少しだけ隠した。
「大切な人は失いたくないよ」
深緑の前髪が手のひらの中でくしゃっと握られた。
「だけど——ナナリエと博士の研究。それだけは、僕は認められない」
ハルジオンとヒヤシンス様が同時にナナリエを見た。
「お前、なんの研究してるの?」
ソラリスが即座に聞いた。
「王だけが担っている機能の解明よ」
ナナリエも何の躊躇いもなく答えた。
「……さっきのやつか」
ソラリスの声が低くなった。
雨上がりの空みたいに澄んだ瞳が、問いかけるようにエンジュを見上げた。
「……ああ、そうだった」
エンジュは前髪を握りしめていた手を緩め、静かに下ろした。
「まずは大切な人たちの体調を一番に心配しなくちゃいけなかったね」
私たちは林の中から遊歩道へ戻った。街灯がみんなの顔を照らす。
そうか、さっきまでここを歩いていたんだ。脇道に逸れて、どこか遠いところまで行っていた気分だ。明かりに照らされても、みんなの表情はあまり読み取れなかった。
エンジュはナナリエの頭上に手をかざした。
「頭痛や身体の痺れはある?」
「ないわ」
同じようにソラリスにも確認し、エンジュは最後にハルジオンへ目を向けた。ヒヤシンス様がまだ彼の腕を掴んでいる。
「……ハルジオンは」
「問題ないわ。全部確認した」
「……そう」
エンジュは小さく肩をすくめた。
その場に束の間の沈黙が落ちると、ナナリエが慎重に口を開いた。
「先ほどの現象……結環の儀のときの感覚に似ていたわ」
ナナリエが言葉にするなら、強い確信があるのだろう。
ナナリエは思案するように俯いていたが、横目でソラリスを観察していた。
エンジュは、ソラリスを一瞥してから深く頷いた。
「ナナリエが感じた通りだよ。身体を使ったから今日はよく休んで」
会話を続けるには、ナナリエの中で整理が足りないのだろうか。彼女は口を閉じて、エンジュの顔をじっと見ていた。他の情報がエンジュから開示されることを待っているのかもしれない。
その貼り付くような視線に困惑したように、エンジュが苦笑した。
「今夜、ナナリエは瑠璃宮に帰るんだよね。……ソラリスは?」
ソラリスは両拳を空に突き出して、伸びをした。青い目だけが、私をちらりと見た。
「こいつらと一緒にサファイア宮の王立宿舎に泊まる——」
そう言いながら、目線が私からハルジオンへ流れた。
「だよな?」
「ああ。ソラリスの部屋も確保してある」
ハルジオンが頷いた。
「そう。じゃあ大丈夫だね。また翡翠宮に来て」
「……いいぜ」
「あ、期日を決めないと、また五年くらい放ったらかしにされちゃうね。今月中に来て」
「そんなことねえよ。……でも、わかった」
ソラリスがカラリと笑った。対照的にナナリエはじっとりとエンジュを見上げた。エンジュの衣の袖を、ナナリエの手が力強く掴んでいた。
「……私も行くから。エンジュ、逃げないでね」
「も、もちろんだよ」
ナナリエの上目遣いにエンジュがたじたじになっていると、空から優雅な声が降ってきた。
「ナナリエ〜」
見上げると、白い船底みたいな形の乗り物が上空に浮いていた。
キーンという小さな音と共に、白い車が広場に下りてきて、透明な装甲で覆われた側面の扉が開いた。
「遅いので迎えにきましたよ」
柔らかく微笑むセアノサス様だった。みんな一様にお辞儀をする。
「叔父上。私は列車で帰ると言いましたよね」
ナナリエはとげとげした口調で言った。
「明日は学会でしょう。今夜は早く帰宅したほうがいいですよ」
「え?ナナリエ、明日学会なの?」
「ええ。菌糸網を介した植物個体間の化学物質移動と応答についての発表よ」
「なにそれ。植物同士が会話するみたいなやつ?」
あれ、王の機能についての研究だけじゃなくて、他のこともやってるんだ。
「……だいたいそんな感じよ」
ナナリエは何か言いたそうな顔をしている。私の解釈がざっくりし過ぎていたか。
「じゃあ、急がなきゃ!せっかくお迎えに来てくれたんだから車で帰った方がいいよ!」
学会前日に、こんな時間までみんなと食事を楽しむなんてナナリエは余裕があるなあ。
「アンリの言う通りですよ。お友達の助言は聞きましょうね」
車の中からセアノサス様がにこにこ笑っていた。その笑顔を睨みながらナナリエが口を尖らせた。
「……わかりました。でもヒヤシンスお姉様も送って差し上げてください」
「おや。ヒヤシンス先生は、いつも真っ赤な車で颯爽と走ってますよね?今日は列車なんですか」
「……低空走行をして、ただいま免許停止処分中なのです」
ヒヤシンス様はバツの悪そうな顔で答えた。
「相変わらずお転婆ですね。では、お送りしましょう」
「恐れ入ります。セアノサス殿下」
ヒヤシンス様を先に乗り込ませ、ナナリエは私のところまで戻ってきた。
「アンリ、またすぐに会いましょうね」
「うん。明日の学会がんばってね」
ナナリエはうずうずと肩を動かして、少しはにかんだ。
「それから、お返事を待っているわ」
おっと?「言わないと決めていた」って言っていたことを、また言ったぞ。
これはナナリエ、相当楽しみにしているやつだ。
「よくわかんないけど、私も楽しみにしてるよ」
ナナリエは顔いっぱいに笑って、空飛ぶ車に乗り込んだ。
そっか。もう、私とナナリエの間には制限がなくなったんだ。
「王女が怪しげな魔女を強引に庇い立てている」と噂を立てられることもないんだ。
会いたいときに、ナナリエに会える。
車が夜空に消えると、ロタラがエンジュの肩に手を回した。
「では、若宮司は疲れているので、私たちもこれにて失礼する」
「そうだね。ではまた後日——」
踵を返そうとしたエンジュの足が、思い出したように止まる。
翡翠の瞳が、すっと私の目の前に下りてきた。
「アンリ。ヨルカのこと、連れて行ってあげてね」
「任せて」
安請け合いかもしれない。エンジュがどれだけヨルカを大切にしているかわからない。
まあでも、ヨルカは何でも見たり聞いたりしたがっているんだから、目的は私と一緒な気がする。
エンジュは安心したように頷き、立ち上がってロタラと一緒に歩いて行った。
ソラリスが再びあくびをした。
「んじゃ、俺たち無職の三人はのんびり行くとするか」
「いや、アンリは学生の身分を手に入れたから無職ではない」
「ソラリスとハルジオンは無職かあ。先月まで立派な肩書きあったのに」
「あ!お前、もしかして俺たちが無職になったから呼び捨てにし始めたのか」
「え?いやいや、友達になったからでしょ」
「俺はお前とは友達になった覚えはない。なあ、ハルジオン」
「……私はアンリを友人と認めよう」
「やったー!さすがハルジオン」
「なに!?でも俺の方が仲良いよな、ハルジオン」
「なぜそこで張り合う」
「そうだよ。すぐに張り合うの、やめた方がいいよ」
「うるせーな」
私たちも宿へ向かう道を歩いた。
空には淡い光のカーテンが、みんなの家路を見守るように揺れていた。




