第30話 大切な人を失うのは嫌なの
※エピソード分割に伴い、話数が変更されています。内容に大きな変更はありません。
エンジュの声がみんなの動きを制止した。
ソラリスとナナリエは互いに手を伸ばしたまま、ハルジオンも二人を見つめたまま、誰も動かなかった。
ようやく周囲へ視線を向けると、樹々の合間にも複数の人影が立ち尽くしていた。
ただひとつ、エンジュの足音だけが光のドームに近づいていく。
「少しだけ、そのまま」
エンジュは光の粒が漂う半球に右手を触れた。そのまま半球の外側を撫でるように、ゆっくりと手を回した。左手は半球の下の方に添えられ、少しずつ内側に押し込んでいるように見えた。
光のドームは、エンジュが撫でるたびに少しずつ小さくなっていく。まるで大きな雪玉を、両手で丸め固めているみたいだった。
半球だと思っていた光の流れは、小さくなるにつれて地面から引き抜かれるように持ち上がり、やがてエンジュの手のひらの上で球になった。
その周囲には、まだ細い光が流れている。エンジュはそれを、わたあめを棒に絡め取るみたいに指先へ巻き取っていった。
エンジュが息を吐いた。
「もう大丈夫だよ」
その言葉を聞いて、ようやくソラリスとナナリエは腕を下ろし、ハルジオンも呆然とした様子で一歩だけ二人に近づいた。
「皆、通常の配置に戻れ」
暗がりで待機しているであろう人たちに、ロタラが呼びかけた。
ナナリエは下ろしかけた手のひらをじっと見つめて呟いた。
「今の……私たちが磁場に干渉した?」
自分で言った言葉に驚いたように、ナナリエは顔を上げた。
虹色の瞳は、真っ先にハルジオンの顔を探した。けれど、その視線はゆっくりとソラリスに戻っていった。ソラリスもナナリエを見ていた。
私は、何が起きたのかわからず、ナナリエとソラリス、それからハルジオンの背中とエンジュの横顔を順番に見つめた。
視線を動かしながら私は気づいた。公園に入ったときから感じていた、視界の気持ち悪さが消えている。
いつからだろう。たしか、私の髪も浮いて、光がドームの中を流れ始めた頃には、もう気にならなくなっていたような。これって、もしかして……。
——パシャッ。
私の背後で誰かが駆け出した。水たまりが跳ねるのも気にせず、風のように樹々の間を抜ける。
薄金色の柔らかな髪が、ふわりと広がった。
「——ハル!」
ヒヤシンス様が、ハルジオンの背中に飛びついた。
「……姉上」
ハルジオンが振り返り、ヒヤシンス様の両肩を掴んだ。
「大丈夫?頭痛は?耳鳴りは?どこか変なところはない?」
ヒヤシンス様は矢継ぎ早に質問を投げつけた。いつもの余裕たっぷりの彼女とは様子が違った。
「姉上、私は平気です」
「今、何をしたの!」
ヒヤシンス様が叱りつけると、ハルジオンの琥珀色の瞳が少しだけ揺れた。
「いえ、私は、何も……」
「無意識なの?制御できていないなら、なおさら危険だわ」
ヒヤシンス様はハルジオンの胸元に顔を押し付けて震えていた。
ハルジオンがしばらく背中を撫でていると、ヒヤシンス様はゆっくりと身体を離した。
ヒヤシンス様の顔が横を向き、鋭い矢のような視線が放たれた。
「ちゃんと見てなさいよ」
重く、突き刺さるような低い声だった。
ヒヤシンス様の目は、真っ直ぐにエンジュを射抜いていた。
だけどエンジュはまだ、指先に残った光を見つめていた。
「姉上、どうか落ち着いてください」
ハルジオンは背後から、ヒヤシンス様の両肩を掴んだ。
無言のエンジュに、ヒヤシンス様の声が追い打ちをかける。
「あなたたちはそうやって外側から手を出すだけで、身体を削り、危険に晒されるのは王でしょう——」
「口を慎め、ヒヤシンス」
ヒヤシンス様とエンジュの間に、ロタラが立ち塞がった。槍は石突きを地面に突き立て、穂先は天を向いていた。
「王になることを降りた君が、真っ先に役目を引き受けたこの男を非難するな」
「……役目?」
ヒヤシンス様はロタラを睨み返した。
「双王が立たねば、この国は成り立たないだろう」
「成り立たないなら滅びればいいのよ」
鼻先で笑うヒヤシンス様に、ロタラは真っ直ぐな視線を向けた。
「だが、君はその国で今も生きている。この国で生きる人々の命を救う仕事をしている」
ヒヤシンス様の視線が足元に落ちた。足元ではまだ薄緑の苔が淡い光を残していた。
「……目の前に救える命があって、自分に救う技術があるなら、立ち止まるわけにはいかないだけよ」
俯くヒヤシンス様をハルジオンがそっと抱き寄せた。
「エンジュも同じだ」
ロタラは微動だにせず声を上げた。
エンジュは視線を落としたまま何も言わない。
「双王を守れるのは大宮司だけだ」
俯いた拍子に顔にかかった髪の奥で、ヒヤシンス様の唇が小さく動いた。
「……守れなかったじゃない」
小さな呟きを聞き、ロタラの眉間がわずかに動いた。
「二十年前のことか——」
言いかけたロタラの声を遮るように、ヒヤシンス様が勢いよく顔を上げた。
見開かれた目が涙に滲んでいた。
「認めないわ。誰かの身体を犠牲にして成り立つ安定なんて」
腹の底から響く声は、ヒヤシンス様の喉元で少しだけ掠れていた。
「大切な人を失うのは嫌なの」
絞り出すような声を前に、ロタラは口を閉ざした。
ハルジオンも眉を寄せて視線を落としていた。
「……うん」
エンジュがゆっくりと顔を上げた。穏やかな表情。なのに、そこに微笑みはなかった。
「そうだね。僕もそう思う」
翡翠色の目は冷たくも温かくもなく、ただ静かにヒヤシンス様を眺めていた。
ヒヤシンス様は一瞬だけ身体を強張らせ、だけど拳をぎゅっと握って声を出した。
「だったら、どうして若宮司になんてなれるのよ……」
エンジュの目が瞼の奥にかくれた。
「先生のことを慕っていたのは、あなただけじゃないよ」
静かな声なのに、エンジュの声は空間を満たした。
やがて、エンジュが目を開いた。
「僕は、僕のやり方で守る」
その目は、ヒヤシンス様を通り越して、どこか遠くを見ていた。
淡いオーロラの光に照らされて、みんなが黙っていた。
ナナリエもソラリスも、さっきまで互いに向けていた視線を、今は四人へ移していた。
……エンジュも、ヒヤシンス様も、そしてハルジオンとロタラも、たぶん同じ誰かを思い出している。その人を失った傷が、この人たちの今を作っているのかもしれない。
どれだけ、大切な人だったんだろう。




