第29話 手をつなぐ前に、磁場が二人を選んだ
※エピソード分割に伴い、話数が変更されています。内容に大きな変更はありません。
この国の一日は、十二の刻に分けられている。
正確には、季節によって一刻に割り当てられる長さが変わる。日没が翡翠の刻で、深夜が瑠璃の刻、夜明けが珊瑚の刻だ。今は夏の初めなので、夜の一刻は少しずつ短くなっている。
今はちょうどエメラルドの刻からサファイアの刻へ移ろうとしている。地球の時刻で言うなら午後九時を過ぎた頃だろうか。
サファイア宮の空には、淡い翡翠色のオーロラがかかっていた。オーロラの光に隠れているせいか、目視できる星は少ない。
私はナナリエと並んで公園へ向かう通りを歩いていた。こうやって歩くのは久しぶりだ。いつも、ナナリエの早足に遅れないよう頑張っていたけど、今日はゆっくり。
宿に戻る私たちと、列車に乗って家路に着くナナリエたち。目的地はそれぞれ違うけれど、公園の中を抜けて行く道筋は、みんな一緒だった。
「王都から離れると、オーロラが濃くなるよね?」
王都にいた頃は、この国でオーロラが見られることを忘れるほどだった。月にあたる衛星もなく、都の明かりに照らされた夜空には薄らと星が見えていた。
ナナリエは空を見上げて答えた。虹色の瞳が翡翠色を複雑に反射させる。
「磁場の傘みたいなものね」
ナナリエにしては説明が短い。いつもなら長くて難しい解説を私がわかるまでしてくれるのに。
ナナリエの向こうでヒヤシンス様も無言で空を見上げていた。琥珀色の目が、ひどく寂しそうに揺れていた。
「傘って……」
私が聞き返そうとしたとき、背後でソラリスの大声が聞こえた。
「なあ、最初はどこの学校行きたいんだ?」
名前を呼ばれていないのに、妙に声色が私に向けられている気がして思わず振り返ってしまった。
私たちの後ろを、ソラリスとハルジオンが並んで歩いていた。小さなカップに入ったおつまみを二人で分け合いながら食べ歩きしていた。さきほどの店でテイクアウトしたらしい。何かの内臓肉を一口サイズに切って炙ったやつだと言っていたので、私は遠慮した。
でも二人が食べているのを見ると美味しそう。今からでも一口もらおうかな。物欲しそうに後ろ向きに歩いていると、私の踵が何かに引っかかった。
た、倒れる……!
「おい、危ねえ!」
ソラリスが手を伸ばした。
けれど、その手が届く前に、私の身体はふわりとした感触に支えられた。
「後ろ向きに歩いたら危ないわ」
ナナリエが私の背中を片腕で支えてくれていた。
「ありがとう」
私はナナリエの腕に掴まって、体勢を整えた。
「肉に見惚れていたな」
ハルジオンがニヤリと笑った。
……ばれている。
ハルジオンはすぐに笑みをしまって、話を戻した。
「学校だが、国の成り立ちを知りたければ琥珀に、この国を科学的に分解したければ瑠璃に行くといい」
「まあ、瑠璃宮へ来るの?」
ナナリエが期待の眼差しを向けてきた。瑠璃宮はまだ行ったことがない。
「どちらも気になるなあ」
琥珀宮には行ったことがある。というか、最初に目覚めたのがそこだ。だけど右も左も、言葉も習慣もわからないときだったから、あまりよく観察できていない。
悩みながら歩いているうちに、いつの間にか公園の敷地に足を踏み入れていた。
……疲れたのかな。
視界が少しだけ回るような気がする。身体がふわふわして気持ち悪い。
審理で緊張したし、ヨルカとも交信したし、いろいろあった一日だったから。
「……なんか変だな」
いつの間にかソラリスが私の隣を歩いていた。
「歪みを感じる」
ナナリエが胸元から懐中時計のようなものを引っ張り出して、何かを確認した。
もしかして私の身体が変なんじゃなくて、環境に異常があるの?
状況を確認しようと視線を上げると、前方で、遠くから走ってきた幼い男の子がよろめいた。その向こうで両親が慌てて声を上げる。
男の子が地面に倒れ込む瞬間、薄緑の衣が揺れて、エンジュが子どもを抱き止めた。駆け寄ってきた両親は男の子をエンジュから引き取り、深々と頭を下げて礼を言った。
「つまずいたんじゃないよね?」
エンジュは男の子の目の前にしゃがんで尋ねた。
「うん。地面がぐにゃってした」
その言葉にヒヤシンス様が足早に近づき、男の子の顔を見た。
「眼振が見られるわ。神経伝達が一時的に乱れている可能性があるわね」
ヒヤシンス様は男の子の両親に、怪我はないし、場所を変えて落ち着くようなら心配いらない、続くようなら明日受診するようにと伝えた。
親子を見送ると、エンジュがロタラに言った。
「夕方にも、この辺りで転んだり、よろめいている子を何度か見かけたんだ」
「一人二人ではないということだな」
ロタラは神妙な顔で応じた。
そういえばエンジュは、ソラリスとロタラの手合わせが終わった後、途中から私たちの会話に混ざらずに公園の端の方を眺めていたな。あれは光合成をしていたんじゃなくて、道を行く子どもたちの様子を見ていたんだ。
ソラリスが遊歩道の端から、樹々の間へ数歩入った。
「たしかに気持ち悪い。こっちに行くほど強くなる」
「磁場が極端に強い箇所と弱い箇所があるわ」
ナナリエも計器を手に、樹々の間を見つめた。
「三日前、サファイア宮にしては珍しく大雨だったよね」
エンジュが呟いた。
「ああ。山間部では土砂災害も報告されている」
ハルジオンがすぐに答えた。
ナナリエが人さし指で自分の顎をトントンと突ついた。
「この公園一帯は砂礫層です。地盤は安定していますが……」
「地中の磁性鉱物は移動しやすいね」
エンジュがナナリエの言葉を引き継ぐと、ソラリスが林の奥を見ながら言った。
「どっかに溜まっちゃったのか」
みんな、何の話をしてるんだろう。
あまりに当然のことのように会話が進むので、私は口を挟めずにいた。
輪から外れて眺めている私に、ヒヤシンス様が声をかけた。
「私たちの身体は安定した磁場のもとでは正常を保てるけれど、磁場が歪むと神経に支障をきたすの。地表から離れすぎてもだめね。車が飛べる範囲を超えると頭痛や耳鳴り、精神への影響もあるわ」
ナナリエも以前、同じようなことを言っていた。飛行機に乗って雲の上を移動するっていう話を私がしたときに。
「では救難隊に通報して調査班を出させよう」
ロタラが落ち着いた口調で告げ、右手に光る珊瑚の環を掲げた。エンジュも頷く。
「——いや」
ソラリスが樹々の間から言った。
「近いわ」
ナナリエも遊歩道を逸れて、樹々の間に吸い込まれていった。
「足元に気をつけろ!」
ハルジオンが慌てた様子で追いかけた。
「ナナリエ!」
目の前を横切ったハルジオンにつられて、私も薄明かりの林の中に足を踏み入れた。
暗い。
さすがにこの暗がりを、ソラリスとナナリエみたいに全力疾走は無理だ。ところどころ水たまりも残っている。
「待って!」
背後でエンジュの声が聞こえた。
「……って言っても、もう聞いていないか」
エンジュの足音も後ろから付いてくる。
……他にも何人かの足音が聞こえる?
だけど、どんどん進む三人を追うのに必死で、私には振り返る余裕はなかった。
私はひたすら、ハルジオンの明るい髪色を目印に林の中を進んだ。ときどき水たまりを踏んで、ぱしゃっと小さな音が聞こえた。
しばらく樹々の間を進むと、前を行くハルジオンの背中が止まった。
その前を覗くと、ソラリスが振り返ってこちらを見ていた。
「このあたりが強い」
周辺とは何の違いもない、樹々の合間だった。頭上から葉の隙間を抜けて淡い空の光が落ちてくる。
「だから周辺が弱まっているのね」
ナナリエはソラリスが指し示す場所にさらに近づこうとした。
その足が水たまりを踏み、滑った。
ナナリエの身体が後方に傾く。
「危ない」
ハルジオンが駆け出すのと、ソラリスが手を伸ばすのはほとんど同時だった。
反射的にナナリエもソラリスに手を伸ばす。
けれど、互いの手を掴む間もなく、ナナリエの左足がしっかりと地面を踏みしめた。
ナナリエは自力で踏みとどまった。
……ナナリエ、体幹が強いからな。
ハルジオンもナナリエのすぐ背後で立ち止まり、伸ばしかけた手を下ろして息を吐いた。
怪我がなくて良かった。
樹々の合間から、いくつか息を吐く気配がした。
……誰かいる。
もしかして、前に聞いた、遠くから見守っている人たちだろうか。
林の中は静まり返った。
ただ、互いに向けて差し出された手だけが、宙に浮いていた。
触れる寸前の手。
私の足元で何かが反射した。
水たまりの水面が細かく震えている。
石を打ち鳴らすような音が私の鼓膜を揺らした。
髪が引かれる感触があった。
目の前の三人の髪も見えない力に引かれるように浮き上がっていた。
ソラリスの黄金の髪が空へ立ち上がり、ナナリエの乳白色の髪が左右に流れ、ハルジオンの髪も背後から前方へ引かれていた。
それぞれ別の方向へ引かれているように見えた。
でも、よく見ると違う。
三人の髪は、同じ丸みの上を滑っている。
見えない大きな屋根に沿って流れているみたいだった。
どこかから放たれた光の粒が、ひとつ、またひとつ、集まり始めた。
空間に光の粒が溢れていく。
見えなかった輪郭が明らかになっていく。
ソラリスとナナリエ、数歩後ろのハルジオンは、光のドームの中にいた。
——私も。
私の周辺にも、薄らと光の粒が動いていた。
光の粒は半球の内側を方向性を持って循環していた。
私には、光がソラリスの背後から頭上を渡り、ナナリエの背後へ流れているように見えた。
だけど、この大きな光の空間には私もハルジオンも立っていた。
「この光……荷電粒子?」
手を伸ばしたままのナナリエが、半球内を見回した。
「山で見たことある。この光り方は磁性生物の胞子だ」
ソラリスも、手を下ろすのを忘れたように息を呑んだ。
私は周辺を見渡した。木の根元が淡く翡翠色に光っている。苔のようなものが自ら光を発しているみたいだった。そこから輝く粒子が舞い上がって、半球に吸い込まれている。
光の中で二人の視線が重なった。
二人は何かに気づいたように目を見開いた。
背後で、いくつもの気配が動いた。
樹々の間から、こちらへ近づいてくる足音が重なる。
その音に我に返ったのか、二人もハッとしたように向かい合っていた手を下ろしかけた。
そのとき。
「動かないで」
エンジュの静かな声が空間を満たした。




