第20話 時間の重さに潰される
「若宮司様。推測ではなく、確認されている事実をお答えください」
深緑の前髪の奥で、眉間が険しく寄った。
エンジュが息を吐く前に、弁護人席で静かな声が上がる。
「ありません」
ハルジオンだった。
エンジュが視線だけをそちらに送る。
「我々は彼女の生い立ちを知りません」
表情はない。
冷たくも、熱くもなく、ただ事実だけを置いていく。
「出生地も、養育者も、どのような生活をして十四歳まで育ったのかも分からない」
「では——」
検察官が口を開きかけたとき、ハルジオンの声が一段強くなった。
「ですが、それこそが問題なのです」
法廷内の全員が、はっとしたように顔を上げた。
「この国では、出生した子どもは系譜に登録され、一人に一つ環を与えられる。就学し、必要な医療を受ける。養育者を失えば保護される。そのいずれについても、彼女の記録がありません」
ハルジオンはヨルカを見た。
「彼女が誰に育てられたのか、一度も教育を受けたことがないのか、断定することはできません。しかし、少なくとも、十四歳になるまで、この国のどの制度にも彼女の存在は記録されていなかった」
琥珀色の瞳が熱を帯びる。
「我々が彼女を発見した後も、十分な教育と保護の制度につなぐことができなかった。その我々が、彼女にだけ社会の規範を知っていて当然だとし、知らなかった結果について責任を負わせる。それが公正でしょうか」
「教育を受けていないから責任能力がない。だから無罪だ、釈放しろと、王子殿下はそう仰りたいのですか?」
「我々は釈放を求めているのではありません」
「では何を——」
「お前ら、今朝までのヨルカが何してたか知ってる?」
ソラリスの声が空気を切った。
「知らないよな。俺は見てきた。一人でぼーっとしてた」
どんよりと沈む法廷の中ではソラリスの声は妙にからっとしていた。
「みんなでヨルカを危険な猛獣みたいに遠巻きにしてさ。そんな環境で、ヨルカに社会性が身につくと思うか?」
「訴追後も身柄を預かるのは保安局ですので、留置中の処遇については……」
サファイア宮の検察官が珊瑚宮の保安官に視線を送った。
「じゃあそっちの保安官。答えろ」
「留置中の日常的な監督は監衛の職務です。我々保安官が直接接触する機会は多くありません。……ただ、被告人との接触後、接触前後の記憶を失ったという現場担当者の報告もあります。危険性がある以上、必要な措置は取るべきかと存じます」
「俺は平気だ」
「はい?」
「なんなら、ここで今、俺とヨルカを接続してみようか?俺じゃなくて、お前らの中の誰か一人でもいい」
ソラリスはずかずかと検察側の席に近づき、適当に目の前の一人を指さした。
「ヨルカと接続して、記憶が消えるやつがいたら、もう俺たちの負けでいいぜ。記憶が消えたふりしたって俺にはわからねぇし」
指をさされた検察官は不快そうに眉を寄せた。
すかさず裁判官がソラリスを嗜める。
「監衛ソラリス、検察側を挑発するような発言は謹んでください」
「ソラリス。ヨルカ様を見せ物にしないで」
エンジュも、ヨルカの足元に跪いたままソラリスを睨んだ。
その鋭い視線をそのまま検察側に向ける。
「だけど、聞き捨てならないね。保安局は十四歳の子どもを、猛獣みたいに檻へ閉じ込めて預かってるの?」
「その表現は適切ではありません」
「じゃあ、どう違うの?」
「必要な安全距離を確保しています」
「その結果、誰もこの子と話さないんでしょう?それをいつまで続けるの?」
言葉の速度が、相手を逃さない。
「ヨルカ様を閉じ込め続ければ、貴方たちが特異だと認定したこの存在を、社会が理解する機会まで失われる」
声には、わずかな嘲りが混じっていた。
「わかる?その判断が、将来この国から何を失わせるのか、考えたのかな?」
「それは神殿による司法への圧力ですか」
「これが圧力?僕の個人的な考えだよ」
「法廷で個人の感想は困ります」
「困るんだ。別にいいけど。僕がそう“観測した”ってことだけ最後に伝えておくね」
それまで黙ってやり取りを聞いていた裁判官が、わずかに顔を上げた。
エンジュは突き放すように微笑み、自分の席に戻った。
その背中に質問が投げかけられる。
「では若宮司様。社会性を身につけるまでの間に、七件目の被害が出た場合は?」
「出さねえ」
間髪を容れず答えたのはソラリスだった。
「保証できるのですか」
「俺がついてる」
「それは保証ではありません」
「だったら監視でもつけろ」
椅子をがたんと鳴らしながら、初めてハルジオンが立ち上がった。
「ではその条件を詰めましょう」
「条件?王子殿下は先ほど釈放は要求しないと言いましたね?」
「はい。無条件での釈放は」
ハルジオンは十分に間をとって話す。まるで相手に理解する時間を与えるように。
「我々は施設外監督が妥当だと考えております」
「施設外監督?」
「ここにいるイサリダ・ソラリスは、現在、珊瑚宮保安局の監衛です。彼を専任の施設外監衛として常時被告人の監督に当たらせます」
「監督者をそちらが指定するのですか」
「……もし他に適任者——拘束状態にない被告人のそばで常に生活指導を行える者がいるならば、その者でも構いませんが」
「……それは。いや、しかし、そちらの監衛を全面的に信頼しろというのですか」
「監督義務違反が認められる場合には、当然、公的な責任を負います。監督者だけではありません。この案を提出した我々も、検証と制度設計に関する責任から逃れるつもりはありません」
ハルジオンが言い終えると、隣でナナリエが立ち上がった。
表情は静かだ。
「再度、記録消失が発生した場合は、今回提示した仮説と管理方法に誤りがあったことになります。原因を特定し、直ちに措置を改めます。私もその検証から退きません」
エンジュも初めて背筋を正した。
「そのときは私も責任を問われます。それで構いません」
ソラリスは何も言わず真っ直ぐに立っていた。
そこからさらに、監督範囲、 行動制限、再発時の措置について、長い協議が続いた。
高窓から注ぐ光の色が変わる頃、裁判官が処分を告げた。
「六件の記録消失行為について責任を認める。ただし被告人の年齢、社会的理解の程度、監督計画を考慮し、施設内拘束に代え、二年間の施設外監督に付す」
検察側も弁護側も、誰一人喜ばなかった。
ただ、皆がぐったりと椅子にもたれ、経過した時間の重さに押しつぶされそうになっていた。
最初に立ち上がったのはヨルカだった。
ぴょこんと音がしそうなくらい軽やかな足取りだった。
「もう席を立ってもいいかい?」
ヨルカはソラリスに聞いた。
「それは、立つ前に聞くんだ」
ソラリスは疲れた顔で笑った。
「そうか」
ヨルカは律儀にもう一度椅子に座り直した。
そこにエンジュが歩み寄る。
「もう、立ってもいいんだよ」
ヨルカの小さな手を、エンジュの大きな手が包んだ。
真っ黒な目が、しゃがみこむエンジュを見つめた。
「ナナリエのところに行ってもいい?」
そう言い終わる前に、駆けてきたナナリエがヨルカを抱きしめた。
エンジュが脇によける。
「ヨルカ。長い間ひとりにしてごめんね」
「……そう?瞬きするくらいの時間だったよ」
ヨルカはナナリエの胸の中で不思議そうに首を傾げた。
「ヨルカ様の時間の中では一瞬だったよね」
目を伏せたエンジュの顔に影が落ちた。
「出ようぜ。腹減った」
ソラリスの声を合図に三人が外へ向けて歩き出した。
その様子を少し離れたところから、ハルジオンが眺めていた。
ソラリスが振り返る。
「ハルジオン」
「……ああ」
ハルジオンもその輪に向かって歩いていく。
五人の背中が、裁判所の大きな扉の向こうへ消えていった。
高窓から降り注ぐ淡い光だけが残った。
「アンリ!」
聞き慣れた声。
だけど、この声で呼ばれるのは初めてだ。
白い天井。
光に透ける金色の髪。
「——ハルジオン?」




