第19話 法廷のヨルカ
「もう一度質問します。あなたの名前は?」
投げかけられた質問が、小さな身体を素通りしていった。
少女は連れてこられた場所に、ただ立っていた。
自分に話しかけられているとも気づかずに。
法廷の真ん中にぽつんと立つヨルカ。
たった一人なのに不安そうでもない。
立たされたから、立っているだけ。
その横で、ナナリエが静かに立ち上がった。
「王女殿下、ご着席を」
ヨルカとは異なり、自分の意思で明確にその声を無視するナナリエ。
真っ直ぐにヨルカの元へ行き、その隣に腰を落として、ヨルカの手を取った。
「ヨルカ、あなたの名前を言うの」
ヨルカはナナリエを見つめて、顔をほころばせた。
「名前?」
「みんな、あなたの名前を知りたいの」
「私の名前を?みんなが?」
「そうよ。教えてあげて?」
「いいよ」
ヨルカはきょろきょろと辺りを見廻し、行き場を失った視線はナナリエに戻ってきた。
そして砂が落ちるような小さな音で短く告げた。
「ヨルカ」
法廷内は、深海のように重苦しく、皆が疲弊し切っていた。
問い詰める側のサファイア宮の検察官たちも。
捜査資料を提示する珊瑚宮の保安官たちも。
受け答えをする側の、四人も。
その場を預かる裁判官も。
「あなた方は一人の少女について話しています。しかし、こちらは消失した数百件の記録と、そのために権利を証明できなくなった市民について話しているのです」
「その数百件のうち、ヨルカによる消失であることが確認されたものは何件ですか」
検察官の質問に、一瞬の呼吸も挟まずに質問を投げ返すナナリエ。
「そのうち本人の接触が確認されているものは?」
「読み取りまで確認されたものは?」
「消失時刻と一致するものは?」
「……完全に一致するものは、八件です」
検察官は息苦しそうに声を絞り出した。
「数百件が八件にまで絞られますか。ずいぶん大雑把な捜査ですね」
ナナリエが背もたれに深く座り直す隣で、ソラリスが机に肩肘をついて身を乗り出した。
「残りは知らねえだろ。まとめてこいつのせいにすんなよ」
「では、一致する八件についてですが——」
「で?消えたって言うんなら、そっちが証明してくれるんだよな?消えたもんをよ」
「監衛ソラリスは、発言を慎んでください」
「質問に答えろよ」
検察官が口を開く前に、ナナリエが淡々と続けた。
「そのうち二件については、同時刻に同区画で通信障害が確認されていますね」
「……はい」
「では、その二件をヨルカによる消失と断定することはできません」
「異議ありません」
向かい合う両者の間にはひりひりと焼け付くような空気が滞留していた。
「では、残る六件について被告人の関与を否定しますか」
睨みつけるような上目遣いで検察官が質問をした。
ナナリエもソラリスも黙った。
エンジュとハルジオンも真っ直ぐに検察官を見ていた。
やがてナナリエが机の端を小さく叩いた。
「……いいえ。否定しません」
検察官がふうっと息を吐く音が静寂の法廷に響いた。
「では」
検察官は資料を閉じた。
「被告人が再び同様の行為を行う可能性について伺います」
その後は検察官の確認が淡々と繰り返された。
「再発しないと保証できますか」
「保証はできませんね」
「被告人は能力を完全に制御できますか」
「完全、というなら、不可能ですね」
「被告人は自分の行為によって市民がどのような不利益を被ったか理解していますか」
「まだ、その意味を十分には理解していないでしょう」
質疑応答の間、ヨルカは発言をしている人の顔を交互に見ていた。
真剣に話を聞いているようにも見え、ただ音がする方へ視線を送っているだけにも見えた。
「能力の発動が本人の意思に左右される一方で、その意思を安定して確認する手段がない以上——」
疲れ切った顔の検察官がそう発言したとき、エンジュの低い声が食ってかかった。
「だから、意思がないんじゃなくて、伝える方法を知らないんだって言ってるでしょ」
「若宮司の言う通りです。意思の不存在は確認されていません。確認できているのは意思疎通手段が極端に限定されていることだけです」
長い審議の中、疲れ切ったナナリエの声は苛立ちに震えていた。
その時。
法廷内に場違いな歌声が聞こえた。
椅子に深く腰掛けたヨルカが、ナナリエに微笑みながら鼻歌を歌っていた。
「ヨルカ……」
ナナリエは言葉を失ってヨルカを見つめた。
検察官も保安官も、信じられないものを見るようにヨルカを見つめた。
静かに立ち上がったエンジュがヨルカに歩み寄り、その隣に腰を落とした。
「いつもナナリエに歌ってもらってる歌?」
「うん。眠る前に。夜の恐怖を和らげる効果がある」
「今は?ナナリエが怒っていたから?」
「うん。ナナリエの恐怖が取り除かれるように」
エンジュは首を傾げて愛おしそうにヨルカに微笑んだ。
けれどすぐに冷ややかな目つきに戻り、ゆっくりと立ち上がった。
「君たち、ヨルカ様の気が触れたとでも思った?そうじゃない。知らないだけだ。今が歌っていい時間じゃないって」
エンジュはヨルカの手を取ったまま、法廷を見回した。
「誰に教えられなくたって、当たり前に分かることだと思う?」
誰も答えない。
「そんなことないよね。君たちだって、どこかで教わったんだ。言葉で教えられたのかもしれない。周りを見て覚えたのかもしれない。注意されたのかもしれない」
ヨルカはエンジュの手を不思議そうに観察していた。
その大きな手は小刻みに震えていた。
「ヨルカ様には、それを教えてくれる誰かがいなかったんだ」
「若宮司様は被告人の生い立ちをよくご存知なのですか?」
「ヨルカ様だよ」
冷たい声。
「名前がある。属性で呼ばないで。それに、今、僕とヨルカ様の関係について答える時間じゃないよ」
「法廷では必要な呼称です」
「知ってるよ」
エンジュは笑わなかった。
「でも僕に尋ねてるんでしょう。だったら僕はヨルカ様について答える」
「エンジュ、あっち」
ふいにヨルカが立ち上がってエンジュの手を引いた。反対側の手で弁護人席を指差している。
「ナナリエの隣に座りたいんだ」
「今はここに座って?」
「ナナリエと一緒の方がいいと思う」
エンジュが困っていると、身軽に駆けてきたソラリスが、ヨルカの背後に回り、脇を抱えて椅子に座らせた。
ついでに顔を覗き込んで、軽く睨む。
「お前は、ここ。そう決まってる」
ヨルカがぼーっと青い瞳を見たあと、こくんと小さく頷いた。
「で?」
くるっと勢いよくソラリスが振り返る。
「なんの話してたっけ?」
じっとしていた反動か身体の振りが大きい。
「被告人ヨルカの生い立ちについて、若宮司様はご存知なのかとお聞きしました」
「見ればわかるでしょう。靴を履く理由さえ知らない、小さな子どもだ」
「質問を変えます。若宮司様が被告人ヨルカの生い立ちを知る根拠をお答えください」
「根拠?」
エンジュは初めて言葉に詰まった。




