第15話 未知を遠ざけないために ——審理二日目・午前
法廷の扉を開けようとしたとき、視線の端に乳白色のきらめきが目に入った。
そこにナナリエがいるって、私は反射的に気づいた。
声をかけようと口を開いた私より早く、彼女へかかる別の呼びかけ。
「姫、昨日の就寝時刻は?きちんと寝たのよね?」
「ナナリエ殿〜!本日の審理資料、質問されそうなこと、思いつく限り全部書いておきましたぞ」
青い髪の落ち着いた女性と、同じく青い髪のヒョロっとした男性が、ナナリエの背後を追いかけていた。見たところ、ナナリエと同世代だ。
「昨夜はエメラルドの刻には寝ていたわ。資料は今から確認する」
ナナリエは振り返りもせずに答える。
そのまま三人は会話を続けながら足早に証言者控室に入っていってしまった。
親しそうだったな。瑠璃宮の友達かな。
ひとりで答弁席に着くと、傍聴席の最前列でハルジオンとボリジさんが並んで会話していた。
ずいぶん遠く感じる。
私の隣に座ってくれる人が誰もいないことに、今更ながら気付かされた。
正面にサフルール局長とペリラ統括官も座った。
ふたりは私にお辞儀をしてくれて、私も慌てて腰を浮かせて礼を返した。
審理員席の斜め脇には、昨日までなかった一席が用意されていた。
だけどその席が埋まることなく開始時刻を迎えると、主任審理官が開廷を告げた。
「初めに、審理対象者について提出された検証資料の説明を求めます。資料提出者、瑠璃宮、ユニワ・ナナリエ」
今日もたくさんいる傍聴席の深い青の人々がかすかな吐息で感嘆を表した。
……昨日より空気が嬉しそうな気がする。
扉の向こうからナナリエが足早に入ってきた。ひとつに結んだ髪が尻尾のように流れる。
証言台に立ったナナリエはいつも通り背筋を伸ばして息を吸った。
「本日は審理対象者の身体構造と、対象者用に調整した環かんの機能について説明します。それぞれ専門家からの証言も得ております」
ナナリエが手をかざすと、彼女の四方——審理員席からも申立人席からも傍聴席からも、そして私の席からもよく見える位置に、映像が浮き上がった。
以前見せてもらった私の髪の毛の構造と、その管の中を移動する光の粒の映像だった。
「審理対象者の毛髪内部には、通常の人体には確認されない管状構造があります。こちらが、その内部を移動する光粒です」
そこまで言ったあと、ナナリエは審理員席を見上げた。
「この管状構造と中枢器官との接続については、毛髪神経および脳を専門とする医師による検証を受けています」
「検証者の入廷を許可します。ガーネット宮、医師、マホラ・ヒヤシンス」
淡く輝く金色の髪とともにヒヤシンス様が颯爽と入ってきた。
ナナリエは証言台をヒヤシンス様に譲り、その隣に控えた。
ヒヤシンス様は、以前の健康診断で見せてもらった髪の内部構造を示した。
黒い棘状の突起に触れた光粒が吸収され、中枢器官へ運ばれていること。脳波にも、情報を読み取った際の変化が確認されていること。
つまり——。
「確認されている現象は『消失』ではなく『取り込み』です」
私は映像から直観的に理解することしかできない。
腸の中を進んでいた栄養が、壁の細かい突起に触れるとシュワっと吸収されていく、あの説明動画に似ている。あれもなんでそっちに吸い込まれるのか、私は全然わかってないんだけど。
「この機能が作用する条件についてですが——」
通常の人と同じく、本人に接続しようという意思がなければ発動しないことが説明されると、アメジスト宮のペリラ統括官から質問が入った。
「この機能は、本人の意思とは無関係に作用する可能性はありませんか」
「現時点で確認されている発動条件は、本人が接続を意図することです。無意識状態や通常生活中の発動は確認されていません」
いくつかの質疑応答の末、ヒヤシンス様は証言台を降りてナナリエと交代した。
「次に、対象者専用の環の機能について説明します。こちらはカーネリアン宮のヒナワ・カズラ技師による検証と機能保証を受けています。カズラ師匠が——」
傍聴席が「師匠……!?」とざわついた。
ナナリエは一瞬、「あ」と焦るように口を開け、でも何事もなかったように説明を始めた。
以前、審理の作戦会議で聞いた内容とほぼ同じだった。
私の身体を経由せず、通信はすべて環が代行する。
「ですから、この環を使う限り、同じ現象は起こらないと考えております」
ナナリエが環についての解説を終えると、再びペリラ統括官が手を挙げた。
「主任審理官、質問の許可を願います」
「許可します」
ペリラ統括官は静かに立ち上がってナナリエに礼をした。
「環が身体情報と接続しない構造であることは理解いたしました。しかし、身体情報と接続しないから安全であるというのは、王女殿下自身が立てた仮説ですね?」
傍聴席の青い人たちの息を吐く音がした。何人かはペリラ統括官に厳しい視線を向けていた。王女に意見するからというよりは、うちのエースに文句つける気か?みたいな燃えるような目つきだった。
「はい。身体情報と接続しなければ同じ現象は起こらない、という部分は私の仮説です」
再び青い人たちがどよめく。ナナリエが仮説と認めたことに深い関心を寄せている様子だった。
「ですから、生体機能を人工装置で代替する研究をしているアスナロ博士にも、独立して検証を依頼しました」
「ガーネット宮、トモリ・アスナロからも検証資料が提出されています。対象者の情報受容機能を環が代替する構造について、証言者と同じ結論です」
主任審理官が冷静に補足をすると、ナナリエは再びいくつかの画像を出して解説を続けた。
トモリ・アスナロ……?
初めて聞く名前だ。
一通り説明を終えたナナリエに、主任審理官が静かに口を開いた。
「私からも質問があります。王女殿下は、審理対象者を保護したいという結論を先に持っていたのではありませんか」
ナナリエは真っ直ぐに審理員席を見上げた。
「はい。私は彼女を手放したくありません」
取り繕わない、はっきりとした宣言だった。
「ですから、私一人の判断で安全性を決めてはならないと考えました。身体構造はヒヤシンス医師、環機能はカズラ技師、そして身体機能を環で代替するという私の仮説については、アスナロ博士に独立した検証を求めています」
今までのナナリエなら「正しいものは正しい」で自分の主張を押し通していたのに。
他人にわかる形に整えるところまで、今回は準備してくれたんだ。
「承知しました。機能面についての確認は以上とします」
主任審理官の落ち着いた声が進行の区切りを伝えると、映像が消え、法廷の空気が少しだけ変わった。
ナナリエは証言台を降りるときに、一度だけ私に目配せをした。
表情は固い。だけど私には、その真剣な顔だけで十分だった。
ナナリエの退室を待って、主任審理官が顔を上げた。
「ここからは審理対象者の人格について、周辺人物からの証言を取り上げます」
今度は私の身体ではなく、私自身のことを見られる番らしい。
「証言内容は重複するため、周辺人物からの証言は記録映像を中心に確認します」
映像記録は連続して再生された。
行政支援で関わった人、日常的に仕事をした官吏、列車工場の人々。これまで訪れた場所で出会った人たちの証言が、次々と流れた。
そして、再会を約束した友達、サヤパトリからは——。
「アンリは隠し事のできない人です。系譜管理局での件が問題になる前から、当時の担当職員に自分の機能について話していました。“自分には、情報を吸収する機能がある”と。悪意があれば、自分に不利なこと言わないですよね。だから、私はアンリの人柄を信じています」
ペリラ統括官は難しい顔で手を挙げた。
「審理対象者が真面目で周囲の人にどれだけ愛されているかは理解しました」
う……。そこまで賞賛の言葉を並べられると、かえって自信をなくす。
本当にこれまでの証言に見合う人物だと、胸を張れるかどうか。
「しかし、彼女の素直さは単に、危険性を理解していないだけではありませんか?」
そうか。それは確かに正しい指摘だ。
私はいつも、「なんとかなるだろう」という直観的で曖昧な基準で動いている。
「悪意がないことと、安全であることは別問題です」
この人の考えは一貫している。確実に安全かどうか。
「審理対象者アンリ。何か発言はありますか」
「私からはありません」
その通りだ、と言いたかった。
だけどそれは私の感想で、客観的事実ではない。
だから、黙った。
法廷内が静かになった。
主任審理官はゆっくりと頷く。
「では、現時点で安全性を完全には確定できない対象者を、どのように扱うべきか。本件に関し、神殿の参考意見を求めています。発言者、翡翠宮、大宮司名代、ヒモロギ・エンジュ」
扉が開く前から、そこに大きな流れがあった。
静かに開けられた扉からサラサラとした風が流れてくる。
時間の流れが遅くなり、その時間の中を歩くように足音もなくエンジュが入ってきた。
その二歩後ろを、ロタラが隙のない表情で歩いている。
エンジュが足を止めると、ロタラは当然のようにその足元に控えた。
証言台は審理員席に向けて配置され、エンジュの顔は真っ直ぐ前を向いていた。
だけど何故か、私にも目を向けられている気がした。
正面に座るサフルール局長も、ペリラ統括官も、エンジュから目を離せないみたいだった。
傍聴席は、誰一人身じろぎもせず、静まり返っている。
エンジュは、みんなを見ているんだ。
「神殿からの見解を伝えるよ」
エンジュは静かに息を吸った。
「『黒き髪の少女を、その特異さのみを理由として、人の営みから遠ざけてはならない。他の者と等しく、見て、聞き、触れ、学ぶ機会を与えるべきである』」
翡翠の瞳が、ゆっくりと法廷を見渡した。
「これが神殿の見解だよ」
ひと呼吸置いて、主任審理官が口を開いた。
「神殿は、審理対象者の安全性を保証するものではない、という理解でよろしいですか」
「そうだね。僕たちにもわからないことはあるよ」
「では、なぜ社会の中に置くべきだと?」
エンジュは無言で審理員席に微笑むと、ゆっくりと身体の向きを変えた。
今度は、傍聴席まで含めた法廷全体を見渡す。
「僕たちは今、自然界にある磁場の力を使って、移動したり、言葉を交わしたり、記録を残したりしているよね」
声は静かで、水面に水滴が落ちるみたいだった。
「でも、この技術が確立する前は、その力も正体のわからないものとして恐れられていた」
エンジュは傍聴席の一角のアメジスト色の人たちに目を向けた。
「今ではアメジスト宮が管理して、僕たちの暮らしを支えている力だよ。そして今、アンリによって脅かされるかもしれないと、君たちが守ろうとしているものでもある」
彼らは瞬きするのも忘れているみたいに、エンジュを見つめ、聞いていた。
「だから、忘れちゃいけないと思うんだ」
口調は穏やかなのに、目はひとつも微笑んでいない。
「僕たちが今当たり前に使っているものにも、わからないから怖いって、遠ざけていた時代があったことを」
エンジュが静かに目を伏せる。皆の呼吸が一瞬、緩む。
「もちろん、だからアンリも安全だ、という話じゃないよ」
エンジュは一度も、私を審理対象者と呼ばない。
それが許される立場だからなのか、たとえそうじゃなくても、そう呼ぶのか。
「わからないなら、調べて。怖いなら、備えて。その上で、どう一緒に生きていくのか考えていけたらいいんじゃないかな」
世界を解説しているのか、自分の願い事を口にしているのか。
「わからないというだけで、その人を僕たちの暮らしから遠ざける理由にはならないよ」
ふわふわとした自然現象のように現れたエンジュは、何かを決めるでも、誰かを言い負かすでもなく、ただ自分たちの見解をその場に置いた。
それをどう受け取るのかは、聞いている人たちに委ねるみたいに。
それなのに、さっきまでぐるぐると渦巻いていた空気が、少しだけ方向を持ったみたいに流れ出した。
そのまま誰も口を開かないものだから、エンジュの作った空気だけが法廷に残った。
「神殿からの見解は以上ですね」
それを最初に断ち切ったのは、澱みのない青い目の、シジマ・オタクサ主任審理官だった。
それに続いて、ペリラ統括官が手を挙げた。
「若宮司殿の見解について、発言をよろしいでしょうか」
主任審理官の許可が降りるとペリラ統括官が立ち上がる。
「若宮司殿の見解は理解しました。未知であること自体を、排除の根拠とすべきではないという点にも異論はありません。だからこそ、我々はその力を無条件には利用していません。長い検証の末に、接続規格を定め、管理機構を置き、事故が起きた際の対応まで制度化しています」
紫の目には戸惑いが一切ない。とても真っ直ぐだ。
エンジュがどんなに偉い相手だったとしても、この人は自分の意見を引っ込めたりしないんだろうな、と思った。
エンジュはペリラ統括官に向かって穏やかに頷いた。
その背中からは、反論する気配は全く感じられなかった。
「審理対象者についても同じです。未知だから排除すべきだと申し上げているのではありません。未知である以上、社会の中に置くのであれば、誰が、どこまで責任を負うのかを先に定めるべきだと申し上げています」
「そうだね。とても大切な問いだ」
エンジュの声はやっぱり穏やかだった。
そこで再び、主任審理官が場を整えるように告げた。
「では、具体的な監督体制について確認します」
主任審理官の両隣に座る審理員が、手元の資料を読み上げた。
「審理対象者の生活上の所属は、引き続き琥珀宮とする」
「対象者専用の環を常用し、重要記録への直接接続を禁止する」
「定期的な身体検査および機能検証を受ける」
「王都外へ移動する場合は、司法が認定した引受人の監督下に置く」
主任審理官は一度頷き、真っ直ぐ傍聴席を見た。
「琥珀宮として、以上の条件下で審理対象者を受け入れる意思に変更はありませんか」
名指しされたわけでもないのに、ハルジオンが立ち上がる。
「琥珀宮は、ここまでに示された検証結果を前提として、審理対象者を引き続き受け入れる意思があります。必要な制限と観察にも応じます。最終的な処遇は、司法の判断に委ねます」
流れるように答えると、自分の役割を終えたように静かに着席した。
それを見届けて、主任審理官が再び口を開く。
「引受人候補として、珊瑚宮より、イサリダ・ソラリスが申請されています」
誰からも異論は出ず、法廷の空気は少し緩んだ。
「以上を暫定的な監督条件として整理します。午後の審理では、これらを踏まえて最終的な処遇について検討します」
午前の審理はそこで終了した。
朝から空いていた一席は、最後まで埋まらなかった。
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