第13話 まだ意味を知らない——審理一日目・夕刻
法廷の扉を出た。
廊下でハルジオンの姿を探し、人混みの中を歩いていると、肩に軽い衝撃があった。
「あ、ごめん」
低くなる前の、少年の声だった。
「父さん、待って」
少年は、そのまま駆け出した。
——傍聴席に子どもがいたんだ。
なんとなく気になって振り返った。
柔らかそうな灰色の——いや、灰色がかった薄紫色の髪の後ろ姿が見えた。
その先に、見覚えのある紫色の髪の男性が立っていた。
先ほど法廷で私の危険性を主張していたライラ・ペリラ統括官だ。
彼は仕事の場とは打って変わって、顔を綻ばせて息子を待ち受けていた。
ぶつかったとき、肩と肩の高さは同じだった。
たぶんあの子は、ヨルカと同じくらいの歳だ。
あの子には笑顔で迎えてくれる父親がいるんだ。
ヨルカは私じゃない。
それでも、ヨルカにはあんなふうに迎えてくれる人がいたのだろうか、と考えてしまった。
「どうした」
ふいに背後から声がかかった。
ハルジオンだった。
「いえ。殿下を探していました」
「ここは人が多い。ひとまず出よう」
日没に近く、外気温はかなり下がっていた。
乾燥した街に直線的な高層ビルが立ち並んでいる。
以前、ナナリエは瑠璃宮を「非常に機能的な高層ビル群」だと言っていた。隣のサファイア宮も、それに近いのかもしれない。昼間はビルの窓に青空が映って街全体が青く見えるほどだ。
威厳ある白亜の王都や、蜂蜜色の石造りの可愛らしい建物が並ぶ琥珀宮、カラフルなモザイクタイルの珊瑚宮、森林と建物が溶け合う翡翠宮。みんなそれぞれ違った顔をしている。
「訓練の成果が出たようだな」
「あんな感じで良かったんでしょうか」
「今日の答弁は事実のみを答えることができていた。しかし、明日は君の中身を問われる。正直な姿を見せるべきだ。ただ、曖昧なところを推測で補う必要はない」
「はい……」
明日の方が難しそう。
私は歩きながら足元を見た。
私の影は、ふたつの太陽に照らされて、ふたつに伸びている。
その影を見つめたまま、私は口を開いた。
「ヨルカにはどうして記録を吸収する力があるんでしょうか」
この身体を通して何度も感じた。
ヨルカがこの力を恐れている感覚を。
ヨルカは「消す」ことをすごく恐れていた。
ナナリエは「消えてない」と明確に示した。
『消えるものなんてない。形を変えるか、どこか別の場所へ行くだけ』と。
それでも、どうしてこの力があるのかは、まだ誰にもわかっていない。
「……もしこんな力がなければ、ヨルカはもっと自由に暮らせたのかもしれません」
ハルジオンは足を止めた。
「用途が見えないことと、存在意義がないことは別だ。だが——」
私も立ち止まって、ハルジオンの顔を見上げた。
友達の顔でも、保護者の顔でもなくて、信念を持つ一人の人間の顔だった。
「社会の状況が変われば、必要とされる人間も変わる。未来の全てを知らない我々が今は不要だと決めつけるべきではない」
その言葉は私への問いを超えて、今回の審理そのものに対して言っているみたいだった。
だからハルジオンはこの審理を——国全体でヨルカについて考える機会を作ったんだろうか。
身体の奥が、またひとつ温かくなった。
ナナリエの言葉がヨルカを絶望から救い、ハルジオンの言葉がその隣に、小さな希望を置いていく。
「行こうか。サファイア宮には学生時代に長く滞在していた。少しは詳しい」
いつもの友達みたいな、少し偉そうな上司みたいな顔に戻って、ハルジオンは口角を上げた。
ボリジさんは今夜は実家に帰ると言い、私はハルジオンの案内で公務用の宿舎に泊まることになっている。
……晩御飯はふたりで食べるのか?会話、続くだろうか。
「学生時代っていうのは十五歳から十九歳の間ですか?」
ガラス張りの高層建築の街並みを歩きながら話題を振った。
一階部分は歩行者が行き交う回廊になっていて、日差しを避ける深い庇が連なっている。
店先では乾燥させた香草や果実が吊るされ、風が吹くたびに涼しげな香りが流れてきた。
行き交う人々はきちんとした服装で、何かを確認するように互いの環をかざし合ったり、行き先を指し示して短く言葉を交わしたりすると、また足早に歩き出していく。
「そうだ。法務を学んだのは十七歳の一年間だが」
「そのときにボリジさんと知り合ったんですね。それ以外の年は?」
「一通り。工業も農業も医療も十二の宮を全て回ったが、専門は経済と立法だ」
「全て回った……」
初めてボリジさんに会った時に、彼が言っていた愚痴を思い出した。
『この人なんて五年間で八回も所属変更してるんですよ!畜産に看護に国衛……国を一周する気ですかね!?』
後々それが、ソラリスのことを言っていたことを知ることになった。
「もしかして王様になるのに、全部の宮を回らなきゃいけないんですか?」
「慣例的にな」
ハルジオンは少し考えてから、言葉を続けた。
「……ソラリスも十五歳から各地を回ってたみたいだな。自発的にそうしたのか、誰かに指示されたのかはわからないが」
ソラリスを見つけて、ハルジオンは王位継承権を返上した。
私には突然の決断に見えたけど、きっとそこまでに考えたことはたくさんあるんだろう。
私には、わからない。
「君には」
話題を切り替えるかのように、ハルジオンの声がわずかに明るくなった。
「待っている男がいると言っていたな」
突然なに!?冗談!?
以前ソラリスが、みんなの前で雑に言い当てたやつだ。
困惑して固まっていると、ハルジオンがそのまま続けた。
「君にも背景があることを、そのときから考えるようになった」
からかうために話題にしたわけじゃないのかもしれない。
「……待っているかは分かりません。一年くらい会わないときも何度もあったし」
お互い仕事で国内外の移動が多くて、会えない時間も長かった。
「でも、一度だけ迎えに来てくれたことがあるんです」
「迎え?」
「海の向こうの遠い国で迷子になっちゃったときに」
海の向こうを一人で旅している途中に、盗難に遭った。
身につけていた携帯電話とパスポートだけが無事で、震える手で彼に電話した。
電話に出た彼は、呆れた声で「大使館の番号、登録しといたでしょ」と言った。
声を聞いたら泣き出してしまって、しばらく自分が何を伝えていたのか思い出せない。
だけど電話越しの指示はやたら具体的で、気づけば私は宿に戻って座っていた。
「呆れていたのに、その日のうちに迎えに来てくれたんです」
私は南米にいた。ちょうど彼も学会で北米に滞在していた。
「初動が早いな」
「……そのあとも、私は懲りずに何度も一人旅に出掛けて。でも一度も引き止められたことはありません」
一度も「危ないからやめろ」と言われたことはない。
信じてくれていたのか。それとも、好きにすればいいと思われていただけなのか。
今でもわからない。
「だから、彼が本当に待っているのかはわかりません。私が、そこへ帰ろうといつも思っているだけです」
反対されたら多分私はムキになる。
だけど、何も心配されていないのかもと、不安にもなる。
本当に私は我儘だ。
街並みが夕暮れに染まっていく。
この星の夕焼けは茜色と、最後に沈む太陽の周りだけ、空が緑色になる。
「だったら、ここへも迎えに来るかもしれないな」
茜色の光の中で、ハルジオンが足を止めた。
「もし来なかったら」
少し意地悪そうに目を細める。
「琥珀宮で博物館の仕事を紹介しよう」
「博物館、ぜひ行きたいです。でも——」
乾いた風が、炭火で焼いた肉と香辛料の匂いを運んできた。
「私は必ず帰ります」
その約束を確かめるように、ハルジオンは真っ直ぐ私を見て深く頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
私たちは夕暮れの街を並んで歩いた。
ガラス張りの表通りから少し裏に入ると、規則正しい街並みが少し崩れた。
「着いたぞ」
ハルジオンの視線が横を向いた。
オープンテラスの賑やかな路面店だった。
香辛料のいい香りがする。
そのとき背後から、よく知っている呑気な声が聞こえた。
「ほら、こっちだって言ったでしょ」
「ハルジオンなら高層階の気取ったレストランだと思ったのだが」
もう一人も、聞き覚えがある声だけど、すぐに誰かはわからなかった。
「それはナナリエを連れてくとこだよ。普段はこっち」
振り返ると、この星の夕暮れのようなふたりが立っていた。
「やあ、アンリ。今日はがんばったね」
翡翠色の穏やかな瞳を細めて、エンジュが微笑んでいた。
「エンジュ、君は本当にハルジオンに詳しいな」
呆れたように笑っているのに、腹の底から響くような朗らかな声だった。
オレンジ色のウェーブヘアを無造作にかき上げ、銀の胸当てに外套を羽織った長身の女性が立っていた。
「ロタラ様?」
「覚えていてくれて嬉しいよ。可愛らしいお嬢さん」
整然とした街並みに似合わず、その手には槍とも刺股ともつかない長柄の武器が握られていた。
物騒だな……。
いやいや!それはさておき、今回の審理に協力してくれたお礼を伝えなくては!
「もちろんです!ロタラ様。証言にご協力いただき、ありがとうございます」
私が頭を下げると、ロタラは軽く片手を上げた。
「礼には及ばないよ」
太めの眉毛がきゅっと寄って真剣な顔になる。
「君が、慣れない訓練にも直向きに挑んでいたからさ。見たことを、そのまま話しただけだ」
……あんな醜態を晒した私を、こんなふうに前向きに捉えてくれるなんて。
ハルジオンもソラリスも呆れ、ナナリエとエンジュにいたっては“お間抜け映像百連発”を見るかのように鑑賞していたのに……。
……。
この人は、この星で出会った中で一番の人格者かもしれない。
第一守衛団の訓練生にも慕われていたし。
……そうだ。この人に、着いていこう。
「それに、ナナリエに頼まれたら断れないからね」
ロタラはそう続けると、私の顔を覗き込むように身を屈めた。
オレンジ色の瞳の中で炎が揺らめいているようだ。
「それにしても、ナナリエはどうして君にそんなに夢中なんだろうね」
興味深そうに顔を近づけてくる。というか、近い。
「ソラリスという男も、君のためにイサリダ家に戻ってきたそうじゃないか」
「えっ。私のため?」
「ロタラ」
ハルジオンが低い声で遮った。
「君にはあらかじめ伝えておくが、彼女はこの身体の本来の持ち主とは別人だ。少なくとも我々はそう考えている」
ロタラは驚くでもなく、私を見たまま頷いた。
「ああ。ヒヤシンスから珊瑚宮にも報告が入っていたよ。この星の者ではない、と」
……医療のガーネット宮は珊瑚宮の傘下だから当然のように報告が入るんだな。
「不思議だね。外見は普通の少女にしか見えない」
ロタラの目が、改めて私の頭から足元までを眺める。
「アンリは二十七歳なんだってー」
エンジュが悪びれもなく横から補足した。
「なんと!」
ロタラが初めてはっきり目を見開いた。
そして私とエンジュを交互に見て、何かに気づいたように手を打つ。
「あ、待ってくれ。その……何か、そういう言葉があっただろう?」
「何の話かな?」
エンジュが首を傾げる。
「星によって年の数え方が違うという……ナナリエが天体の話をするときに以前言っていた」
「ああ、公転周期のこと?」
「それだ!」
ロタラは得意げに私を見た。
「公転周期が違うのだろう?」
「……た、たぶんそうです」
「あはは。ロタラは覚えた言葉を使いたかがるからねえ」
エンジュがからかうように笑った。
「ああ。よく気づいたな」
ロタラは感心したように頷いた。
「覚えた言葉は、使わなければ身につかないからね」
「うん。そういうところだよ」
「?」
ロタラは爽やかに首を傾げた。
エンジュの皮肉は、きれいに素通りしたらしい。
ロタラは長い槍を肩に担ぎ、白い歯を見せて笑った。
……人格者なのは間違いない。
でも、この人に着いていくのは、少し考え直そうかな。
お店の中からは炭焼きのいい匂いがして、私のお腹が食事の時間を告げていた。




