良い友人 アンドラーシ
珍しく盛装した友人の姿を見て、アンドラーシはしみじみと呟いた。
「お前、本当に王子だったんだな」
日ごろ遊んだり鍛錬したりする時は共に泥や埃や傷に塗れている癖に、今日に限ってファルカスは身体にぴったりと合う、仕立ての良い服を纏っていた。上衣の素材は絹、さらにそこに精緻な刺繍が施されている。腰に佩いた剣の細工も──アンドラーシには無意味な気もするが──見事なものだ。肩が凝りそうだな、としか思えない衣装をさらりと着こなす友人は、そういえば王の子とかいう大層なご身分だった。だから初対面の時に殴り掛かったら面倒なことになったのだが、付き合ううちにそんなことはアンドラーシの頭から抜け落ちていたらしい。
「何だと思っていたんだ?」
不敬を咎めるでもなくあっさりと笑う、友人のこういう態度もきっと身分を忘れさせる理由だろう。アンドラーシにとって、ファルカスはあくまで遊び仲間のひとりでしかなかった。
「何っていうか……」
いや、ただの遊び仲間ではないだろうが。同じ年頃の友人たちの中でも、ファルカスは明らかに優れている。馬術も武術も、さらには正気を疑うことに勉学でさえも、仲間うちでファルカスに並ぶ者はいない。長身や体格にも羨ましいほど恵まれているとはいえ、こいつに適わない悔しさを抱えているのはアンドラーシだけではないはずだ。
とはいえそんなことを口に出すのはそれこそ悔しすぎるから、アンドラーシは友人の問いに答えないまま話題を変えた。
「俺で良かったのか? 俺は礼儀を知らないぞ」
実のところ、慣れない衣装を着せられているのはアンドラーシも同じだった。ファルカスはこの度異母兄である第一王子の狩猟の席に招かれている。王子ともなると単身で行く訳にもいかないらしく、数合わせで彼に声が掛かったという訳だった。大貴族の所領で、大物を狙った大規模な狩りを見物できるのは確かに心躍ることではあったが、何しろ彼は堅苦しい場が嫌いである。第三王子と揉めただけでこっぴどく殴られたのだから、今回のような席で騒動を起こしたら父に殺されるのではないだろうか。まあ、父に叱られるだけならいつものことだが──
「構わない。卑賎の身にはまともな従者もいないと思われた方が都合が良い」
「ふん……?」
さらりと答えたファルカスの目は醒めていて、彼を揶揄っているのでもないようだった。何か含みがありそうな物言いは気になるが、友人や、その祖父君に恥をかかせるのはさすがに憚られる。だからアンドラーシは、今回ばかりは大人しくしていようと決めてやった。
結果として、数日に渡る狩りの間、アンドラーシはつつがなく従者の役を務めることができた。彼の細い手足や母親似の──大変不本意なことに! ──整った顔を揶揄する無礼者は後を絶たなかったけれど、だからこそいちいち殴り返すのも身が持たないと途中で諦めた。何より、ファルカスは彼が見たことがないほど周囲に慇懃に接していた。アンドラーシは密かに友人の気が触れたのを疑ったけれど、時折漏れ聞こえる歯軋りや、並んで跪いたからこそ見える強張った口元に、ファルカスが相当の我慢をしていることが見て取れた。
──こいつに耐えられるなら、俺だって。
そんな意地を張ったのは正しいかどうか分からなかったが──とにかく、アンドラーシは友人の所作をなぞることで、どうにか慣れない場を乗り切ったのだ。
狩猟が終わると、大貴族の面々は従者を引き連れて所領へと帰っていった。より低い身分の参加者も、より少ない一行で同様に。方角が同じ者同士は途中まで同じ道を辿ることもあるが、それも次第に人数が分かれていき、やがてアンドラーシが馬を並べるのはファルカスの祖父君が率いる一団だけになっていた。
休息をとる際に大人たちの目が離れた隙を見て、アンドラーシは友人に話しかけた。
「あいつら、なんであんなに偉そうだったんだ?」
「第一王子は側妃腹とはいえ母君の実家の権勢は強い。最も年長だから王位にも近いし、まあ実際偉いだろう」
ファルカスの青灰の目は、出発前に卑賎の身などと言った時と同じく醒めていた。答える声も淡々として、けれどその内容はアンドラーシを納得させるには到底足りない。
「お前の方ができるだろうに、どう見ても」
「名門で優れた教師をつけられている方には及ぶまい。年の違いもあるし」
「だから、もう何年かしたら! 周りの連中も大したことなかっただろ」
アンドラーシには、ザルカン王子とかいうのはふんぞり返っているだけにしか見えなかった。若輩ゆえに大物を任されないのは彼らも同様だったが、雉だの兎だのを仕留めた弓矢の腕だけで測っても、第一王子の側近でさえファルカスに適う者はいなかった。
食い下がるアンドラーシに、ファルカスは面倒そうに眉を上げた。
「ならばお前が仕えれば簡単に栄達できるだろうな」
「何……?」
「父君も、上の王子に仕える伝手を俺に期待なさっているのではないのか? それに、見た目の良い従者は歓迎されるだろう」
アンドラーシには、ファルカスの言葉の意味の全ては分からなかった。唯一分かったのは、こいつは彼の女顔をあて擦ったということだけ。初対面の時にも同じことをして、派手な喧嘩になった後は触れないだけの礼儀を弁えていたはずだったのに。
裏切られた、と思った。一瞬にして湧いた怒りが、アンドラーシの四肢を動かす。地面を蹴って拳を握り、友人の澄ました顔を狙う。
「お前、またっ! そんなことを──っ!?」
だが、彼の拳は届かなかった。彼の動きなど予測していたかのように、ファルカスは滑らかにアンドラーシの一撃を避け、体勢が崩れたところで足を払う。次の瞬間、無様に地に伏していたのはアンドラーシの方だった。
「どうしたのだ」
「何も。アンドラーシがいきなり襲ってきました」
彼が倒れた音はさすがに聞き咎められたらしく、ファルカスは祖父君に質されていた。憎たらしくも平然と答える声を聞いて、アンドラーシは憤然としながら立ち上がる。
「お前が先に──」
だが、彼が言い切るよりも先に、乾いた音が響く。祖父君が、孫の頬を打ったのだ。
「儘ならぬことの鬱憤を他人にぶつけるのは見苦しいぞ、ファルカス」
アンドラーシは信じられない思いで眼前の光景を見た。息をするように父が息子を殴る彼の家と違って、ファルカスが手を上げられるほど祖父君の手を焼かせたことはないはずだ。それは、容姿に触れられることはアンドラーシがもっとも嫌うことではあるが、祖父君はそこまで孫の遊び相手のことを知っていただろうか。むっつりと口を結んで何も反駁しないファルカスは、非を認めたということなのだろうか。
「此度の席は、意に添わぬ者に跪く練習をさせるつもりだった。よくやったかと思っていたが──」
アンドラーシが首を傾げるうちに、祖父君は彼の方に目を向けてきた。厳しい方なのを知っているだけに、自然、背筋が伸びる。悪いのはファルカスだという確信はあるが、いきなり殴り掛かるのが褒められた真似ではないのも一応分かってはいるのだ。
「八つ当たりをするとは不出来にもほどがある。どうせこの者が挑発したのだろうが……すまなかった。孫の非礼は私からも詫びよう」
「……いいえ」
父親よりも年配の相手に頭を下げられる居心地悪さに身動ぎしてから、アンドラーシは今こそ先ほどの疑問への答えをもらう好機ではないか、と気が付いた。
「なぜファルカスがあんな奴らに跪かねばならないのですか」
ファルカスと違って、祖父君は彼の問いにはぐらかすことなく答えてくれた。
「この者にも王になる資格があり、なまじ才覚の片鱗を見せているがゆえに。常に野心がないことを示さなければ、命も危うい」
「だから俺といても得はないぞ。賢い道を教えてやったというのに」
とはいえ教えられたことは依然としてよく分からず、かつファルカスがそっぽを向いたまま呟いたのはさらに訳が分からなかった。勉強はできるはずなのに、珍しくバカげたことを言うものだと思う。
「賢い訳ないだろ。お前が嫌なことは俺も嫌だぞ?」
「そうではなく──」
祖父君の前でのこと、バカだな、とはっきりは言わなかったが想いは伝わったのだろう。ファルカスは嫌そうに眉を顰め──けれど一方で、祖父君はなぜか愉快そうだった。
「まあ、そなたも孫も、いずれ跪く相手を決めなければならないのだろうが。今しばらくは子供気分でも良いのかもしれないな。良い友人であってくれれば、良い……」
子供ではない、と。同じことをほぼ同時に考えたのがファルカスの目つきから伝わって来た。とはいえ、この気まずい一幕の後で、祖父君に口答えする勇気は双方持たなかったので、彼らは促されるままぼそぼそと謝罪を述べて、再び帰途に就いた。
自身の屋敷に着くなり、アンドラーシは父に尋ねた。
「父上! 俺をファルカスに会わせたのは他の王子に仕える糸口のためですか?」
「そんなはずはなかろう。ただでさえ何をしでかすか分からないのに……そのようなことになっては心臓が幾つあっても足りぬ」
「ふうん、やっぱり……!」
父が吐き捨てたのを聞いて、笑みが浮かぶ。ファルカスに次に会ったら、思い違いを正してやらなくては。彼の父は、息子の友人を踏み台にするような人ではないのだ。
息子の笑みを、父はなぜか不吉なものを見る目で睨んだ。
「……さすがに今回は、何ごともなかったのだろうな……?」
「はい。勉強になりました。いきなり人に殴り掛かるのは良くないのですね」
「それを今学んだのか……」
「はい。ファルカスのお陰です」
ファルカスは彼をわざと怒らせたのだと、アンドラーシは後になって気付いたのだ。なぜだか分からないが、仲違いさせて他の王子に跪かせるために。祖父君にさらりと言いつけたのも、ああなることを予想していたからに違いない。だから多分、あれは本心ではなく作戦のうち、ということだ。
思えば狩りの場でも気に入らない奴を全員殴る訳にはいかなかったし。だから、次からは彼が挑発すれば良いのだろう。そして相手が先に手を出したのだ、ということにすれば良い。大体、いくらファルカスが相手でもあっさりと転がされてしまったのは彼が逆上させられたからだった。冷静に構えた相手よりも、怒って突っかかってくる相手の方が楽にあしらえるのも道理。ファルカスはまったく良い手を見せてくれたと思う。だから──
「あいつは良い奴ですね」
それに免じて、今回の暴言は許してやる。引き続き友人ということにしてやろう。アンドラーシはそう決めたのだった。




