第四章 8 『小さな火の戦い方』
巨大地底森林の上空から押し寄せてきた羽音は、数秒のうちに森全体を包み込むほど大きくなった。
発光樹の枝葉が震え、青白い光が細かく揺れる。遥か上の暗闇から、黒い影が一つ、二つと降りてきたかと思えば、その後ろには数え切れないほどの同じ影が続いていた。
「——多い!」
フィナが見上げた先で、巨大な昆虫型魔物の群れが樹冠を突き抜けてくる。
一体ごとの大きさは人間の胴ほど。硬そうな黒緑色の外殻に四枚の翅を持ち、細長い口器の先には青白い液体が光っていた。
最初の十体ほどが旋回し、その後ろからさらに群れが広がる。
「五十……いや、もっといる!」
片耳の音響魔導具を押さえたミアは、目で追うのを諦めるように顔をしかめた。
「上にまだいる! 百近いかも!」
「開けた場所から離れるぞ!」
ガレスの低い声が飛ぶ。
探索隊はすぐに、さきほど確認した水源付近から巨大樹の根が重なる場所へ移動した。背後と左側を太い根に預ければ、飛行魔物が一度に入り込める方向を絞れる。
ガレスは正面。カイルとエルナが左右。セリアはネムとミアの少し後ろへ入り、負傷者が出た場合にすぐ下げられる空間を確保する。
レオンは樹根の間へ片手を向けた。
「——単環障壁〈ムロ・セリア〉」
薄い結界を広げ、上から直接突っ込まれないよう角度を調整していた。
「フィナ、大きいのは禁止だ!」
結界の高さを調整しながら、レオンがすぐ横のフィナへ声を飛ばす。
「木ごと燃やす!」
「分かってる!」
フィナは両手を胸元へ引き、大きな火を出しかけた意識を止めた。
周囲には発光樹だけでなく、胞子を飛ばす菌類や巨大花もある。強い風でまとめて吹き飛ばせば、魔物だけでなく胞子まで森全体へ撒き散らしかねない。
数の多さより、環境の方が厄介だった。
「来る!」
ミアの警告と同時に、先頭の数体が急降下した。
カイルは右側から入った一体の進路へ槍を差し込み、翅の付け根を正確に貫く。
左ではエルナが右手を向けた。
「——雷針〈アグハ・ヴォルティア〉!」
針のように細く絞られた雷撃が一体だけを撃ち抜き、周囲の枝へ電流が逃げないよう威力を抑えていた。
「全然減らないわね!」
エルナが次の標的へ視線を移した時、さらに十数体が樹冠の間から降下してくる。
フィナも小さな火を一つ作ろうとした。
その前に、後方からリリカの声が響く。
「私がやります!」
フィナは思わず振り返った。
リリカは前へ飛び出していない。ガレスが決めた中央後方の位置を守ったまま、杖を正面へ構えている。
「——心火一灯〈カンデリア〉!」
その周囲に、小さな赤い火が一つ浮かんだ。
続いて二つ目。三つ目。さらに四つ、五つと増えていく。
「リリカ?」
フィナが目を丸くする間にも、小さな火は増え続けた。
一つ一つは拳よりも小さい。フィナが普段使うような、見ただけで周囲を圧倒する火ではない。
けれど二十を超えた《心火一灯》は、リリカの周囲へ適当に並んでいるわけではなかった。
右上。左前。樹根の切れ目。ガレスの頭上より少し高い位置。
カイルとエルナが動く範囲を避けながら、飛行魔物の侵入経路へ沿うように配置されていく。
「全部、別々に置いてる……」
フィナの呟きに、レオンも一瞬だけリリカへ目を向けた。
「配置だけじゃない。発動後の経路も分けてる」
最初の一体が右上から突っ込んでくる。
リリカは杖を動かさなかった。
「一番、右!」
待機していた《心火一灯》の一つだけが飛ぶ。
一直線ではない。巨大樹の枝を避けるように右へ曲がり、そのまま魔物の正面へ回り込んだ。
炎を嫌った昆虫型魔物が反射的に左へ逸れる。そこには二つ目の火が待っていた。
爆発は小さい。けれど翅の片側だけを焼かれた魔物は姿勢を崩し、地面へ落ちる。
「三番、遅らせます!」
リリカの視線が左上へ移る。
二体が同時に降下してきた。すぐには撃たない。一つ目の火だけを先へ飛ばし、二体の間を横切らせる。
魔物は火を避け、左右へ分かれた。
右へ逃げた個体はカイルの正面。左へ逃げた個体はエルナの射線。
「右、もらう!」
カイルが根を蹴り、槍で一体を貫く。
「こっちは私!」
エルナが右手を振る。
「——雷針〈アグハ・ヴォルティア〉!」
細い雷が、もう一体の翅を正確に撃ち抜いた。
フィナはそこで気づいた。
リリカは全部を倒そうとしていない。群れそのものを焼くのでもない。
小さな火を壁のように置き、魔物が飛べる場所を狭めている。
「飛ぶ道を決めてるんだ……」
フィナが声を上げると、リリカは前方から目を離さないまま返した。
「全部追いかけたら間に合いません! だから、来てほしくない場所だけ塞ぎます!」
その言葉に迷いはなかった。
次の群れが降りてくる。
今度は二十体近い。さすがに一斉に倒すには数が多い。
リリカは小さく息を吸い、杖を少しだけ下げた。
「前の八個はそのまま。左の五個を高く。右の三個は遅らせる」
誰かへ説明しているわけではない。自分の中で組み上げた順番を確認している。
《心火一灯》が一斉に動いた。
五つが高い位置へ上昇し、魔物の群れを下へ押し込む。その下では八つの火が左右へ分かれ、中央だけを空ける。
群れは炎を避けるため、自然に中央へ集まった。
「ガレスさんの正面へ来ます!」
「分かった!」
ガレスは巨大剣を横へ構える。
まとめられた数体が一直線に迫ったところへ、幅の広い剣身が一気に薙ぎ払われた。
硬い外殻が砕け、三体がまとめて横へ吹き飛ぶ。
「後ろ、二体抜けた!」
ミアが地図を畳んで短剣へ手を伸ばす。
だがリリカの視線はすでにそこへ向いていた。
「右後ろ、二つ!」
待機させていた《心火一灯》が時間差で動く。
一つ目は手前の魔物の翅へ当たり、二つ目は奥の個体の進行方向へ先回りした。
仲間へ届く前に、一体は墜落し、もう一体は進路を変えて外側へ逃げる。
「後ろ、通しません!」
リリカの声に、セリアが少しだけ表情を緩めた。
「助かる。その位置なら治療側まで来ない」
ネムは枕型魔導具を抱えたまま、上空を見ていた。
「……リリカの火、小さい」
「はい!」
「……いっぱいある」
「はい!」
「……便利」
短い評価に、リリカの口元が一瞬だけ緩んだ。
「ありがとうございます!」
「今は前見ろ!」
レオンの鋭い声で、リリカはすぐに視線を戻した。
「はい!」
フィナは思わず笑いそうになったが、自分の正面へ迫った一体へ意識を戻す。
「小さい火!」
掌の先に小さな炎を作り、真正面から飛び込んできた魔物だけを撃ち落とす。
大きくする必要はなかった。今はリリカが群れを分け、ガレスたちが狭められた経路を処理している。
フィナまで広範囲へ手を出せば、せっかく作った流れを崩してしまう。
「フィナ師匠、左上!」
リリカの声が飛ぶ。
「うん!」
フィナは迷わずそちらへ小さな火を飛ばした。
今までなら、リリカの方がフィナの動きを見ていた。けれど今は逆だった。
リリカが自分で状況を読み、必要な場所を決め、仲間へ指示まで出している。その事実が、フィナには妙に嬉しかった。
「リリカ、すごい!」
「えっ?」
「今の火、すっごく使いやすい!」
フィナの声に、リリカは一瞬だけ目を大きくした。
以前なら、そのまま「師匠のおかげです」と返していたかもしれない。けれど今のリリカは、上空へ残る群れを見ながら、杖を握り直した。
「まだ右側が多いです! 次はそこを減らします!」
返ってきたのは、自分の判断だった。
リリカは新たな《心火一灯》を十数個展開し、今度は右側へ広く散らす。
高い位置から降りる個体には早めに火を見せ、中央へ寄った個体は遅れて起動する火でさらに分断する。
飛行経路が細くなったところを、カイルとエルナが左右から確実に落としていく。
「こっち三体!」
根の上を走るカイルが、右側の空間を指す。
「二体はそっち! 一体だけ中央に流します!」
リリカが《心火一灯》の位置をずらす。
「なら中央は私!」
エルナが標的へ右手を向けた。
「——雷針〈アグハ・ヴォルティア〉!」
雷が一体を撃ち落とし、そのまま次へ移る。
ガレスは正面へ集中しながらも、時折後方へ視線を送り、隊列が崩れていないことを確かめていた。
十分ほど続いた攻防の末、羽音は少しずつ減っていった。
最後まで残っていた数体も、リリカの《心火一灯》に進路を制限され、森の奥へ逃げていく。
静けさが戻ると、発光樹の葉がゆっくり元の位置へ戻った。
「周囲、確認する!」
ミアがすぐに音を飛ばす。
数秒後、肩から力を抜いた。
「近くにまとまった群れなし。戻ってくる感じもないよ」
ガレスは剣を下ろし、全員の位置を見回した。
「負傷は?」
「なし。軽い擦り傷も見当たらない」
後方を確認したセリアが、ネムとリリカの顔色まで順番に見ていく。
「リリカ、魔力は?」
「少し減りました。でも、まだ大丈夫です」
答えたリリカは、そこでようやく杖を下ろした。
周囲には、使い切らずに残した《心火一灯》の小さな火がいくつか浮いている。
リリカはそれらを一つずつ消し、自分の掌を見た。
指先が少し震えている。
怖さがなかったわけではない。深層の魔物相手に、自分の火が通じなかったらどうしようという不安も、戦いが始まる前には確かにあった。
それでも今、地面には自分が撃ち落とした魔物がいて、仲間は誰も怪我をしていない。
「……使えた」
小さく漏れた声に、フィナがすぐ隣へ寄った。
「うん。すごかったよ」
リリカはフィナの顔を見たあと、もう一度自分の杖へ目を落とした。
誰かの火を真似したわけではない。自分で作り、自分で選び、自分で動かした小さな火だった。
深層の暗い森の中で、その実感は消え残る熱のように、リリカの胸へはっきりと残っていた。




