第四章 6 『生きて帰るための戦い』
既知の安全区域を抜けてから、探索隊の歩調は目に見えて変わっていた。
先頭を進むカイルは足音をほとんど立てず、十数歩先の岩陰や天井まで視線を走らせている。その少し後ろではミアが片耳の音響魔導具へ指を添え、壁や床へ返ってくる微かな響きを拾い続けていた。
フィナたち五人は中央を保ち、その前方にガレス、最後尾寄りにセリアがいる。さっきまで点々と残っていた冒険者用の標識も消え、携帯灯が照らすのは自然の岩肌ばかりだった。
「右側、広くなってる」
ミアが足を止めずに声を抑える。
「奥行き二十くらい。左は壁。前はもう少し続いて、その先でまた広がる」
「退くなら右だな」
ガレスは前方から視線を外さず、右手側の空間を一度確認した。
「セリア、何かあったらあそこへ下げろ。フィナたちは中央から出るな」
「分かった」
後方のセリアは、全員の位置を見渡せるよう少しだけ右へ寄る。治療道具へすぐ手が届く位置を保ちながら、退避先までの足場に大きな段差がないことも確かめていた。
フィナはその動きを見ながら、前方へ意識を戻した。
「まだ何もいないよね?」
「……いる」
ネムは枕型魔導具を抱えたまま、半分閉じた目を前へ向けている。
「……大きい。止まってる」
その言葉とほぼ同時に、カイルが片手を上げた。
探索隊全体が止まる。
前方の暗闇から、硬いものを岩へ擦りつける音が響いた。次いで、重い足音。一歩ごとに床の小石が跳ね、洞窟の奥で何かが身体を起こす気配が広がっていく。
「来るよ」
ミアが音響魔導具を押さえたまま、前方の壁際へ身体を寄せた。
「四足。かなり大きい。正面の通路幅ぎりぎり」
携帯灯の光が届く距離まで、それはゆっくり姿を現した。
全身を黒褐色の硬い皮膚で覆った大型魔物だった。頭部は低く、額から前方へ太い角が一本伸びている。肩までの高さだけでもガレスを超え、四本の脚は岩柱のように太い。
「大きい……」
リリカが記録冊子へ伸ばしかけた手を止め、代わりに杖を握り直した。
エルナも身体を低くし、右手へ薄く雷を集める。
「正面から来るなら、止める?」
「待て」
ガレスの低い声が、エルナの動きを止めた。
大型魔物はまだ突進していない。前脚で床を掻き、頭を左右へ振っている。
ガレスはその動きを数秒見たあと、左側の岩壁と右側の退避空間へ視線を走らせた。
「突っ込む前に三回床を掻く。今二回目だ」
「分かるの?」
フィナが驚いてガレスを見ると、彼は巨大剣の柄へ手を掛けた。
「同じ系統を見たことがある。真正面しか見なくなる癖も同じなら、止めた後は横が空く」
三度目。
大型魔物の前脚が岩床を深く削った。
「カイル、右側へ回れ。早く入りすぎるな。俺が止めてからだ」
「了解、隊長」
カイルは分割していた長槍を一息で接続し、右側の壁沿いへ移る。
「ミア、左の死角を見ろ」
「見てる。左奥に別個体なし。天井も今は大丈夫」
ミアは戦うために前へ出ず、携帯灯の届かない岩陰へ短い音を飛ばし続ける。
「レオン、後ろを守れる位置に足場を作れ」
「了解」
レオンはすぐに床へ片手を向けた。
「——単環障壁〈ムロ・セリア〉」
後衛側と右手の退避空間の間へ低い補助結界が展開される。逃げ込む者が足を取られないよう、亀裂の深い部分だけを覆う形に絞っている。
フィナはそこで、ガレスが一度も「倒せ」と言っていないことに気づいた。
どこで受けるか。誰が横へ回るか。怪我人をどこへ下げるか。逃げるならどこか。
戦いが始まる前から、その全部が決められていく。
「——来るぞ!」
ガレスの声と同時に、大型魔物が地面を蹴った。
巨体からは想像できない速度だった。狭い通路いっぱいに黒褐色の身体が迫り、前方の岩が角に触れただけで砕け散る。
ガレスは逃げなかった。
巨大な両手剣を正面へ構え、地面へ深く踏み込む。
「——重岩装〈ガルド・ペトリア〉!」
褐色の魔力が足元から立ち上がり、両脚、腰、肩、腕へ順に絡みつく。
岩そのものを重ねたような魔力装甲が身体と剣を覆った直後、大型魔物の角が両手剣へ激突した。
轟音が洞窟を揺らす。
ガレスの足元から亀裂が走り、靴底が岩へ数センチ沈んだ。
「っ……!」
それでも、下がったのは半歩だけだった。
大型魔物の突進が止まる。
「今だ!」
ガレスの声に、右側で待っていたカイルが一気に踏み込んだ。
風が足元へ集まり、壁を蹴った身体が魔物の側面へ回り込む。長槍の穂先が前脚の付け根へ鋭く突き込まれ、大型魔物の身体がわずかに右へ傾いた。
「左、まだ空いてる!」
ミアは攻撃へ加わらず、死角の状況を伝え続ける。
「尻尾、来る!」
警告と同時に、魔物の後方が大きく振れた。
「エルナ、上!」
「任せて!」
中央から動かなかったエルナが右手を振り抜く。
「——雷針〈アグハ・ヴォルティア〉!」
鋭く絞られた雷撃が尻尾の付け根へ落ちる。
直撃を受けた筋肉が一瞬だけ硬直し、横薙ぎの勢いが鈍る。その間にカイルが地面を滑るように後退し、攻撃範囲から抜けた。
「フィナ、まだ!」
レオンが右腕を伸ばし、前へ出ようとしたフィナを制する。
「ガレスさんの正面に撃つと、足場まで崩す可能性がある!」
「うん!」
フィナはすぐに両手を下げた。
倒そうと思えば、大きな火でも強い風でも出せる。けれど今、ガレスは魔物の真正面にいる。右にはカイル、左にはミアが位置し、その後ろには全員が帰るための通路がある。
威力だけを出せばいい場所ではなかった。
大型魔物が頭を振り上げ、ガレスを弾こうとする。
「力任せに持ち上げる癖も同じか」
ガレスは剣を押し返そうとせず、一度だけ力を抜いた。
支えを失った大型魔物の頭が前へ沈む。その瞬間、ガレスの両腕に集まった褐色の魔力が刃へ圧縮された。
「——岩穿剣〈グラド・ロクシア〉!」
下から振り上げられた巨大剣が、魔物の顎へ叩き込まれる。
硬い皮膚が裂け、巨体がわずかに浮いた。
「リリカ、目!」
「はい!」
後方を守っていたリリカは、すでに小さな火球を二つ用意していた。
「——火珠弾〈ブラーサ〉!」
一直線には撃たない。一つ目を魔物の右目の少し外側へ飛ばし、顔が反射的にそちらへ向いたところへ、軌道をずらした二つ目を左目の前で弾けさせる。
熱と光に大型魔物が怯む。
そこへカイルが再び側面から槍を突き込み、エルナが同じ傷口へ右手を向けた。
「——雷針〈アグハ・ヴォルティア〉!」
細く鋭い雷撃が、開いた傷口を正確に追った。
巨体が大きく崩れる。
ガレスは追撃を急がず、魔物の前脚が完全に折れたことを確かめてから、一歩だけ前へ出た。
巨大剣が真上から振り下ろされる。
鈍い衝撃が岩床を伝わり、大型魔物の身体から力が抜けた。
洞窟へ静寂が戻る。
「終わった?」
フィナが少し前へ出ると、ミアはすぐには魔物へ近づかなかった。
「待って。周囲見る」
片耳の音響魔導具へ触れ、壁、天井、魔物の後方へ順に響きを送る。
「追ってきてるのはいない。近くにも大きい反響なし」
「よし。セリア、全員見てくれ」
ガレスは巨大剣を下ろしても、まだ自分の装備確認を始めなかった。
セリアが前へ出て、まずカイルの腕と脚、次にエルナの手、リリカの呼吸、レオンの魔力消費を順番に確かめる。ネムとフィナにも疲労がないことを聞き、最後にガレスの両腕へ視線を向けた。
「手、痺れてるでしょ」
「少しな」
「少しなら見せて」
セリアに促され、ガレスは素直に剣から右手を離した。
掌には強く握り込んだ跡が残り、手首も突進を受けた衝撃で赤くなっている。
「これで少しって言うの、やめてほしいんだけど」
「動く」
「動くかどうかを聞いてない」
セリアの穏やかな声が少しだけ低くなり、ガレスはそれ以上逆らわなかった。
フィナはその様子を見ながら、倒れた大型魔物へ目を向けた。
戦い自体は短かった。もし自分が最初から大きな魔法を使っていれば、もっと早く倒せたかもしれない。
けれど、ガレスが最初に考えたのは速さではなかった。
全員がどこに立てば安全なのか。誰かが怪我をした時に、どこへ逃がすのか。敵がどう動くのか。倒したあとに、別の魔物が来ないか。
フィナはそこまで考え、ようやくガレスが戦闘前に右側の空間を何度も見ていた理由へ気づいた。
「ガレスさん」
「なんだ、嬢ちゃん」
「最初から、倒す場所まで決めてたんですか?」
治療を受けながら、ガレスは倒れた魔物と右手の退避空間を見比べた。
「だいたいな。あそこで受けりゃ、誰か転んでも後ろへ下げられる。通路も塞がねえ」
「通路……」
フィナが魔物の位置を見ると、巨体は壁寄りへ倒れていて、帰路になる中央から右側は歩ける幅が残っている。
それまで気づいていなかった答えが、目の前に形として残っていた。
「倒せりゃ終わりじゃねえ」
セリアに手首を固定されながら、ガレスはいつもの落ち着いた声で続ける。
「深層じゃ、勝った後に歩けるかまでが戦闘だ」
フィナはその言葉と、あえて空けられた帰り道を交互に見た。
強さの使い方には、まだ自分が知らない種類がある。その実感だけが、倒した魔物の巨体よりもずっと重く、静かに胸へ残っていた。




