第四章 5 『深層への降下』
夜明け前の迷宮都市は、地上の街とは思えないほど早く動き始めていた。
巨大縦坑の周囲では魔石灯が白く灯り、補給用の荷車が行き交っている。眠そうな顔で宿から出てくる冒険者もいれば、すでに装備を整え、縦坑脇の待機場所で地図を確認している一団もいた。
フィナたち五人が集合場所へ着いた時には、ガレスたちも準備を終えていた。
「遅刻なし。荷物も昨日より軽そうだな」
巨大な両手剣を背負ったガレスは、五人を一度見回したあと、特にフィナの鞄へ視線を止めた。
「……昨日より?」
フィナが少しだけ鞄を背中へ隠すように身体を捻る。
「何を聞いたんですか?」
「机」
「やっぱり伝わってる!」
少し離れた場所で分割式の槍を確かめていたカイルが、半眼のままフィナへ顔を向けた。
「本当に持ってくるつもりだったんだな」
「小さい机だよ!」
「大きさを説明すれば許されると思ってる?」
エルナがすぐ横から刺すと、フィナは唇を尖らせた。
「もう置いてきたんだからいいでしょ!」
「その判断ができたなら十分だ」
ガレスはそれ以上触れず、縦坑の縁へ設けられた巨大昇降設備を顎で示した。
昨日、遠くから見下ろした時にも大きいと思った。だが近くへ来ると、その印象はさらに変わる。
昇降籠だけでも小さな家ほどあり、太い鎖が四方から天井の巻上機構へ伸びていた。床は厚い金属板で補強され、外周には腰の高さまで柵が取り付けられている。
内部には探索者だけでなく、補給箱や予備の水、照明用魔石も積まれていた。
「これで下まで行くの?」
フィナが籠の天井を見上げると、地図筒を腰へ下げたミアが、楽しそうに片耳の音響魔導具へ触れた。
「下まで、ではないよ。使えるのは既知区域の途中まで。その先は歩き」
「途中まででこれ使うの?」
「むしろ途中まで使えるようにした人たちがすごいんだって」
ミアは縦坑の内壁へ視線を向け、そこに刻まれた足場や補修跡を指先で追う。
「この壁、何世代分も手が入ってる。通路を広げて、落石避け作って、照明置いて、昇降路まで通してる」
「迷宮なのに、街道みたいになってるんだね」
「上の方だけな」
レオンが籠の固定具を確認しながら、内壁へ続く照明列を見る。
「深くなるほど、こういう設備は減るはずだ」
その言葉を聞いたところで、ガレスが全員へ乗り込むよう手で示した。
探索隊が籠へ収まると、セリアは外周に近い者から立ち位置を確認し、ネムの枕型魔導具が柵へ引っかからないよう少し位置を直す。
「降りてる間に酔いそうな人いる?」
セリアの問いに、リリカが元気よく首を振る一方、フィナは少し考えてから片手を上げた。
「分からないです」
「なら壁側じゃなくて中央にいて。下を見続けないこと」
「見ちゃ駄目?」
「見てもいいけど、気分悪くなったらすぐ言って」
「はい」
ネムはすでにフィナの隣へ寄り、枕を抱えたまま籠の床を見ている。
「ネムは平気?」
「……寝たら平気」
「今から寝るの!?」
「……長いなら」
フィナが驚く横で、セリアはネムの顔色を確認したあと、特に止めなかった。
「本当に眠れるなら、それもありかな」
「……許可出た」
「セリアさん、甘くないですか?」
「休める時に休むのも探索だからね」
そう返されると、フィナには反論しにくい。
やがて、頭上で大きな金属音が鳴った。鎖が張り、巨大な籠がゆっくりと沈み始める。
最初は、都市の明かりがすぐ近くにあった。縦坑の上から差し込む朝の光も、内壁へ並ぶ魔石灯も十分に明るい。途中には横穴へ続く搬入口や休憩場所があり、簡易柵の向こうで別の冒険者たちが荷物を運んでいた。
「本当に中に街があるみたい」
フィナが柵越しへ身を寄せすぎないよう注意しながら、次々と上へ流れていく足場を見送る。
以前入った小規模な迷宮では、入口を抜ければすぐ探索が始まった。ここは違う。何百年も人が潜り続けた結果、迷宮の一部そのものが冒険者の生活圏へ変えられている。
数百メートルほど降りたところで、一度籠が止まった。
横穴の先には補給所があり、水樽、保存食、松明、魔石灯が棚ごとにまとめられている。その向かいには簡素な長椅子と治療台まで置かれ、数人の冒険者が装備を外して休んでいた。
「ここで補給できるんですか?」
リリカが記録冊子を取り出そうとすると、ガレスは籠から降りながら短く返した。
「今は使わん。場所だけ覚えろ。帰りにここまで来りゃ、一息つける」
ガレスの視線は補給品よりも、入口脇に取り付けられた標識へ向いていた。
矢印と数字、魔物の爪痕を模した警告印。さらに壁には、分岐ごとの危険度を示す色付きの札まで打ち込まれている。
「標識、多いね」
「上層はな」
カイルは槍を背負い直し、横穴の奥へ目を向ける。
「ここじゃ迷う方が難しい。でも、それに慣れたまま下へ行くと困る」
「下にはないの?」
フィナが尋ねると、カイルは肩をすくめた。
「壊れる。埋まる。誰も置いてない。道そのものが変わる。好きなの選べ」
「好きなのはないかな……」
再び昇降籠が動き始める。
降下を続けるにつれ、壁沿いの設備は目に見えて減っていった。最初は数十歩ごとにあった照明が、やがて間隔を広げる。補給所も見えなくなり、整えられていた足場の代わりに、自然の岩壁と大きな亀裂が増えていく。
上を見上げたフィナは、そこで初めて地上の光がどれほど遠くなったのかに気づいた。縦坑の入口は、もう小さな白い円にしか見えない。
「……あんなに遠いんだ」
声が自然に小さくなる。
リリカも筆を止め、同じように上を見ていた。エルナは何も言わなかったが、片手で鞄の固定具を確かめ、足元へ意識を戻している。
ネムだけはフィナの腕へ少し寄りかかりながら、半分眠った目で上を見た。
「……帰り、上る」
「うん」
「……長い」
「そうだね」
短いやり取りだったが、フィナは改めて帰還まで含めて探索なのだと感じた。
やがて昇降籠は、最後の停留地点へ到着した。
ここから先に人工の床はない。岩盤を削って作られた広い足場の先へ、天然の洞窟が斜め下へ続いている。入口には最後の魔石灯と、冒険者用の標識が一本だけ立っていた。
「ここから徒歩だ」
ガレスは全員が籠から降りたことを確認すると、巨大剣の位置を直しながら洞窟側へ立った。
「カイル、先行。ミア、地形を見ろ。離れすぎるな」
「了解」
カイルは槍を接続しないまま、軽い足取りで前へ出る。
ミアもすぐには追わず、片耳の魔導具へ指を添えて呼吸を整えた。
「ちょっと静かにしてね」
それまで早口だった声が急に落ちる。
ミアが指先を岩壁へ触れた直後、人間の耳では捉えにくいほど微かな音が洞窟の奥へ流れた。数秒後、彼女の黄緑色の瞳が左右へ動く。
「前方、三十歩で分岐。右は狭くなって、その先で落差あり。左が主経路。近くに大きな反響はなし」
ミアの報告を受け、ガレスは迷わず左側へ進路を決めた。
隊列も自然に整っていく。
先頭はカイルとミア。その少し後ろにガレス。中央へフィナたち五人を入れ、セリアは後方寄りから全体の歩調を見ている。
「速すぎない?」
しばらく進んだところで、セリアがカイルへ声を飛ばした。
先行していたカイルは、十数歩先で立ち止まって振り返る。
「まだ余裕あるけど」
「あなたじゃなくて後ろを見るの。今日は降下したばかりなんだから、最初から飛ばさない」
「了解、セリアさん」
カイルは素直に速度を落とした。
その違いに、フィナは少し驚いた。速く進める人間が先へ行くのではない。全員が帰れる速度に、速い人間が合わせる。
「フィナ、足元」
レオンの声で前へ意識を戻す。
右足を置こうとしていた先に、細い亀裂が走っていた。
「あ、ありがと」
「上ばかり見るな。ここからは地面も見る」
「はい」
少し前では、エルナがカイルの足運びを観察している。壁際の凹凸を使い、歩幅を変えずに悪路を抜ける動きが気になっているらしい。それでも勝手に前へ出ることはせず、今は隊列の中で同じ速度を保っていた。
さらに一時間ほど進むと、最後まで残っていた人工の痕跡もほとんど消えた。
魔石灯はなくなり、各自の携帯灯だけが洞窟を照らす。標識も途切れた。代わりに、岩壁には巨大な爪で削ったような跡が増えていく。
フィナがその一本へ近づこうとしたところで、前方のガレスが片手を上げた。
全員が足を止める。
カイルも戻ってきており、さっきまでの軽い表情が消えていた。
「ここから先、縄張り跡が新しい」
ミアも壁面の傷へ目を向け、音響魔導具を押さえながら小さく息を吐く。
「前にいる。かなり大きい。まだ距離はあるけど、動いてる」
ガレスは巨大剣へ手を伸ばしたものの、すぐには抜かなかった。
「ここまでが既知の安全区域だ」
その声を聞きながら、フィナは携帯灯の先へ続く暗闇を見つめた。
灯りも標識も補給所もない。
そこから先には、冒険者たちが整えた道ではなく、迷宮そのものの領域が広がっていた。




