第四章 3 『迷宮都市』
王都を出てから数日後、街道の先に現れたのは、城壁より先に巨大な鉄骨櫓が見える異様な都市だった。
山裾を削るように建物が密集し、その中央だけが不自然なほど大きく空いている。遠目には広場にも見えたが、近づくにつれて、その中心にあるものが地面ではないと分かってきた。
「……あれ、穴?」
馬車の窓から身を乗り出しかけたフィナの襟を、隣のレオンが反射的に掴んだ。
「まだ遠い。落ちる距離じゃない」
「じゃあ離してよ!」
「お前の場合、見に行こうとして何をするか分からない」
「見るだけだよ!」
向かいの席でエルナが呆れたように腕を組み、その横ではネムが枕型魔導具へ頬を預けたまま、窓の外を半分だけ見ている。
「フィナ。穴、大きい」
「ネムまで見えてるの!?」
「見える。すごく大きい」
リリカはすでに記録冊子を開き、《迷宮都市到着》と書き込んでいたが、馬車が都市門へ近づくにつれて筆の速度が落ちていった。
門を抜けた先は、王都ともアクアレイアともまるで違っていた。
石造りの建物は多いが、装飾より耐久性を優先したものばかりで、一階部分には厚い扉と広い搬入口が付いている。
道の両側には冒険者宿、武器屋、防具店、食料補給所が隙間なく並び、店先には縄、杭、油、魔石灯、保存食が箱ごと積まれていた。
「観光地っぽくないね」
「観光するための場所じゃないからな」
レオンは馬車の速度が落ちたところで窓の外へ視線を移し、道沿いの看板を順番に追っていく。
「宿の横が武器屋、その向かいが治療院。少し先に魔石加工所……配置まで探索者向けだ」
「怪我して帰ってきて、武器直して、食べて、寝て、また潜るってこと?」
「たぶんな」
「生活が迷宮中心なのね」
エルナの声も、いつもの軽い調子から少し変わっていた。
通りを歩く人間の大半が冒険者だった。質の良い鎧を着ている者もいる。高価そうな杖を持つ魔法使いもいる。それなのに、誰もが綺麗ではなかった。
肩当てに深い傷を残したまま歩く男。革鎧の泥を落とす暇もなく食料箱を抱えて店へ入る一団。欠けた槍先をそのまま鍛冶屋へ差し出す若い冒険者。
フィナが思っていた「強い冒険者」の姿とは、少し違って見えた。
「みんな、ぼろぼろだね」
「深く潜れば、装備が無傷で帰れる方が珍しいんだろう」
馬車が大通りを曲がったところで、今度は反対側から大きな荷車が来た。
積まれているのは木箱ではない。黒い甲殻を持つ巨大な脚。切り取られた角。何枚も重ねられた鱗。人の胴ほどもある牙が、太い縄で固定されている。
「うわ……」
フィナが窓へ近づくと、リリカまで隣から覗き込んだ。
「全部魔物の素材ですよね」
「上の方でも、あの大きさなのかしら」
エルナが荷車の後方へ目を向けた時、そこに続く冒険者たちが見えた。
七人ほどの隊だったが、一人は仲間に肩を貸され、もう一人は簡易担架へ寝かされている。担架の脇には治療術師らしい女性が付き、歩きながら腕へ光を当て続けていた。
さっきまで荷車の素材に目を輝かせていたフィナの表情が、少しだけ引き締まる。
「怪我してる」
「でも帰ってきた」
ネムの短い言葉に、フィナは担架が治療院へ運ばれていくところまで目で追った。
迷宮では、戦って勝つことだけが成果ではない。その街そのものが、そう示しているように見えた。
馬車を降りると、空気まで王都と違った。
鉄を打つ音。魔石を削る高い響き。宿の前で大声を出す冒険者。素材の値段を巡る交渉。治療院の扉が開く音。
その全部が途切れず重なっている。
「こっち、地図売ってる!」
見知らぬ探索者が露店の前で声を張っていた。
机の上には何枚もの手描き地図が置かれ、通路の形だけでなく、水場、魔物の縄張り、崩落箇所らしき印まで細かく書き込まれている。
フィナが足を止めると、レオンも自然にそちらへ寄った。
「地図って売るものなんだ」
「未踏区域の情報には価値がある。正確なら、次に潜る連中の生存率そのものが変わる」
「じゃあ間違ってたら?」
「最悪、人が死ぬ」
フィナの目が地図から離れる。
紙一枚でも、深層では命に直結する。そう考えると、棚に資料を積み上げていたレオンの執着も、少しだけ違って見えた。
「レオン」
「なんだ」
「記録板、二枚に減らしてよかった?」
「今さら増やそうとするな」
「心配してるだけなのに!」
エルナが横から割って入り、レオンの背負い袋を指先で叩く。
「その二枚が壊れるような場所なら、四枚持ってても全部壊れるわよ」
「それは状況による」
「ほらまた始まる」
「深層では記録の損失が――」
「まだ入口にも着いてないでしょ!」
フィナが二人を見比べている間に、ネムはいつの間にか食料補給所の前へ移動していた。干した果実を売る棚の前で立ち止まり、じっと一袋を見ている。
「ネム?」
「深層用」
「それ甘いやつだよね?」
「糖分。必要」
「絶対そこまで考えてなかったよね?」
「考えた」
リリカが真剣な顔で頷き、記録冊子へ何かを書き込もうとする。
「長期探索では、甘味による精神安定も――」
「そこから教えにしなくていいから!」
五人がようやく冒険者ギルド支部へ到着した頃には、フィナの意識はすっかり街の空気へ向いていた。
支部の建物も王都より大きく、入口脇には泥を落とすための溝があり、壁には迷宮から帰還した隊向けの受付案内が何枚も掲示されている。
中へ入ると、素材査定の列と依頼受付の列が完全に分けられていた。
レオンが合同探索参加者用の窓口を見つけ、五人でそちらへ向かう。
「深層合同探索の特別推薦枠です」
受付で書類を差し出すと、係員は内容を確認したあと、五人の冒険者証を順番に求めた。
フィナも自分の木級証を差し出す。
受付の手が止まった。
「……木級?」
「はい」
係員は推薦書へ戻る。もう一度、フィナの証を見る。さらに推薦書を見る。
その視線の往復が三度目に入ったところで、フィナは少し不安になった。
「何か間違ってます?」
「いえ、その……深層合同探索の参加者で、木級というのは」
係員は言葉を選びながら証を裏返した。そこで、《特別危険指定》の記載を見つける。
今度は完全に動きが止まった。
「……特別危険指定?」
「そこも合ってます」
「木級で?」
「木級です」
「特別危険指定?」
「はい」
フィナはなぜか自分が悪いことをしたような気分になり、少しずつ声が小さくなった。
隣でエルナが口元を押さえている。
「笑ってる?」
「笑ってないわよ」
「肩揺れてるよ」
「受付の人が気の毒だなって思っただけ」
「それ笑ってるのと同じじゃない?」
レオンは自分の額へ手を当てつつ、係員へ推薦書の該当欄を示した。
「五人とも階級は木級です。ただ、今回は学院と魔導協会からの推薦が付いています。白金級冒険者の指揮下に入ることも了承済みです」
「確認します」
係員はそう言ったものの、フィナの証だけ机へ残し、他の四人の証を確認し始めた。
ネム。リリカ。エルナ。レオン。
全員、木級だった。
係員は最後に五枚を横一列へ並べ、しばらく見つめる。
「全員、木級……」
「そこ、そんなに驚くところなんですか?」
リリカが純粋に尋ねると、係員はすぐには答えなかった。
フィナは助けを求めるようにレオンへ顔を向ける。
「私たち、来ちゃ駄目だった?」
「推薦されて来てるんだから問題ない」
「でも受付の人、すごく困ってるよ」
「規定と実績が噛み合ってないだけだ」
「その説明で安心できる?」
「できないわね」
エルナの即答に、フィナの肩が落ちた。
やがて確認が取れたらしく、五枚の冒険者証は無事に返された。
支部を出る頃には日が少し傾き、街の中央へ向かう人の流れが増えていた。フィナたちも、その流れに沿って歩く。
建物の隙間が広がり始めたところで、前方の地面が突然なくなった。
「……うわ」
思わず漏れた声は、さっきまでの騒がしさとは違っていた。
都市の中央に口を開けているのは、広場などではない。巨大な縦坑だった。
反対側の縁が遠い。内壁には何層もの足場や昇降設備が取り付けられ、そのさらに下では魔石灯の光が点々と続いている。
けれど、その光も途中で消えていた。その先には、何も見えない。
黒い。ただ深さだけがあるような暗闇だった。
フィナは縁の手前で足を止めたまま、ゆっくり視線を下へ向ける。
アクアレイアでは、空にまで海が広がった光景を見た。王都では、街全体から初級魔法が消える異常も経験した。
それでも今、目の前にあるものはそのどちらとも違う。
誰かが作った異変ではない。何百年も冒険者たちが潜り続け、それでもまだ底へ届いていない場所。
縦坑の奥から吹き上がってくる冷たい風を頬に受けながら、フィナは光の届かない深さへ、しばらく黙って視線を向け続けていた。




