第四章 2 『深層装備と荷物問題』
深層合同探索への参加が決まった翌日、第一特別実習班の班室は、朝から普段とは違う意味で足の踏み場がなくなっていた。
机の上には衣類、保存食、魔石灯、簡易調理器具、予備の水筒、毛布、携帯工具が並び、椅子の背には何種類もの鞄が掛けられている。その中でも、最も広い範囲を占領しているのはフィナの荷物だった。
「今回は必要なものだけにするから!」
フィナは胸を張り、自分の前に置かれた大きな旅行鞄を両手で示した。
その鞄はすでに口が閉じていない。中から布に包まれた保存食が覗き、その横には予備の服が押し込まれている。さらに菓子の袋や小瓶、用途のよく分からない木製器具まで隙間へ差し込まれていた。
レオンはしばらく無言でそれを見つめたあと、フィナの顔へ視線を戻した。
「確認するが、その状態で?」
「うん」
「必要なものだけ?」
「そうだよ」
「じゃあ、これは何だ」
レオンが鞄の端から木製の小さな板を引き抜く。四隅に脚が付いており、折り畳めば掌二つ分ほどになる道具だった。
「小さい机」
「見れば分かる。なんで持っていく」
「地面が濡れてた時、物を置けるかなって」
「石でも使え」
「ちょうどいい石がないかもしれないじゃない?」
「その心配のために机を背負うな」
フィナは納得できない顔で木製の机を受け取り、捨てるでも戻すでもなく胸元へ抱えた。その様子を見ていたエルナが、今度は鞄から細長い布袋を引っ張り出す。
「これは?」
「予備の予備の靴紐」
「予備の靴紐は分かるわよ。なんで予備の予備がいるの?」
「切れたあとに、もう一回切れるかもしれないから」
「その前に帰りなさいよ!」
「でも帰れないかもしれないよ?」
「そこだけ急に深層探索らしい正論を出さないで!」
フィナは少し得意そうに笑い、布袋を再び鞄へ戻そうとした。しかし、横からレオンの手が伸びて止める。
「一本残して、残りは置いていけ」
「三本あるのに?」
「だから一本残すんだ」
「二本が寂しくない?」
「物に感情を持たせるな」
机の反対側では、ネムが枕型魔導具を抱えたまま椅子に座っていた。足元には、小さな鞄が一つだけ置かれている。
あまりにも少ないため、フィナが自分の荷物から目を離し、心配そうに覗き込んだ。
「ネム、それだけ?」
「それだけ」
「着替えは?」
「ある」
「食べ物は?」
「みんなが持つ」
「最初から分担に入ってるの!?」
ネムは当然のようにフィナの鞄へ目を向けた。
「フィナ、多い」
「多いけど、ネムの分を持つためじゃないよ!」
「一人分、増えても同じ」
「同じじゃないよ!」
フィナが慌てて自分の鞄を抱え込むと、ネムはそれ以上追及せず枕へ頬を預けた。その反応が妙に諦めが良かったため、フィナは逆に不安になり、しばらくネムの鞄と自分の鞄を見比べる。
少し離れた場所では、リリカが床へ膝をつき、自分の荷物を整理していた。服や生活用品自体は多くない。問題は、鞄の半分以上を占領している冊子だった。
「リリカ。それ、全部持っていくの?」
「はい!」
リリカは迷いなく顔を上げ、積み重ねた記録冊子へ両腕を回した。
「これまでのフィナ師匠の教えと、アクアレイアでの記録と、王都魔法祭での記録と、私の魔法の改善記録、それから今回の探索用に新しく三冊です!」
「新しい三冊だけでよくない!?」
「過去の教えが必要になるかもしれません!」
「深層で私の昔の発言を読み返す状況って何!?」
リリカは真剣に考え込み、一冊を取り出した。
「たとえば、予想外の魔物が出た時に、《困ったら先に逃げ道を作る》という師匠の言葉を――」
「それ、レオンが言ったやつだよ!」
「ですがフィナ師匠も頷いていました!」
「頷いただけで私の教えになるの!?」
「思想への賛同です!」
「範囲が広いよ!」
フィナが頭を抱える横で、レオンは二人の荷物から不要品を分けるための一覧を作り始めていた。
数分後、エルナがそのレオンの足元を見た。
そこにはフィナの鞄に負けないほど大きな背負い袋が置かれている。
「……レオン」
「なんだ」
「それ、何が入ってるの?」
「必要物資だ」
「開けなさい」
「なぜだ」
「いいから」
エルナが勝手に袋の口を開き、中身を一つずつ机へ並べていく。
迷宮の既存地図。過去の探索記録。深層に生息する魔物をまとめた図鑑。古代施設に関する資料。術式記録用の板が複数。筆記具の予備。魔導測定器。
さらに、同じ大きさの記録板が別の布に包まれて二枚出てきた。
エルナは最後の一枚を持ち上げたまま、レオンを見た。
「人のこと言えないじゃない」
「全部必要だ」
「フィナと同じこと言ってるわよ!」
「同じにするな。これは使用目的が明確だ」
「その予備記録板、何枚あるの?」
「四枚」
「一枚壊れたら?」
「二枚目を使う」
「じゃあ四枚目は?」
「三枚目まで壊れた時だ」
「完全にフィナの予備の予備と同じじゃない!」
フィナが勢いよく顔を上げる。
「ほら!」
「お前は喜ぶな!」
「仲間だね!」
「違う!」
レオンが珍しく即座に否定したせいで、フィナは少し傷ついた顔になった。
ネムは枕の向きを変えながら、二人の荷物を交互に見る。
「似てる」
「似てない」
「似てるわよ」
「似てます!」
「三対一」
「投票で決める問題じゃない!」
班室の中央に、フィナとレオンの荷物だけが小山のように残った。
エルナは額を押さえ、リリカは「準備に対する備えの思想」と何かを書き始めている。ネムだけは自分の荷物が増えていないことを確認し、満足そうに枕へ顎を乗せていた。
しばらくして、フィナは自分の鞄を前に腕を組んだ。
「……じゃあ、やっぱりあれ使えば全部入るんじゃないかな」
レオンの手が止まる。エルナも止まる。リリカの筆も止まり、ネムだけが少し早く椅子から離れた。
「フィナ」
レオンの声が低くなる。
「何を使うつもりだ」
「まだ何も言ってないよ?」
「言う前に分かる」
「ちょっと空間を広げて、荷物を――」
「却下」
「早い!」
「前に似た案を出した時、お前がどこまで広げるつもりなのか説明できなかった」
「今回はできるかも」
「『かも』で深層用の全装備を入れるな!」
エルナはすでに自分の鞄を抱え、フィナから一歩距離を取っていた。
「収納先がどこに繋がってるか分からない物に、命綱も食料も入れたくないわよ」
「ちゃんと戻せると思うよ?」
「思うじゃなくて確認してから使いなさい!」
「リリカは?」
「フィナ師匠の新たな収納魔法……!」
「聞いた私が悪かった!」
フィナが慌ててリリカの肩を掴む。
ネムは班室の扉の近くまで移動し、いつでも出られる位置で枕を抱えていた。
「ネム、なんで避難してるの?」
「失敗した時、荷物と一緒に入るかもしれない」
「入れないよ!」
「まだ試してない」
「そこでレオン側にならないで!」
ひとしきり騒いだあと、五人はようやく本来の準備へ戻った。
今回の探索は、学院の短期実習とは違う。数日以上、地上へ戻れない可能性がある。必要な物を減らしすぎれば困るが、背負う重量が増えれば移動速度が落ち、疲労も早くなる。足場の悪い深層では、その差がそのまま危険へ繋がることもある。
レオンは資料の優先度を付け直し、必要な地図と古代施設関係の最低限だけを残した。記録板も二枚まで減らし、残りは学院へ置いていく。
フィナも食料を日数分へ整理し、菓子は小袋一つだけにした。
「本当に一つだけ?」
「一つで十分だ」
「ネムも食べるよ?」
「その前提で計算してる」
レオンの返答に、ネムが静かに親指を立てた。
「そこは意思疎通できるんだ……」
リリカは過去の記録冊子を置き、新しい二冊と、自分の魔法調整記録一冊だけを選んだ。最後の一冊を棚へ戻す時だけ名残惜しそうだったが、自分で決めて手を離した。
エルナは全員の荷物をもう一度確認し、特にフィナの鞄から用途不明の小物が復活していないか念入りに調べる。
「ちょっと、私だけ検査厳しくない?」
「信用の問題よ」
「前よりちゃんと考えてるよ!」
「その木の机、どこへ隠したの?」
フィナの視線がゆっくり横へ逸れた。
「フィナ」
「……置いていきます」
夕方には、五人分の装備がようやく形になった。
丈夫な冒険服に予備衣類、保存食、水筒、魔石灯、最低限の寝具、治療用品、探索道具。それぞれの役割に必要な装備だけを残し、荷物は長時間背負って歩ける重量へ収まっている。
鞄を背負ったフィナは、最初の状態よりずっと軽くなった背中を確かめるように、その場で二度ほど跳ねた。
「すごい。軽い!」
「今までが重すぎたんだ」
「でも、何か忘れてる気がする」
「その感覚に負けるな」
レオンが即座に止める隣で、エルナも疑うようにフィナの鞄を見た。
ネムは最初からほとんど変化のない小さな荷物を背負い、枕型魔導具だけは両腕でしっかり抱えている。リリカも記録冊子を三冊に絞った鞄を背負い、いつでも出発できる状態になっていた。
翌朝。
まだ人通りの少ない王都の門を、五人は並んで抜けた。
フィナたちの鞄には、以前から付けている雷獣を模した小さなぬいぐるみ飾りが揺れている。旅支度はこれまでより重く、それでも余計な物を減らした分だけ、足取りは軽かった。
街道の先には、まだ姿すら見えない世界最大級の地下迷宮が待っている。
事件の現場へ急ぐためではなく、誰も知らない場所へ自分たちの意思で向かう。その感覚を確かめるように、フィナは朝の王都を一度振り返ってから、四人と同じ歩幅で前へ進んでいった。




