第四章 1 『一番深いところへ』
王都魔法祭が終わってから数日が経った。
初級魔法消失事件で止まっていた設備はほとんど復旧し、王都には以前と変わらない生活の音が戻っている。
学院でも、窓の外では初級風魔法で中庭の落ち葉を集める生徒がいて、遠くの実習場からは火球が標的へ当たる乾いた音が聞こえていた。
第一特別実習班の班室にも、ようやく普段通りの空気が戻り始めている。
壁には、五人で撮った集合写真が飾られていた。レオンとエルナが言い争い、フィナが二人を止めようとし、リリカだけがなぜか感動した顔をして、その腕の中ではネムが眠っている。
全員が綺麗に正面を向いているわけでもない、不格好な写真だ。それでもフィナは、班室へ入るたびにその一枚が目へ入ると、少しだけ安心した。
写真の下にある棚は、以前よりずっと賑やかになっている。アクアレイアから持ち帰った土産の箱。その横にはリリカの記録冊子が何冊も積み重なり、さらにレオンの解析資料が棚板の半分近くを占領していた。
そこへ王都魔法祭で得られた測定結果や、魔導協会から届いた追加資料まで増えている。
「……また増えたね」
机へ頬杖をついたフィナは、レオンの前に広がる紙束を眺めた。
「私のこと調べるだけで、こんなに必要なの?」
「必要だから増えてるんだ」
レオンは測定記録と解析結果を見比べながら、内容ごとに資料を分けている。
「術式反応なし。反魔法による否定不成立。複数属性で同じ結果。確認できたことは増えたのに、それを説明できる理論がない」
「分かったことが増えたのに、分からなくなってるの?」
「そういうことになる」
「ややこしい……」
フィナは自分の右手を開き、掌をじっと見つめた。見た目は何も変わっていない。
火を出したいと思えば出せる。水も、風も、土も、今まで通り使えるはずだった。それでも、ガルドから言われた言葉は残っている。
自分が初級魔法だと思っているものと、自分自身が使っているものは違う。学院と魔導協会が残した観測結果も、その言葉を否定してはいなかった。
以前、敵から《原初魔法》という名前を聞いたこともある。けれど、それが本当に自分の力を指しているのかは、まだ誰にも断定できない。
「フィナ」
隣の椅子で枕型魔導具を抱えていたネムが、半分閉じた目を向けてくる。
「難しい顔」
「してた?」
「してた」
「そっか」
フィナが両手で頬を軽く押すと、向かい側にいたエルナが呆れたように眉を上げた。
「顔を押しても解決しないでしょ」
「普通の顔に戻そうかなって」
「そういう問題じゃないのよ」
エルナは手元の冊子を閉じ、レオンの資料へ目を向ける。
「調べることは任せればいいじゃない。学院も魔導協会も動いてるし、レオンなんて放っておいても勝手に調べるんだから」
「勝手にやってるわけじゃない」
「昨日、いつまで起きてたのよ」
「二時四十七分」
「ほぼ三時じゃない!」
「十三分違う」
「そこを訂正する必要ある!?」
二人の声が少しずつ大きくなっていく。フィナは右手を見つめていたことも忘れ、交互に二人の顔を追った。
その横では、リリカが静かに新しい記録冊子を開いている。
「なるほど……! 答えの出ない悩みへ囚われるより、仲間との日常を大切にすることで心を整える……」
「待って、リリカ」
嫌な予感がしたフィナは、すぐに身を乗り出した。
「今の、私の教えみたいに書いてない?」
「はい!」
「私、何も教えてないよ!?」
「ですが、フィナ師匠は実際に悩むのをやめました!」
「レオンとエルナが言い争い始めたからだよ!」
リリカの筆が止まる。数秒考えたあと、別の行へ書き始めた。
「では、《仲間同士の活発な意見交換によって不安を吹き飛ばす》と――」
「それも違う!」
「意見交換?」
エルナが勢いよく振り返る。
「今のどこが意見交換だったのよ!」
「時間認識に関する訂正だ」
「レオンも話を広げないで!」
四人が騒いでいる間に、ネムは棚からアクアレイア土産の箱を膝へ下ろしていた。蓋を開けると、中には小さな菓子が一つだけ残っている。
「ネム、それ最後の一個じゃない?」
「最後だから食べる」
「最後なら残す選択もあるよね?」
「ない」
「あるよ!」
ネムは包装を剥がし、フィナの抗議を聞きながら半分を口へ入れた。
「もう遅い」
「早いよ!」
さっきまで胸の奥に残っていた重さが、いつの間にか少しだけ薄れていた。
答えが出ていないことは変わらない。自分の魔法が何なのか、これから何が分かるのかも知らない。それでも、答えが出るまでずっと立ち止まっている必要はないのだと、今は思える。
その時、班室の扉が二度叩かれた。
「第一特別実習班宛てに、学院と冒険者ギルドから共同通知です」
廊下から聞こえた職員の声に、レオンが資料を置いて扉へ向かう。戻ってきた彼の手には、学院印と冒険者ギルド印が並んだ厚い封筒があった。
「また何かあったの?」
フィナが少し身構えると、レオンは封を切りながら中身へ目を走らせた。最初の一枚を読み終えたところで、その眉がわずかに上がる。
「いや。今回は事件の調査じゃない」
「違うの?」
フィナの声に期待が混じった。
「世界最大級の地下迷宮で、《深層合同探索》が行われる」
「深層合同探索?」
リリカが記録冊子を抱えたまま身を乗り出す。
「最近、既存の探索区域よりさらに下へ続く新しい経路が見つかったらしい」
レオンは書類を机へ広げた。
新経路の確認。未踏領域の地図作成。魔物分布の調査。安全な中継地点候補の選定。
学院、魔導協会、冒険者ギルドの三者が人員を出し、本格的な探索隊を編成することになっている。
「私たちも行けるの?」
「推薦されてる」
フィナが勢いよく近づいたため、レオンは紙を少し持ち上げた。
「戦闘能力、迷宮攻略経験、古代施設への接触経験、異常環境での活動実績。このあたりが評価されたらしい」
「異常環境……」
エルナが腕を組み、少しだけ遠い目をする。
「空に海があった場所より変なところなんて、そうそうないでしょうね」
「そういうこと言わない方がいいと思う」
フィナは真剣な顔で首を振った。
「本当に出てきそうだから」
「フィナ師匠がそこまで警戒する未知……!」
「リリカも期待しないで!」
否定しながらも、フィナの目は書類へ戻っていた。
誰かを追うためでもない。王都を守るためでもない。まだ誰も見たことのない場所へ行き、何があるのかを確かめる。それだけだ。
胸の奥が、少しずつ軽く弾み始める。
「ただし条件がある」
レオンの一言で、フィナは浮きかけた気持ちを戻した。
「俺たちは冒険者としては木級だ。《特別危険指定》は付いてるが、正式な階級は変わってない」
「改めて聞くと変よね」
エルナがフィナの腰にある冒険者証へ目を向ける。
「国の危機に何度も巻き込まれてるのに木級って」
「階級は正式な依頼実績や審査も必要なんだ」
「説明、長くなる?」
「まだ始めてもいない!」
ネムが枕へ顎を乗せたまま、書類を指差す。
「条件」
「ああ」
レオンは一度息を整え、続きへ視線を落とした。
「五人だけで自由行動することは認められない。白金級冒険者ガレス・ヴァルドが隊長を務める合同探索隊へ参加し、その指揮に従うことが条件だ」
「白金級……」
エルナの声から冗談が消える。フィナも冒険者階級に詳しいわけではないが、白金級が木級とは比べものにならない位置にいることくらいは分かる。
「すごい人?」
「世界最大級迷宮へ何度も潜って、生きて戻ってる。それだけで十分すごい」
レオンの言葉には、説明より先に敬意が滲んでいた。
「迷宮内では隊長の判断を優先する。俺たちも探索隊の一員として動くことになる」
「うん」
フィナは迷わず頷いた。
「分からないことは、知ってる人に任せた方がいいもんね」
エルナが一瞬だけ目を丸くしたあと、柔らかく笑う。
「前だったら、あんた一人で何とかしようとしてたかもしれないわね」
「……それは、ちょっとあるかも」
「成長」
ネムの短い評価に、フィナは少し照れながら頬を掻いた。
リリカはすでに新しい頁の一番上へ、《深層合同探索》と大きく書いている。
「フィナ師匠。行きたいですか?」
その問いに、フィナはすぐ四人の顔を見なかった。まず、自分の気持ちを確かめる。
危険なのは分かっている。今まで入った迷宮とは比べものにならない深さで、何が待っているのかも分からない。
それでも惹かれた。誰かに頼まれたからではなく、自分で見てみたいと思った。まだ誰も知らない場所を、仲間と一緒に歩いてみたい。
「行きたい」
答えてから顔を上げると、レオンはすでに必要資料を分け始めていた。
エルナは装備を考えるように自分の袖口へ目を落とし、リリカは嬉しそうに記録冊子へ何かを書き足している。ネムも枕を抱え直し、止めるつもりはなさそうだった。
フィナは机の上の推薦書を両手で持ち上げ、《深層合同探索》の文字をもう一度見つめる。
「世界で一番深いところまで行けるかもしれないんだよね?」
数日前まで自分の魔法へ向いていた戸惑いとは違う、まっすぐな期待が胸の奥へ広がっていく。
壁の集合写真と、旅を重ねるたびに増えてきた棚の荷物に見送られながら、五人の次の目的地は、光の届かない遥かな深層へと静かに定まり始めていた。




