第三章 35 『私だけの初級魔法』
リリカの杖先に灯った炎は、王都全域を覆う反魔法の中でも消えなかった。
指先ほどの橙色の火は小さく揺れているものの、昨日まで使っていた初級火魔法のように成立直前で押し戻される様子がない。
術式そのものは確かに存在しており、レオンの測定器にも魔力経路から火属性への変換、現象成立までの流れが途切れず記録されていた。
「……出てる」
リリカは呼吸さえ忘れそうになりながら、自分の炎を見つめる。
「フィナ師匠みたいに、何もないわけじゃないのに」
「ああ。そこを間違えるな」
レオンは測定器へ浮かぶ術式を拡大し、既存の初級火魔法と重ね合わせた。
「フィナは最初から術式を通っていない。だから反魔法が掴む対象そのものがない。でも、お前のこれは現代魔法だ。魔力を術式へ流して、火属性へ変換して、最後に現象として成立させてる」
違うのは、その最後に使っていた共通基底だった。
誰でも扱えるよう整えられた既存の経路を外し、リリカ自身の魔力が最も自然に流れる形へ組み替えている。
汎用性はなくなったが、その代わりガルドが王都規模で狙っている共通基底を最初から通らない。
「じゃあ……これはちゃんと、初級火魔法なんですよね?」
「階級としては初級の範囲だ。構造はお前専用になったがな」
リリカの目が一気に明るくなる。
「私専用の初級魔法……!」
「そこで急に大声出さないの。集中切れたら消えるわよ」
エルナに止められ、リリカは慌てて口を閉じた。
「はい!」
「返事も大きい!」
「エルナ先輩、要求が難しいです!」
「今そこに難しさを感じないで!」
フィナは二人を見ながら笑い、それからリリカの小さな火へ視線を戻した。
「でも、やっぱりリリカっぽいね」
「私っぽい、ですか?」
「うん。小さくて、ちゃんと狙ったところに置けそう」
「それ、褒めてます?」
「すっごく褒めてるよ!」
以前なら、フィナのように大きな魔法を使えることこそ褒め言葉だと思っていたかもしれない。
今は違った。
小さいからこそできることがある。
その言葉を、リリカは初めて素直に受け取れた。
「喜ぶのは後だ」
レオンが固定点へ測定器を向け、五人の意識を作業へ戻す。
「火を出せたことと、切断できることは別問題だ。狙うのは固定点そのものじゃない。設備線の間にある接続部だけだ」
黒い反魔法反応は、祭典用の給水管と照明線の隙間を縫うように残っている。
幅は指一本にも満たず、その奥には避難通路へ繋がる設備が密集していた。
「ここを一気に焼けばいいんですよね?」
「一気に焼くな」
「えっ」
「下から順番に三か所切る。上を先に切ると残った反応が設備線側へ逃げる可能性がある」
レオンが測定器から三つの接続位置を示すと、リリカは真剣な顔で杖先を動かした。
「下、中央、最後に上……ですね」
「そうだ。ネム、脈動を読めるか?」
固定点のすぐ横で目を閉じていたネムは、黒い反応が強弱を繰り返す間隔へ意識を合わせる。
「三つ数えたあと、少し弱くなる」
「その瞬間を止められる?」
「短くだけなら」
ネムは既に《万象静止〈サイレント・レスト〉》を使っているため、疲労は残っていた。
眠そうだった目はさらに重くなっているが、それでも固定点から意識を外さない。
「無理はするなよ」
「しない。終わったら寝る」
「それならフィナが運ぶわよね」
エルナが先に決める。
「もちろん!」
「まだ頼んでない」
「でも運ぶ!」
「ネム、拒否するの面倒」
「成立した!」
フィナが嬉しそうにする横で、レオンは小さく息を吐いた。
「その話は後だ。来るぞ」
固定点の黒い光が強く脈打った。
ネムが両手を向ける。
「——万象静止〈サイレント・レスト〉」
周囲の音が一瞬だけ遠のき、固定点を走っていた反魔法の脈動が鈍くなる。
「今!」
レオンの声に合わせ、リリカは《心火一灯〈カンデリア〉》の炎を細く伸ばした。
火は下側の接続部だけへ触れ、必要な線を焼き切るとすぐ離れる。
設備を焦がすことも、隣の魔導線へ熱を移すこともなかった。
「一つ!」
「中央へ移せ!」
二つ目も切れた。
その瞬間、黒い反応の一部が固定点から抜け、広場の反対側へ走った。
「レオン!」
「分岐してた!」
測定器には、既に解除したと思われていた外縁側の固定点へ反応が戻っている。
エルナは場所を確認すると同時に走り出した。
「そっちは私がやる!」
外縁側の固定点は祭典設備から距離があり、周囲に避難者もいない。
エルナは反応が再定着する前に杖を向け、雷を一本だけ細く収束させた。
「——雷光演算〈ルクシヴェリア〉!」
青白い雷撃が石畳へ突き刺さり、黒い接続部だけを貫いた。
分岐しかけた反魔法反応がそこで途切れる。
「こっちは切った!」
「戻れ、まだ終わってない!」
レオンの声が飛ぶ中、フィナは広場の外側へ目を向けていた。
固定点が次々に破壊されたことで、中央競技場側から新しい反魔法の圧力が流れ込んでくる。
遠くにいるガルドが妨害を強めているらしく、黒い反応が最後の接続部へ集中し始めた。
「フィナ、そっち抑えられるか!」
「やってみる!」
フィナは固定点そのものへ魔法を撃たず、流れ込んできた反応の周囲だけへ風を起こした。
「ちょっとだけ風!」
反魔法そのものを消すのではなく、周囲へ積まれていた軽い祭典設備や布が巻き込まれないよう、飛散しそうなものだけを空中で固定する。
避難通路側へ倒れかけた支柱も風で支え、リリカが火を使うための安全な空間を残した。
「周りは大丈夫!」
「最後だ、リリカ!」
ネムの静寂が限界へ近づき、黒い脈動が再び動き始める。
リリカは焦らなかった。
必要な場所だけを見る。
必要な温度だけ作る。
必要な時間だけ火を置く。
フィナの真似ではなく、自分が何度も積み重ねてきたやり方で杖先の炎を整える。
「ここだけ……!」
細い火が最後の接続部へ触れた。
黒い線の表面だけを焼くのではなく、レオンが示した中心まで熱を通し、必要な部分が切れた瞬間に魔力を止める。
炎が消える。
直後、固定点から伸びていた黒い反応も途切れた。
「切れた!」
レオンが王都地図へ表示を切り替える。
残っていた固定点の反応が一斉に消え、中央競技場から外へ伸びていた広域干渉が支えを失う。
王都全体を覆っていた反魔法領域は、端からではなく各地で同時に崩れ始めた。
遠くの通りで、消えていた簡易照明が一つ灯る。
続いて給水設備が動き、止まっていた風の魔導具から小さな風が流れた。
「戻ってる……!」
リリカが目を見開く。
王都のあちこちから、初級魔法の光が少しずつ戻り始めていた。
「完全に復旧するまで確認は必要だ」
レオンは記録を取りながらも、声には隠しきれない安堵が混じっている。
「でも広域反魔法は崩れた」
「やったじゃない、リリカ!」
戻ってきたエルナがリリカの肩を強く叩く。
「最後、完璧だったわよ!」
「エルナ先輩……!」
「痛い」
「叩かれたのリリカだよ?」
「見てて痛そう」
ネムの言葉にフィナが吹き出し、リリカも泣きそうだった顔のまま笑った。
そして、自分の右手をゆっくり開く。
もう一度、自分用に組み直した《心火一灯〈カンデリア〉》の術式へ魔力を流した。
共通基底には頼らない。
けれど術式を捨てたわけでもない。
フィナとは違う、自分の経路を通って生まれた小さな炎が、今度も指先へ静かに灯った。
「これが、私の魔法です」
リリカは消えずに揺れるその火を、初めて誰かの真似ではなく、自分自身のものとして見つめていた。




