第三章 34 『私の火』
最後の固定点は、祭典設備の隙間で黒い反応を脈打たせ続けていた。
指先ほどの範囲を焼き切れば済むのに、そのすぐ横には照明線と給水設備が重なり、少しでも炎を広げれば避難通路側まで影響が出る。
その前で、リリカは右手を下ろしたまま動けずにいた。
「私は、師匠みたいにはなれない」
自分で口にした言葉が、まだ胸の奥へ重く残っている。
何度フィナと同じように手を伸ばしても、火は出なかった。
術式を使わず、ただ望んだ場所へ現象を成立させるフィナのやり方を追っても、自分の魔力は途中から慣れ親しんだ術式の道を探してしまう。
「……ごめんなさい」
リリカは俯いたまま、小さく拳を握った。
「私ができれば、ここを切れるのに」
「なんで謝るの?」
すぐ近くから返ってきた声に、リリカは顔を上げた。
フィナが目の前に立っていた。
「だって、本当なら私が一番向いてるんですよね」
「うん。小さい火なら、リリカすごく上手だもん」
「でも、出せません」
褒められたことが、今は余計に悔しかった。
「フィナ師匠みたいにできたら……こんなの、すぐなのに」
フィナはすぐ答えず、リリカの右手と固定点を交互に見た。
難しい術式理論を考えている顔ではない。むしろ何か単純なことへ気づいた時のように少し首を傾げ、それから本当に不思議そうに口を開いた。
「私の火じゃなくて、リリカの火でいいんじゃない?」
「……え?」
「だって、必要なのは私みたいに火を出すことじゃないよね」
フィナは設備の隙間にある黒い固定点を指さした。
「そこだけ焼ければいいんでしょ?」
「それは……そうですけど」
「だったら、リリカが一番得意な火でやればいいと思う」
リリカは答えられなかった。
自分が得意な火。
その言葉を考えようとすると、今までは必ずフィナの姿が浮かんでいた。
もっと速く、もっと強く、もっと簡単に、いつか師匠と同じように魔法を使えるようになりたいと思っていたからだ。
けれど、これまでの練習を思い返せば、結果はいつも同じではなかった。
フィナの真似をして直接火を出そうとした時より、杖を使って自分の魔力を整えた時の方が安定した。
初級魔法競技の予選でも準決勝でも、模倣に寄せた瞬間には精度を崩し、自分のやり方へ戻した時に標的へ火を届けられた。
「私の……得意な火」
リリカは自分の杖を見つめた。
大きな炎なら、フィナには届かない。
どれだけ練習しても、初級火魔法一つで山や地形を変えるような力を持てるとは思えない。
速度を競えば、エルナの雷には追いつけない。
複雑な術式をその場で読み解き、組み替える技術ならレオンに遠く及ばない。
それでも、自分にも何度も褒められたことがあった。
「小さい火……」
リリカはゆっくり杖を持ち直した。
「必要な場所にだけ出すのは、ずっと得意でした」
エルナが少し離れた場所から固定点とリリカを見比べる。
「そうね。そこは最初からあんたの長所よ」
「調理の火も、灯火も、標的の一点だけ焼くのも」
「前の分身体も、爆発術式へ繋がってる線だけ焼いてた」
ネムが短く付け加えた。
リリカはその言葉に目を丸くしたあと、少しだけ唇を噛んだ。
全部、自分がやったことだった。
フィナのようになれたから成功したのではない。
必要なところだけを見て、自分の魔力で、自分が扱える火を置いた結果だった。
「でも、今は初級火魔法そのものが止められてます」
「その通りだ」
レオンは固定点の前へしゃがみ込み、携帯型測定器を石畳へ近づけた。
「いつもの《火珠弾〈ブラーサ〉》をそのまま使えば、最後に共通基底を通る。そこは今も反魔法に否定されてる」
「じゃあ、やっぱり……」
「そのままならな」
リリカが顔を上げる。
レオンは測定器の記録から、リリカがこれまで使ってきた初級火魔法の術式を表示した。
「フィナの真似をする必要はない。お前まで術式を捨てる必要もない」
「でも、共通基底が使えないんですよね?」
「なら、使わなければいい」
「それ、フィナ師匠と同じでは……?」
「違う」
レオンは即座に否定し、術式図の最後にある共通部分だけを指で示した。
「フィナは最初から術式そのものがない。お前は術式を使う。その違いは消すな」
エルナも隣へしゃがみ、表示された火魔法の経路を覗き込む。
「初級魔法の共通基底って、誰でも安定して使えるように揃えられてる部分でしょ?」
「ああ」
「だったら、リリカ専用に組み直すことはできる?」
「理論上はできる。ただし、普段より扱いにくくなる」
レオンは既存術式の一部を閉じ、リリカが普段どこから魔力を流しているかを別の線で表示した。
「共通基底を外して、お前自身の魔力経路から直接、火属性術式の成立部分へ繋ぐ。現代魔法として必要な変換も制御も残す」
「私専用の……術式」
「そうだ。汎用性は落ちるが、お前には合う」
リリカは表示された線へ見入った。
フィナのように、何もないところから火を生み出すわけではない。
自分には術式が必要だ。
魔力を整え、火へ変え、必要な場所へ届けるための道筋がいる。
それは、できないことではなく、自分の魔法の形だった。
「……やってみます」
リリカは杖を固定点へ向けた。
いつもの初級火魔法を組み始め、途中で止める。
共通基底へ流れようとする魔力をそのまま進ませず、自分が最も自然に扱える経路へ引き戻した。
「急ぐな」
レオンは隣で測定器を見ながら、術式へ直接触れずに指示を送る。
「俺が作るんじゃ意味がない。お前の魔力がどこを通りたがるか、自分で見ろ」
「はい……!」
最初の組み直しは、火へ変換する直前で崩れた。
リリカは息を吐き、すぐ二度目へ入る。
「ここ、細くしすぎじゃない?」
フィナが術式図を覗き込む。
「分かるの?」
エルナが驚いて横を見る。
「分かんない。でもリリカ、そこやる時いつも苦しそう」
「感覚だけで術式指導に参加しないで!」
「今ちょっと当たってたよね!?」
レオンは一瞬だけ黙って測定値を確認した。
「……流量は実際に詰まってる」
「ほら!」
「喜ぶな。説明できないなら指導には使えない」
「厳しい!」
緊張していたリリカの口元が、ほんの少し緩んだ。
三度目。
今度は無理にフィナの魔力操作へ寄せず、自分が普段やっているように杖の内部で流量を整える。
火へ変える量を極端に増やさず、必要な温度だけを維持し、固定点へ届いたあとすぐ消えるよう持続も短くした。
「必要な場所へ……」
リリカは黒い反応の中心だけを見つめる。
「必要な温度で、必要な時間だけ」
自分が何度も練習してきたことだった。
派手ではない。
フィナのように世界の方が従ってくれるわけでもない。
それでも、一つずつ組み立てれば、自分の魔力はちゃんと答えてくれる。
「共通基底、避けた」
ネムが術式の流れを感じ取り、僅かに目を開いた。
「まだ消されてない」
「そのまま維持!」
エルナの声に、リリカは杖を握る指へ力を込める。
最後の成立部分を、自分の魔力の癖に合わせて繋ぐ。
術式は揺れた。
それでも壊れない。
王都全域を覆う反魔法は、いつもの共通基底を探すように周囲へ圧力をかけたが、組み直された術式はその場所を通らず、リリカ自身の経路を使って最後まで形を保った。
「……できる」
リリカの声が震えた。
フィナがすぐ隣で笑う。
「うん。リリカの火だね」
その言葉を聞きながら、リリカは固定点へ向けて杖先を静かに合わせた。
自分はフィナにはなれない。
けれど、それでよかった。
フィナのように術式を捨てるのではなく、術式を使う自分だからこそ作れる火がある。
リリカが最後の魔力を繋ぐ。
新しく組み直された、自分自身のための初級火魔法。
《心火一灯〈カンデリア〉》。
杖先より少し前の空間で、ごく小さな橙色の光が揺れた。
やがてその光は消えることなく形を整え、リリカの指先ほどの小さな炎として、確かに灯った。




